準備期間

 正直な話、外の世界を知っている栞からすれば部活発表会なんて名前のお堅いものを生徒たちが楽しみにしている理由がよくわからなかった。外からの来客が多少なりともあるのであればそれもまた彩りかと思えるものの、そういったものもなし。自分たちの成果を発表する場にいるのは見知った顔の友人や教師たちだ。

 けれど、それでもこの鳥かごのような世界からすれば立派な娯楽らしかった。


「やはり加賀美先生にお頼みして正解でした」

「頼むからもうこれっきりにしてくれよ。国語科の教員って言ったって書道に自信があるわけじゃないんだ」


 栞は安堵の息を吐きながら右手に持った筆をそっと降ろした。幅広の木板は全く素人の栞が見てもかなりの額がするものだろうと想像出来た。整えられた木目に薄っすらと墨汁が染みるがそれもまた一つ味があるように感じられる。


「でも、本当にお上手ですわ」

「ええ。私たちではどうやってもこうはいきません」


 そう言って写真部の生徒たちは盛んに栞の書を褒めた。

 『写真部』と楷書体で書かれたそれは部室の所に掲示するらしい。昔からのものももちろんあったのだが、随分古びてきていて、今年の部活発表会を機に新しいものへと変えようと部員たちの中でなったらしい。

 そして、文字を書く役目として栞に白羽の矢が立ったというわけである。


「書道部もあるんだ。その連中に頼むとか……書道部の顧問の安田先生なんてもっと達筆だろう?」

「でも、それではなんだか負けた気がするんですもの」


 部員の誰かが言った。


「負けたって、誰に?」


 問うと栞に一番に頼みに来た写真部の部長が答えた。


「最初は私たちも書道部の部長さんに頼もうと考えていたんです。ですけど書道部の方たちったら、書くのは良いけれどその代わり部活発表会の写真部の一番良い場所に筆でしたためる部長の姿の写真をパネルで飾ってくれと言うんです」

「なるほど、取引というわけか」

「ええ。でも、私たち写真部のモットーは自分たちが一番に思えた写真を一番の場所に飾ること。書道部の方々の要求を飲むわけにはいきません」


 まぁこういうやり取りもある意味青春の一ページなのかもしれない。少なくともそういった張り合いがあることが悪いことだとは思わなかった。

 これから彼女たちは本格的にどの写真をどこに飾るのか、パネルの配置をどうするのか話し合うらしい。

 栞はそんな写真部の部員たちと別れると、「えほん」といがらむ喉に手をやってそのまま保健室へと足を向けた。普段の授業はないし、はたして御門はいるだろうかと考えていたが、扉のそばには在室中の札がかけられていた。


「加賀美先生?」


 ノックをやって、御門の返事があってから中に入ると御門は栞の顔を見てそう怪訝そうな顔をした。


「一人? 董子ちゃんは?」

「今日はまだ見てません。何かありましたか?」

「いや、それはこっちが聞きたいことかしらね……加賀美先生が一人で来るなんて珍しいし、何か彼女のことで聞きたいことでも?」


 そう言う御門につくづく自分と彼女の繋がりは董子なのだと感じさせられる。まぁ、確かに今まで櫻ノ宮に来てからそういった付き合いしかしていないから当然だろう。


「そうじゃなくて、今日は私の具合が少し好くないんです」

「あら」

「まぁ、ただ単に喉がいがらっぽいっていうだけで……何か薬とかありますか? 喉にスプレーするタイプの薬とか、のど飴なんかでも良いんですけど。生憎、私はそういうの常備していないんで」

「一応診てみましょうか。夏の疲れも出てくる時期だし」

「それには及びません。熱っぽくもないですし、多分ちょっと喉をやられただけだと思います。身体が丈夫なのだけは取り柄で、風邪なんて滅多にひいたことないんです」

「そういう考えが一番危ないの。少なくともこの部屋では私が主なんだから、それに従ってもらうわよ」


 なんて言いながら御門は自分の前の丸椅子を指して栞を座らせる。董子とは違って栞は病院に慣れてるというわけじゃない。のど飴か風邪薬でももらえれば良いかと思っていたのに、「はい、口開けてー」などと言われ、ステンレスの平べったい器具で舌を押さえられて中をのぞかれる。そんなことをされると本格的に自分が病人になってしまったような感覚がした。


「別に喉が腫れてる……っていう様子はないわね。あと体温計」


 渡されて、しぶしぶ腋に挟む。二十秒もすればピピピッと電子音が鳴った。取り出して見れば『36.4℃』と至極真っ当な平熱がそこには示されていた。

 それを見て、ふむ、と御門は一つ息を吐いた。それから机の隣にある両開きの棚を開ける。


「一応喉によく効く総合感冒薬があるから何回か分渡すけど、風邪薬って基本的に治す薬じゃないのよ。聞いたことある?」

「ええ、小耳に挟んだことがあります」

「風邪薬はあくまでも対症療法。風邪を治すならしっかり栄養のあるものを食べてしっかり休むしかないのよね。加賀美先生、食生活は悪いみたいだしなんだかんだで結構働き者だから心配ね」

「そうですか?」

「よくやってると思うわよ。ここってバックアップ体制が整ってるから、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜けるもの。それに加賀美先生には董子ちゃんのことも面倒みてもらっちゃってるから」


 そんなことを言われながら栞は風邪薬の錠剤をワンシート受け取った。服用は一回二錠で一日三回。名前を聞けば栞も聞いたことがあるごくごく普通の有名なものだった。


「インフルエンザとかそういう可能性は低いと思うけど、扁桃腺がやられちゃうっていう可能性はあるから。微熱程度ならまだその薬でオッケー。ただ、三十八度を超えるような熱が出た場合はまた知らせてちょうだい」

「そんな、大げさですよ。ただ喉が少し違和感があるだけなんで」

「大げさで物事が済んだら安いのよ。その時は笑って終わらせれば良いんだから。逆に軽く見て大ごとになったら面倒でしょう?」

「まぁ、それはそうですけど……」

「今日はこれからどういう予定? 確か発表会の準備期間だから授業はないわよね?」

「ええ。ただ何で声がかかるかも知れないので国語科準備室か職員室にいようとは思ってますが」


 栞の言葉に御門は何度か頷いた。


「まぁ、とにかくくれぐれも無理はしないように。今日はちゃんと食堂で栄養あるもの食べて、暖かくして寝なさい。発表会が無事に終わったら董子ちゃんにご褒美あげるんでしょう?」


 その言葉にピクリと反応する。


「どうして御門先生がそのことをご存じなんですか?」

「董子ちゃんからこの前聞いたのよ。随分と嬉しそうに言ってたわ。あんなに嬉しそうな彼女を見るのは初めてってくらいに」

「不用意な約束をしちゃいましたかね?」

「どうだろう……?」


 少し考えるように御門は宙に目をやった。


「元々欲しがりの子じゃないからこういう時には結構無茶なこと言いそうな気もするけど……それでもなんだかんだ彼女は常識のある子だものね。加賀美先生にとってそう難しいことは言われないんじゃない?」

「そう願ってます」

「このところは発作もないし、検査結果も悪くない。加賀美先生の貢献の度合いって本当に大きいと思ってるわ。ご褒美っていう意味なら加賀美先生にこそ何かご褒美をあげなきゃいけないんじゃないかってくらい」


 ご褒美。その言葉に栞の脳裏にはいつも血をやった後のやり取りがよぎった。

 幼い唇に小さな舌。それを絡め取り、細い身体を抱き込んでする接吻は栞にとって堪らないものがあった。特別小児性愛の気があるつもりはなかったが、それでもそうしている時には自身はこの世界でも確かな幸福者であるように感じているのも事実である。この世界であの美しい少女を味わえているのは自分だけなのだと思うと、それに勝る報酬はないように思えた。


「加賀美先生?」


 御門の言葉に栞はふっと我に返った。ちょっとの間だったが惚けていたらしい。


「大丈夫?」

「……ええ。ご褒美と言われて、御門先生なら何を下さるんだろうとついつい考えてしまって」

「そうね、街で一杯おごるくらいなら全然ありだけど……加賀美先生はお酒は結構飲む方? 確か煙草はやらないって言ってたわよね?」

「ええ、煙草は全然。お酒は嗜む程度です。うわばみというわけじゃないですけど……どちらかと言えば日本酒より洋酒が好きですね。父が少しばかりコレクションをしていて、その影響かブランデーなんかを飲むことが多くて」

「へぇ、コニャックとか?」

「そうですね。クルボアジェ、ヘネシー……レミーマルタンとか」

「なるほど、良い趣味してるじゃない」


 言って御門は綺麗に口を三日月に微笑ませた。ある程度の年をとった女性だけが出来る深みのある微笑だった。


「良いわ。今度機会があったらおごってあげる。それなりには良い店を知ってるのよ。ここからだとタクシーを使わなきゃいけないのがちょっと面倒だけど」


 それからまた少し雑談をしてから栞は保健室を後にした。

 職員室と国語科準備室のどちらに戻ろうか悩んだが、職員室にいては発表会の準備の手伝いをしている他の教師に捕まって面倒に巻き込まれかねない。結局、自販機を経由してから国語科準備室へと足を向けた。発表会の準備はなくとも、発表会が終われば中間考査の時期がやってくる。テストについて今から考えておいた方が良いように思えた。

 準備室に着いてからもらった薬を飲むとすぐに喉のいがらっぽさも気にならなくなった。自販機で買った缶コーヒーのプルトップを開け、栞はいつものノートパソコンの電源を入れた。

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