アクシデントの後に

 ぼんやりと開いた目にもう見慣れた天井が映る。目が覚めたのだと気がついたのはそんな天井を十秒近く見やってからだった。寝間着代わりの部屋着が汗を吸ってじっとりとしていて気持ち悪い。

 栞は重たい身体を起こすと机の上の時計を見やった。

 十六時半を過ぎた辺り。もう午後の発表も終わっている。今頃は片づけの最中か……栞が体調不良で先に寮に帰ったことはもう教師の間では伝わっているだろう。おそらく次に出勤した時には学年主任辺りから「体調管理が出来ていない上に行動が適切でなかった」といったような小言を言われるだろうが仕方ない。今回ばかりは栞の落ち度だ。

 と、そんなことを考えているとコンコンコンとノックの音がした。返事をすると扉が開いて御門が姿を見せた。


「どう? ちゃんと休んでた?」

「ええ、言われた通り。今しがた目が覚めたところです」

「よろしい」

「明日は休みですし、明後日までには治さないといけないですから」

「無理は禁物よ……とは言っても教師ってのはそれで大人しくはいはいと従うような連中じゃないってのは私もわかってるけど」


 ため息交じりにそんなことを言いながら御門が簡単に栞の身体を見る。熱は三十七度九分。ほんの僅かの違いではあったが、それでも身体のしんどさは結構違うように感じられた。もしかしたら薬のおかげかもしれない。


「まぁ、この分ならそうひどくもならないでしょう。職員さんには連絡を入れてあるし、もう聞いたと思うけれど何か食べられそうだったら内線で連絡ね。消化に良い食べ物を作って持って来てもらえるわ。その辺の病院食よりはるかに良い物が出てくるから記念に食べとくべきだと私は思うわよ」

「なら一食ぐらいお願いしてみるのも良いかもしれませんね」

「ええ、そうしないさい。あと、寮監の仕事は私がやっておくから」

「良いんですか? そんなに重病人ってわけでもないですし、そのくらいなら出来ますけど」

「休める時は休む。それが病人の仕事よ」


 なんて言いながら御門は部屋を後にした。

 若干身体は重たくはあったが、それでも汗を吸った服を着ているのも気持ちが悪い。ざっとタオルで汗をぬぐってから服を着替える。

 と、着替え終わってからそう立たない内に再びドアがノックされた。誰だろうかと思うと、入って来たのは白薔薇寮の世話を担当している職員さんだった。


「何かお手伝いすることはございませんか?」


 御門とそう年の違わないだろう彼女はそう聞いた。


「汗もかいているでしょうし、一度着替えてはいかがでしょう?」

「ああ、それならもう着替えました」

「そうなのですか……言っていただければお手伝いいたしましたのに……」


 栞は苦笑した。ジョークというわけじゃなだろう。多分頼めば本気であれやこれやと世話を焼いてくれるに違いない。が、生憎栞はそこまでお嬢さまに扱われた経験はなかったし、されたいとも思わなかった。


「食事はどうされますか? 少し早いですが、食べられそうであれば今から準備させますが」

「そうですね、こういう時はさっさと食べて寝てしまうのもありですね」

「はい。十分な栄養と休息が風邪には一番ですから。何か食べたいもののご希望は?」

「いえ、作っていただけるものならなんでも。おかゆでもうどんでもお任せいたします」

「承知いたしました」


 そう言って頭を下げ、職員は栞の部屋を後にした。

 ベッドに横になったまま読みかけの文庫本を開いていると二十分も経たない間に夕飯が運ばれてきた。が、今度は二人だった。

 何かと思うと、一人は介護用か何かの昇降式キャスター付きサイドテーブルを運んできたのだった。てっきりおぼんか何かをベッドに乗せたまま食べるものとばかり思っていたが、この辺りも流石の『櫻ノ宮』といったところか?

 運ばれて来たのはおかゆだったが、おかゆと言ってももちろんただの白かゆではない。ニンジンやネギなどの野菜が細かく刻まれ、白身魚の身がふんだんに入れられている。それが卵でとじられたなんとも豪勢なたまごがゆだ。


「食事の介助はいたしますか?」


 さり気なく聞かれた言葉だったが、望めばレンゲですくって口元まで持ってきてくれるということに違いない。一体どこまでやってくれるのかという興味もあったが流石にそれは恥ずかしい。

 まるで一流の大病院の個室患者になった気分だなどと思いながら栞はおかゆを平らげた。味が良いのは百も承知だったが、その美味しさは今まで栞が食べてきたおかゆというものの概念を少し変えてしまうくらいのものだった。


「それでは、しっかりとお休みになってください」


 そう言って下がる時もきちんと食後の薬を忘れないように渡し、着替えて脱いで放っていた服を洗濯物として回収してくれる。前から思っていたことだが、この櫻ノ宮の寮付きの職員たちはどこの家のメイドや家政婦としても一流にやっていけるに違いない。

 薬を飲んで横になると、食べたこともあってか眠気があった。先ほどぐっすりと眠ったおかげでそこまで深い眠りには落ちなかったが、どこか温かい海をたゆたっているような心地の良い眠りだった。



 うとうとと眠りながらどのくらい経ったか?

 コンコンコンという少しせわしいノックに意識がのぼってくる。ぼんやりとしたまま返事を返すと、「燕城寺です」という声が聞こえて、はっきりと意識が覚醒した。


「先生っ」


 入ってきた彼女はなんとも言えない表情を浮かべていた。


「おう、何かあったのか?」


 上半身を起こして時計を見ると二十一時の少し前だった。夜の点呼が終わり、消灯までの自由時間である。


「何かあったのか、ではありません。先ほど寮監のお仕事を御門先生がおやりになっていたのでどうしたのかと思って聞いたら、先生は風邪をひいて休んでいると言うじゃありませんか」

「ああ、恥ずかしいことにな。この年になって自己管理が出来てないというのも社会人失格だ」

「先生!」


 再びそう言って若干詰め寄るように董子がにじり寄る。


「朝はそんなことございませんでしたよね? 午後から悪くなったのですか?」

「いや、朝から風邪っぴきだったんだ。まぁなんとかなるだろうと昼までは業務をしていたんだがな……後から御門先生に叱られたよ。生徒たちに移すつもりか、とね」

「なんで朝にそうおっしゃってくださらなかったんですか?」

「確かに色々なことを考えたらそうするべきだった。配慮が足りなかった。反省してるさ」

「そうではございません!」


 栞の言葉を董子がばっさりと切った。普段感情を表に出さない彼女にしては珍しく言葉に表情がある。一体何をそんなに言っているのかと栞が呆けていると董子は言葉を続けた。


「先生が体調を崩していると知っていたら私が付きっきりで看病いたしましたのに……。あろうことか、私はその間のうのうと、どのような感想文を書けば桑田先生が納得してくれるかなんてことを考えながら発表会を見て回っていたなんて……」

「何おかしなことを言ってるんだ。それが学生の本分だろう? ましてや看病を生徒にやらせる教師がどこにいる?」

「でも!」


 董子はベッドの上の栞の手を取った。


「先生……先生は私にとって先生なんて言葉では到底収まりきらない存在なんです」

「燕城寺……」

「先生が困っている時には助けとなりたいのです。苦しんでいる時にはそばにいたいのです。学生としての本分なんてそれに比べたらどれだけ些細なものでしょうか?」

「あのな、燕城寺……そうは言ってもお前はあくまでも私の教え子だ」

「ですけど、先生はおっしゃってくださいました。自分のことを姉だと思いたければ思えばいい、と」

「それは……」


 その言葉に「ものの例えだ」なんてことはとても言えなかった。実際、今こうしてあくまでも教え子だと言っている口で栞は彼女との接吻を楽しんでいる。深夜の密会に心を満たしている。自分がそうしているのに彼女にはあくまで教え子でいろというのはあまりにも自分本位というものだっただろう。


「……悪かった」


 少し考えてから栞はそう言った。


「そうだな。看病をさせることはまずなかっただろうが、お前には知らせてやるべきだったかもしれないな。こうまで心配させてしまうつもりはなかった」

「もう決して無理などなさらないでください……」

「別に無理をしたつもりはないさ。それに、別に今だって重病というわけじゃない。ただの風邪だ」

「それでも、先生に何かあったらと思うとどうしようもないのです」


 董子はベッドで上半身を起こしたままでいる栞を抱きしめた。


「どうか、私を一人にしてしまうようなことはしないでください」


 それは彼女の心からの言葉だったのかもしれない。

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