△3八車兵《しゃへい》(あるいは、雪華結晶/哀切のプリズナー)


 先ほどの静けさとはうって変わって、盤周りには鼻から抜けたような呻き声や、疑問や疑義を呈するかのような咳払いなどが、漂い流れ出てきていた。


 もう勝負は終わったかと思ったのに、何事もなく、するりと次局が始まったからだと思う。私ももう、終わりかと思ってた。もちろん、先に定めた「ルール」では、負けた方がハンデを貰って「降参」するまで指し続けることができることになっていたけれど。今の平手局で、勝敗は……二人の間での「勝ち負け」は決したと思ってたのに。


 ミロカの顔は紅潮し、こわばりまくっている。当たり前だよ、あんな負け方して、平常でいられるわけない。でもこの「香落ち」に勝てば、また「平手」に戻せるって、そう思って感情を噛み殺して指し続けてるんでしょ……でもそれじゃあ……そんな気構えじゃ、勝てるわけないよ。


 以前までは不利な局面になったらすぐ投げていたミロカだけど、それは自分の中で克服し、昇華できたみたいだけど、今のこれは違うよ……意地。意地だけで相手をただ負かそうと、乱暴な手を乱発しているだけだよ。


 ……さっきの局の、お互いがお互いを計って、お互いがお互いを知って、その上で全力でぶつかり合っていたあの、周りで観ているみんなの目を刺すほどの、峻烈な輝きを発していた、精神こころかよいをまったく感じない。こんなのただの……ただの何だろう、投げやりな棋譜並べに過ぎないよ……


「……!!」


 そして、そんな甘ったれた指し手を、見逃し許してくれる相手でも無い。沖島さんは先ほどと同じような無表情ながらも、その目は興味を失ったように光は無く、ただただ、機械的にミロカの独りよがりな手を直接的/間接的に潰しにいっている。


 ミロカもそれに応じて手を繰り出しているみたいだけれど、そんな応対をしている時点でもう呑まれている。棋力の差は歴然。それでもさっきの局で肉薄できていたのは、


 ……自分の全部を出し切って出し合って、互いにMIXミクス UPアップしてたからでしょ? 今はただエゴたっぷりの獰猛な手を指しているだけだってば!!


 私の心の叫びも当然届かず(耳横で叫んでも届かなかったと思うけど)、じりじりとずるずると、局面は沖島さん勝勢へと進んでいく。勝負に徹した彼女が本気で指したのなら……学園内のタイトル保持者なんて、屁でもないはずだ。なぜなら、


 ―よかろう、我が棋力は『五段』。貴様は?


 ―……『三段』。


 ―くくっ、ならば『香落ち』で手合ってやろうではないか。


 ふたりが初対面の時の対話を思い出す。この時ミロカが自らを称していたのは、アマチュアの「五段」。それはそれでこの学園内の高等部も含めた中でもトップクラスの一割くらいに入るかなりの指し手ではあるのだけれど……


 でも。


 沖島さんの「三段」は、アマチュアの段位なんかじゃなあい。プロ養成機関であるところの「奨励会」の、さらに最上位の「三段リーグ」で、何百もの猛者たちと、己の人生を賭けてしのぎを削る、修羅の内のひとりなわけで。


 現在の「三段リーグ」は、将棋プロを志す若者が爆発的に増加したこともあって、関東/関西で二つのリーグに分かれ争われるようになった。それぞれのリーグに所属する「三段」の数は、これも十数年前より五倍くらいに増えて百数十人ずつ。そして半年かけて行われる両リーグの最優秀成績者が二人ずつ、晴れて「四段プロデビュー」と相成るわけだけれど、恐ろしいことにリーグ内「総当たり」で勝敗を決するわけで、半年を180日と考えると、ほぼ一日一局、神経と精神をすり減らすようなガチ対局を指し続けているわけで、それだけでももう常人じゃあない。


 そんな人なんだ、沖島さんは。膨大な人数、関西に所属していたこともあって、そして奨励会の棋譜は割とおもてに出て来ることも少なくて、その名前は知らなかったんだけれど。お父さんの仕事の都合で、東京に越してきたそう。とか、緊迫から逃げるかのようにして、私の脳内は、そんな安穏とした情報を紡ぎ出すのだけれど。


「……」


 いつの間にか、いやな沈黙が、空調の冷気によるものだけじゃなさそうなこの冷え冷えとした空間を満たしていた。ぼんやりとミロカと沖島さんの対局姿だけを俯瞰するように見ていた私は、いったん正座の姿勢に戻ると盤面に目をやる。


 そこには見るも無残な掃討戦のような局面が、晒されながらもまだ蠢いていた。ミロカの顔にはもう表情らしい表情は何も浮かんでいない。唯一ささやかな熾火のように残った光をその大きく歪められた両目に灯しているけど。でもその目がふいにあらぬところを向いたかと思うや、


「次」


 そんな、敢えて感情を殺しているような声で呟いたのだった。その上、手にした扇子で、軽く盤面の駒たちを散らしながら。


 ……もう許せなかった。


「ミロカ」


 私の口から押し出されたような言葉にも、感情は何も乗ってはなかったけど。ミロカの耳には届いたようだ。少しこちらに顔を向けてくる。関心なさそうに。


「謝って」


 でも、続けられた私の言葉には反応が簡単だったみたいだ。殊更にバカにしたような笑みを浮かべながら、は? みたいに返してきたから。


「こんなのおかしいよ。ミロカ何でこんなになっちゃったの……」


 震えそうになる声を何とか我慢して言葉を紡ぎ続けるけど、


「……部外者が口を挟むな。これは私とこいつとの勝負だ」


 その、いつまでも芝居めいた言葉に、私の中の何かが外れた。


「……!!」


 膝立ちになったまま思わず振り抜いた左掌に、ミロカの右頬の熱を確かに感じた。私の顔も、相当熱を持っているんだろう。


「あやまってよッ!!」


 大声がお腹の底から出ていた。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。でも、


「謝るだ? 誰にだよッ、何をだよッ!!」


 頬を押さえながらも、ミロカには全然、私の思いが通じていないようだった。歪めた顔のままで、そう怒鳴りつけて来る。なんで。なんでよぅ……


「あや、まっ……あ……」


 喉が声を出そうとするたびに震えて、うまく喋れない。それでも私はミロカの方へと膝でにじり寄りながら、その意外に細かった両肩を掴んで、伝えなきゃいけないことを伝えようとするのだけれど。


「……ナヤはかんけいないっ、かんけいないでしょっ!? ほっといてよ!!」


 ほんの、ほんの少しだけ、ミロカの、前のミロカが戻ってきたように感じた。だけど、


「……!!」


 身体をくねらせるようにして、私の両手は振り払われてしまった。そして向こうへいけとばかりに横に振り払ってきたミロカの両腕に当たって、私は後ろに尻餅をついてしまう。その瞬間、左の目の下に鋭い痛みが走ったのも感じていた。


「!! ……な……なや……ご」


 左だけ滲む視界の中、ミロカの驚きとこちらを心配してくるかのような不安な表情が混ざり合った顔だけにピントが合っている。


「……」


 左手の指で痛む箇所を探ると、ぴりとした刺す痛みがまた感じられた。離した指には赤いものが少し、擦れて付いている。扇子の角でも当たったのかな。でもそんなのどうでもいい。


 ……今は。今、やるべきことは。

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