始まり

 寮の案内の件で知り合った栞と董子だったが、すぐに親しい関係になったわけではなかった。栞は生徒に深く関わって指導をするような熱血の教師ではなかったし、董子も最初は栞を特別視するような様子は見られなかった。一学期が始まり、ひと月はお互いに教師と生徒以上の干渉をしなかったように思う。

 それが、董子が栞にはっきりと興味を示すようになったきっかけは小さなお御堂での出来事だった。



 櫻ノ宮が創られたのは明治の終わり。今でこそ宗教色はほとんどなくなり、ただご令嬢を閉じ込めておくための学園になっているが、設立された時はカトリック系の学校であった。そのため、広い敷地内をくまなく探してみるとその頃の名残が所々に見受けられる。敷地の中でも生活施設や学業施設から離れた場所にあるお御堂もその一つだった。

 六月になろうとしていた時だった。

 せっかくの日曜日だというのに空には一面ねずみ色の雲が立ち込め、べたつくような妙な湿気があった。

 寮監という役目を「いくら良い給料もらっても、こんな狭い世界に押し込まれたんじゃ割りに合わないだろう?」と同情してくれる同僚の教員もいたが、実際栞にとっては大した負担にもならなかった。

 酒は多少嗜むものの、煙草やギャンブルはやらず、元々インドア派で街を歩いてウィンドウショッピングを楽しむような趣味もない。

 三年前に恋愛関係で随分と面倒なことに巻き込まれたことも幸いした。

 学生時代の恋愛と社会人になってからの恋愛は随分と構造が違ってくる。高校大学という間に恋愛というお遊びはそれなりにやったし、元より、自分のセクシャリティで生涯のパートナーを見つけるのは簡単じゃないと栞自身わかっていたことだった。父親の会社を継いだ後にでも気が合い、長くやっていける相手をのんびりと探していこう。そう考えていた栞は、二十代半ばにして積極的に恋愛をする気をなくしていた。

 時間を潰すには本があれば十分。

 それこそ、栞が学生の時は本の虫だった。

 小学生高学年の時から始まり、栞は『本さえ渡しておけば大人しくしていてくれる子』と両親が言うくらいだったから筋金入りだろう。運動が特別苦手という意識はないし、人並みには出来ていたとは思う。それでも身体を動かすのを億劫に感じていたのは間違いない。

 そういった意味で言えば櫻ノ宮は恵まれた場所に違いなかった。

 戦火などで多少は失われていたが、明治から脈々と受け継がれてきたものが多く残されていた。生徒が使う図書館とは別に建てられた古書館なんかは良い例だ。

 古書館は読んで字のごとく、すっかり古くなり、もう誰も読まなくなったような本たちが収められた建物だった。データ登録などされていないから何がどう眠っているかもわからない。それほど大きくない建物ではあるものの、中には何十本もの書架がずらりと並び、古本の匂いがそれこそ何年もの月日をかけて熟成されたかのようによどんでいる。本嫌いの人間からしたら吐き気を催すものだったかもしれないが、栞にしてみれば宝の山だった。

 じっくり書架の一本一本を見ていくと、それまで名前でしか聞いたことのなかった作家の貴重な同人誌が残されていたり、大きな図書館にはあるものの貸出し禁止となっているような絶版本が無造作に収められたりしていた。しかも、それがここでは自由に自室に持ち帰ることが出来るときている。



 その日も栞は何冊かの本を古書館に返し、代わりに二冊の文庫を自室に借りて帰ろうとしていた。古書館を出て五分、空から突然ポツリと水が落ちてきた。大きな雨粒。空を見上げ、これは一雨くるぞ。そう思った次の時には次から次に水滴が顔を叩き始めた。

 せっかくの稀少本を濡らすわけにはいかないと、慌てて近くの西洋風の建物の軒下に避難する。すぐに雨は本降りとなり、地面を叩く音で周囲は一杯になった。

 自分が避難している建物がお御堂だと気がついたのは雨宿りを始めて二三分経った頃だった。

 敷地の中にお御堂があるということは一応知っていたものの、なんせ櫻ノ宮の建物の多くは西洋風な作りをしているものだから外見でぱっと判断するのは難しい。その時栞がお御堂だと気づいたのも、正面入り口の両開きのドアの上に十字架が掲げられていたからだった。

 十分経っても雨が止む気配は見られない。おまけに雨のせいで一気に気温が下がったらしい。肌に触れる空気は冷たく、軽く身震いしてしまいそうだ。

 しかし、だからと言って無理に行こうとすれば、走ろうがどうしようが寮に着く頃には濡れ鼠になっているのは間違いないように思えた。西の方は僅かに明るくなっているように見えたし、栞はこのお御堂で少し時間を潰すことに決めた。

 鍵がかかっているかもしれない。そう思いつつ飴色の扉に手をかけると、予想に反して扉は簡単に開いた。

 ぎぃと独特の音を立てて空気が動く。照明はついておらず中は薄暗かった。そんなに大きくない部屋の中、長椅子が二列になって八台ほど並んでいる。正面の十字架をステンドグラスを通した淡い瑠璃色が包んでいた。

 お御堂と呼ばれるものに入ったのは栞自身初めてのことだったが、厳かな空気は感じ取ることが出来た。ドアが閉まり、古い木の薫りが立ちこめ、パタパタと屋根に当たる雨の音が優しく感じられる。キリスト教に相応しい場所というものがあるのかどうか栞は知らなかったが、少なくともここはそれに該当するんじゃないかと感じられた。


「どなたですか?」


 最初、天使か何かに声をかけられたのかと思った。

 薄暗かったのに加え、誰かがいるとは露とも思っていなかった。


「加賀美先生……?」


 一番前の椅子に座っていたのは董子だった。日曜日だというのにきっちりと制服を身に着けている。ただ、普段蛍光灯の元で見る彼女とは雰囲気がまるで違っていた。

 柔い光が彼女を異様に美しく見せる。艶のある髪が僅かに光を反射し、雪をも欺くような白肌は絹のようななめらかさを感じさせた。天使か何かに声をかけられたと思ったのはあながち間違いではなかったかもしれない。そう思えたほどだった。栞の胸の中で心臓がトクンと一つ大きく打った。


「どうしてこちらに?」


 はっと我に返る。


「……ただの雨宿りだ。古書館に寄った帰りに急に降り出してな」

「そういうことですか」


 董子が小さく微笑む。形を作っただけの笑み。

 考えてみれば栞は初めて会って、スナック菓子を彼女に渡した時以外に彼女の本当の顔を見たことがないように思えた。彼女はいつも中学生らしからぬ仮面をその顔にかぶっている。


「そういう燕城寺はどうしてここに?」

「どうしてと言われても……大した理由もありません。日曜日はいつもここに来るのが習慣になっているんです」

「そうなのか?」

「ええ」


 栞は一番後ろの長椅子に座るとじぃと董子の身体を上から下まで見やった。

 背筋を伸ばし、ピンと張り詰めた弓のような空気を纏わせている。お御堂に来るのが習慣になっていると言う割にまるで安らいでいる風はない。今から決して帰ることの出来ない戦地へと赴くのだと言われた方がまだ何倍も納得してしまいそうだった。


「……Take heed that ye do not your alms before men.」

「え?」


 ほんの思いつきで栞が言うと、きょとんと董子が首を傾げた。

 一秒二秒、そのまま少し考えたようだったが、すぐに言葉を返してくる。


「……to be seen by them, and if not ―― reward ye have not from your Father who is in the heavens. そう答えればよろしいのでしょうか?」

「完璧だな」


 マタイによる福音書六章。

 見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 中学生でこの聖書の言葉を英語で覚えている子がこの国にどのくらいいるだろうか? 少なくとも、溢れんばかりに砂が入った袋からちょいとつまんだ一つまみと言って良いくらいの人数に違いない。


「流石、先生は博識でいらっしゃるのですね」

「皮肉か?」

「いえ、クリスチャンでもないのにこの言葉を覚えてる人はあまりいないと思いますので」


 董子は優雅な姿勢で栞の座っている椅子に近づくと、「よろしいですか?」と表情だけで問うてくる。栞がそれに「好きにしろ」という様子で頷くと、通路を挟んだ向かいに腰を下ろした。


「そう言うお前はクリスチャンなのか?」

「どうしてでしょう?」


 毎週お御堂に通っているのだから、クリスチャンに思えて当然ではないのか?

 そんな風に董子の目は語っていた。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだが、彼女はその年齢にしてその方法を完璧にマスターしているらしい。天性の才か、複雑な人生によって後天的に身についたものかはわからない。どちらにしろ子供らしいという言葉からはかけ離れているだろう。


「ざっくり言うと雰囲気だな」


 栞は長椅子の背もたれを器用に使って頬杖をついた。


「私にはお前が、天にましますわれらの父よ、なんて祈りを捧げているシーンを思い描けない。もちろん、その姿だけを見て言うなら似合うだろうけどな。けど、お前はどんな状況になろうとも神になんてすがるような性格じゃない。信じているのは己自身のみ。死ぬも生きるもこの手にかかっている。そんなことを言う方が似合ってる」

「それはまた凄い言われようですね」


 董子がクスクスと笑う。


「実際そうだろう? お前は自分で全てを何とかしなきゃいけないと思ってる。起こる物事全部、自分で片をつけるのが筋だ、と。……お前は年齢に比べて片意地を張り過ぎなんだよ、燕城寺。見ているこっちの方が苦しくなってしまうくらいに」

「でも、実際その通りの人生ですから」


 悟ったような表情だった。十三、四の子供がする表情には思えなかったし、するべき表情とも思わなかった。そして、それと同時に栞には多少の違和感を覚えた。全身を固い鎧で覆っているような董子だからこそだからだろうか?

 ふと、一つ思いつく。


「なぁ、燕城寺」

「はい?」

「お前はさておき、亡くなったお父さまはクリスチャンだったんじゃないか?」

「ええ、そうでした。もっとも、あまり敬虔な、とは言えなかったと思います。あえて言うならといったぐらいでしょうか。よくおわかりになりましたね」

「毎週ここに来てると言っただろう? ここの雰囲気が好きだとか落ちつけるとか理由は色々あるのかもしれないが、一番の理由は父親に会いに来てるんじゃないか、と思ってな」

「私が、父に……?」


 その言葉に董子は表情を崩した。予期していた言葉じゃなかったらしい。驚きと言うより戸惑いと言った方が良いかもしれない。

 小さな呼吸音が静かなお御堂の中で聞こえてくるような気がした。董子は顔を俯き加減にして、何かを思い出そうとするかのように視線を動かしていた。それは作りものでない……おそらく彼女本来の表情に違いない。

 そして、たっぷり時間を使ってから、


「……そうかもしれません」董子は言った。


 声が微かに震えている。表情は元の澄ましたものに戻ろうとしているのだが、いつものようにすんなりとはいっていない。どうやら図星らしい。董子は言葉を続けた。


「考えてもみませんでした。私はなんとなくここに来ている。特に理由はないけれど、静かなここが気に入っているものとばかり思っていました。けれど……先生にそう言われるとまったくその通りな気がします。私はここに父を求めていたんです。ここに来れば父に会える。心のどこかでそう思っていたのかもしれません」

「お父さまとは仲が良かったのか?」


 栞の言葉に董子はどこか嘲るような表情を見せた。


「少なくともそう言えるだけの交流が私と父の間にはありませんでした。父は忙しい人でしたから。それに、今考えると私は父が苦手でした。父も私のことを扱いにくい子供だと思っていたのではないかと思います」

「それでも、お前は無意識の内に父親の姿をここに求めていた。不思議なものだ」


 それに董子が首を振ってみせる。


「何も不思議ではありません。きっと私は、父に復讐をしたかったんです」

「復讐?」

「その通りです、先生。これはきっと、復讐なんです。復讐をするためにここに通っていたんです」

「それは……穏やかじゃないな」

「でも、それが事実ですもの」


 彼女の微笑みはそれまでに見た微笑のどれとも違っているように栞には感じられた。自分自身でも見つけられなかった答えを見つけた喜びや、彼女の言うところの復讐に駆り立てる怒りや憤り、それを他者から指摘されたことの驚き。とにかくそんな様々な感情がまぜこぜになって、それが一つの表現しがたい表情となって外に表れているようだった。

 どんな人生を送ればこんな中学生になれるのか栞には見当もつかなかった。これも、『櫻ノ宮』だからこそのものなのだろうか?


「だとしたらお前は間違ってるよ、燕城寺」

「そうでしょうか?」

「生憎だが教会で出来る復讐とやらを私は知らないな。復讐するなら五寸釘に藁人形だ。聞いたことぐらいあるだろう? 丑三つ時に神社の神木に五寸釘で藁人形を打ち込むんだ」


 大真面目に言ってやると、董子は動きを止め、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべた。

 おおよそ五秒。

 僅かに広がった沈黙を破って、董子が唐突にくすくすと笑いをこぼす。

 大きく笑うのはなんとか堪えているようだが、それでも次から次に身体から湧き上がってくる笑いを抑えられない様子で肩を震わせる。

 結局、一分近く董子はそうやって笑い続け、それがなんとか収まってから目尻に浮かんだらしい涙を拭いながら言った。


「先生そこは、復讐なんてやめるべきだ、とおっしゃるべきなんじゃないですか?」

「どうしてだ? 子供だって親を恨むことくらいある」

「私の周りには今までそのようなことを言って下さる方は誰ひとりとしておりませんでした。多くの大人の言うことは似たものばかり。判子で押したのではないかと思ったくらいです」

「それはお前が環境に恵まれてなかったってだけだろう? そんな大人ばかりじゃない。もちろん、それが良いことかどうかは別にしてな」

「……そうかもしれません」


 董子は席を立ち上がると、何を思ったか今度は栞の隣に座った。何気なく栞が董子に視線を向ける。


「きっと、先生は本当の私をわかってくださる方なんですね」


 その視線に栞は思わず息をのんだ。

 今まで栞は何人もの相手と恋愛をしてきた。年上もいれば年下もいた。恋愛に不器用な相手を包み込むような恋愛をしたこともあれば、器用な相手と気軽ながらも深い恋愛をしたこともある。

 それでも、かつてこれほどまでに求める目をした人がいただろうか?

 胸の中の心臓がどくどくと早鐘を打つ。

 穏やかな目つき。

 柔らかく巻いた髪と白い肌。

 首筋からセーラー服にかけて流れるラインは美の数式を表しているのではないかとすら思えるほどに艶めかしかった。

 初めてセックスをした時だってこれほどまでに緊張しなかったし、高揚もしなかった。

 栞は自分の胎で炎が燃えるのを確かに感じ取った。

 これが一目惚れというやつなのだろうか?

 いや、厳密に言えばそうではないことはわかる。今までも彼女とは幾度も顔を合わせてきたし、その顔立ちが端正なのもわかっていた。だが、それだけだった。

 なのに、今の彼女はそれまでの彼女とは全く違う顔をしていたと言って良いだろう。それは紛れもなく栞が初めて見る燕城寺董子という人物の顔だった。

 ごくりと生唾を飲み込む。

 これ以上は不味い。

 とっさに顔をそむけて栞はおもむろに立ち上がった。


「雨音が小さくなってきたみたいだな」


 嘘だった。今でも雨粒が地面を叩く音がはっきりと聞こえてくる。パッパッと弾ける雨音が幾重にも響いていて、誰だって雨が止みかけているようには思えなかっただろう。それでも、ここにいたら彼女の視線や仕草に耐えられる自信がなかった。


「私はもう行くとしよう。燕城寺、お前も風邪なんか引かないように注意しろよ」


 捨て台詞のように言って栞がお御堂を去ろうとした時だった。


「ねぇ、先生」

「……なんだ?」


 栞の向けた視線に、董子はちょっとしたお茶会に誘うように……それでいて、永遠の伴侶を求めているかのような口調で言った。


「もしよろしければ、私の姉になってはいただけませんか?」


 これが……言うなれば、栞と董子の関係の本当の始まりだった。

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