初夏

 遠くから運動部の少女たちの声が聞こえてくる。

 夏の気配はもうすぐそこまでせまっていた。肌を撫でていく風は涼しいものの、その中にも確かな熱気を感じさせる。運動をするには少し暑く感じられる季節になってきたのかもしれない。一学期も残すところ僅かなものとなり、新入生たちも独特なこの学校生活に随分と慣れた様子になっていた。

 もちろんそれは運動部に入った生徒だけに限ったことじゃない。春にこの中等部に赴任した栞自身もそうだったし、文化部に委員会……少人数なだけあって、一人の『例外』をのぞいて必ず何らかの団体に入ることを義務付けられているから、この学校は放課後を無為に過ごす生徒はほとんどいない。栞もようやくそんな放課後がいつもの日常に思えるようになってきていた。


「加賀美先生」


 ふいに、後ろからの声に呼び止められる。

 優しいソフトなライトカラーの木目の上に薄紅色の絨毯が敷かれた廊下は一般的な学校より幾分も広い。壁にはちょっとした装飾が施されていて、初めて見る人ならどこかの高級ホテルか何かかと思うだろう。実際、噂には聞いていたものの、栞だって最初はその広さと華やかさに面喰らったものだ。

 まだ女性らしい落ち着きよりも子供のハツラツさが身に宿り、身体にも元気が有り余っている年頃。少しくらいの追いかけっこぐらいなら十分出来そうだけれど、ここの生徒に廊下を走るような子はほとんどいない。

 今声をかけて来た生徒も若干早足だがスカートのブリーツを乱してはいなかった。


 『品格ある振る舞いを』


 それは、明治から続くこの『櫻ノ宮女学校』の大きな教育理念の一つだった。

 中等部から大学まで続いているエスカレーター式の学校ではあり、大学は多くの人に門扉が開かれているが、中学高校はそうではない。圧倒的少人数で全寮制でもある。ここに入学してくる生徒は普段の私生活から礼節を教えられる。


「本日の第二寮生、中等部の出欠簿です。明石さんが体調不良でお休みしましたが、他の生徒は全員出席です。ただ、燕城寺えんじょうじさんは朝礼にはいらっしゃいませんでした」

「ああ、ご苦労」


 燕城寺董子えんじょうじとうこ。彼女が寮の朝礼に参加しないのは珍しいことではない。中にはそれが当たり前だからと報告しない生徒もいるけれど、今月の第二寮の副監督生である三年生の彼女は一々それを報告してくれる。栞は軽く頷く程度で、そのことに深く触れることもない。もっとも、触れたところで何の目新しい情報もない、というのが正しかったかもしれないが。


「明石の具合は? 悪いのか?」

「微熱がある程度です。朝、御門先生に診てもらいましたが、軽い疲労だろうと」


 御門とはこの学園の保健医だった。中等部の保健医であると共に第一寮の寮監で、栞より五つほど年上の女医だ。


「食事の用意はどうなってる?」

「はい。連絡を入れましたので、職員の方が対応してくださるとのことです」

「そうか、わかった」


 出欠簿にサインをして返すと彼女は綺麗なお辞儀を一つしてから廊下を引き返していく。

 確か彼女は美術部に所属していたはずだから、今から部活にでも出るのだろう。よほど目も当てられないような成績を取っていない限り自動的に隣接する高等部に進学出来るこの学校は受験戦争とは程遠い場所にある。

 栞がこの櫻ノ宮に教師として赴任し、第二寮に住むと共に寮監になってからもう三ヶ月になろうとしていた。多少勝手がわかるようになった学院の中、栞は職員室へと足を向けた。

 栞が職員室へ戻ると教員のほとんどは出払っていた。学生に対して教員の数が多く、資金もふんだんにあるこの学校では多くの教員が放課後も部活や委員会で生徒の相手をしていることが多い。


「加賀美先生、お疲れさまです」

「田島先生」


 椅子に座って一息ついた栞に湯呑のお茶を差し出してくれたのは初老に入った男性教師だった。栞がこの学校に赴任してから面倒をよく見てくれている数学科の教員だ。お礼を言って湯呑に口をつける。


「今日はもう寮の方にお帰りですか?」

「いえ、この後準備室で授業の資料を作って……その後で少し文芸部の方に顔を出す予定です。前々から、書いた作品を読んで欲しいと生徒たちに頼まれているので」

「そう言えば、加賀美先生は大学生の時に文芸で賞を取ったことがあるということでしたよね。その気になれば作家として食べていくことも出来たとか」

「そんな、過分な評判ですよ。小さな賞ですし、それだって偶然いただけただけようなものです。それだけで生計を立てるなんてとてもとても」

「ご謙遜を。私も加賀美先生の文章を読むと、自分がいかに無駄に年を重ねてきたのだといやがおうにも感じさせられてしまいますから」


 言いながら田島はそう笑った。髪の薄くなった額をペシンと叩く仕草は年寄り特有の堅苦しさがなく、多感な年頃の女の子からも彼は比較的人気があった。


「でも、教員となってくださったことも天の配剤かもしれませんな」

「そうでしょうか?」

「ええ。この学校の先生方はみな教育熱心ですが、自ら授業の資料の作成までやろうという人はあまりおりません。やろうやろうと思っても、どうしても楽な方へと流れてしまうものです。先生は中間試験の問題もご自分で作成されたと聞きました。その上、授業で使う資料をコンスタントに作っている先生など、私の知る限りでは加賀美先生くらいなものですよ」

「それは単に私が物好きなだけでしょう。教鞭を取るより、資料を作っている時の方が私らしいと感じる時があるくらいなんですから。もしかしたら下請け会社に就職した方が幸せだったのかもしれません」


 栞の冗談に田島が再び愉快そうに笑う。

 この学校は一般的には私立学校に分類されるが、それでも他の私立学校と比べられることはほとんどない。確かに学業のレベルも高い位置にあるのは確かだったのだが、それ以上に一般の生徒を拒んでいるのはその莫大な入学金と授業料だった。そういったものに加えてもろもろの諸経費を入れたら入学金も授業料も比較にするのが阿保らしくなるくらいのものだっただろう。

 それらのお金はこのバカに広い学校施設の充実に充てられている他に、教員の授業の補助にも相当な額が回されていた。必要な教材や資料、中間や期末の試験問題などは、頼めば下請けの会社が期日までにきちんと要望通りのものを作ってくれる。他の学校のように教員がそういったことに駆けずり回る必要がない。栞だって全ての資料を自分で作っているわけではなかった。下請け会社はフル活用させてもらっている。


「正直な話、私は自分が教育者として適格だとは思ってないんです」

「それこそご謙遜を。私の生徒たちも、加賀美先生ほど良い先生はいない、良い先生が来てくれたと異口同音に言っているくらいです。年齢が近いこともあるんでしょうな。なるべき大人の女性としての模範のように見えるのでしょう」

「それは大変。もしそれが本当だとしたら、この学校の生徒の多くが可愛げがなくてつまらない女性になってしまいかねません」


 それに田島はカラカラと笑った。


「いやいや、年頃の子というものは大人の女性に憧れるものです。それも、加賀美先生のような垢ぬけた女性ならなおさらだ」

「単なる物珍しさではありませんか? 私のようながさつな女性は彼女たちの周りにはいないでしょうから」

「がさつだなんてとんでもない。加賀美先生は、言うなれば粋というやつでしょう。そこがまた見た目に好いのです」


 その言葉に栞は微苦笑を浮かべた。肩口でざっくばらんに切られた黒髪を弄る。彼はそう言うが、適当でいい加減。それが栞の自己評価だったし、事実として一度、栞は教員という立場を退かなければいけなかったことがある。

 栞は情熱を持ってこの櫻ノ宮に来たわけでもなんでもない。ここに来たのは……言うなれば事故のようなものだったと言っても良いかもしれない。

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