△1四銀(あるいは、類まれ変身/からの変心)


「……」


 でも色々と思うこととか、思うほどのこともないから流そうかとか思っていることとか、諸々が頭の中を埋め尽くしつつ波立っているようで、要は考えすぎで何も考えられない感じなわけで。


 そのまま真顔で固まってしまった私だったけれど、目の前で印籠然としたものを突きつけ続けている老人もまた、固まったまま動かない。私の返事があるまでは、物事の諸々を先には進ませぬみたいな、どうしたって間違ってるに違いない方向の強いベクトルを感じる。


「お嬢さん……今の自分に、如何ともしがたき思いを抱えているのならば……一度、これでもかの水域まで吹っ切ってみるのも手じゃよ。鬱々と、内へ内へと向かうだけでは、自分は、世界は開けない」


 掠れた声で、少しいいことを言った風だけど。その皺だらけの顔面の奥にめり込んだ目は、思ったよりも優しい光を湛えていたのだけれど。でも。今度は胸の奥底で、泥みたいな思いが渦巻いてきている。やば、と思ったその瞬間には、もう言葉が喉から飛び出していた。


「『自分』? 自分って言った? ええ? 私なんか……私なんか、ただのふっつーの棋力の美少女中学生だし。て言うか、ふつーに中途半端なの。この世の中で、いちばん重視されている将棋の力がまったくもって中途半端なの!! この超絶美麗なルックスとは違って!!」


 思わず、心の内にこもるものを吐き出してしまった。何でか分からないけど、この老人と話していると向き合っていると、心の中に隠していた本音みたいなものが飛び出してきてしまうわけで。相変らずの突きつけ姿勢だった老人は、ちょっと体を引き気味にして、お、おう……みたいな声を上げるけれど。


「……ならば、尚更『変身』してみてはいかがかな? キミも一度は憧れたはずだ。日曜八時の『魔法少女』に」


 気を取り直したかのようにそうのたまってくる。「日曜八時」は普遍じゃあないだろと思いつつも「魔法少女」……幼き少女時代に、「Z壁ゼッぺき少女★イビアナ」とかハマって毎週リアルタイムで視てた記憶はある。普段は勉強もスポーツも冴えない(でも顔はかわいい)少女が、魔法のアイテムによって絶大な力を得て、謎の巨悪と戦い世界を救う……やだ、今の私の境遇と400%以上シンクロしてる……


「キミはさらに格闘方面にも秀でたものをお持ちのようだ。ククク……新機軸。フリフリのコスチュームでの蹴り主体格闘魔法少女……これは四次元、もはや四次元的萌えではないかぁははははは……っ」


 空いた左手で何かを掴まんと指を折り曲げて体前面に突き出した姿勢は、相当にアレな感じではあったけど、それよりもなぜ「蹴り」のことが?


「見れば分かる。キミのその、しなやかなる体躯、そして今しがた相まみえた時に見せた左を軸足に置いた隙の無き構え……世が世なら、ジュニアで世界を獲れていてもおかしくはない人材だ。それゆえに、こんな所で燻っていていいのかな? 一発、世界を救って、その救った世界をそのままひっくり返してしまうっていうのはいかがかね? 想像してみるのだ、今の将棋にとって代わった、『キック』が主体のこの国を、いや、この国に留まらず、この世界を……『キック』の強さによってのみ、全ての価値観が決まる、そんな厳然たる世界を……」


 老人の言葉は段々と正気から逸脱の流れを見せてきていたけど、「キックが全ての世界」……? その誘惑に彩られた想像が、私の脳内を軽やかに駆け巡ってくる。


 ―ああーっとおっ! これは一方的だMILOCA★選手ぅぅっ! 一撃で相手のバランスを崩し切った右ローから、今度は前に沈み込んだこめかみへの左ィィィッ! 刈り込むように巻き込むようにっ! 完璧な着弾点で、美しい弧を描いた放物線はッ、まさに栄光へのぉぉぉ、架け橋だぁぁぁぁッ! 決まったッ! カウント取るまでも無しッ! 全世界キックボクシングワールドトーナメントフライ級を制したのはッ! 極東からの赤き新星ッ! 超絶美麗女子中学生MILOCA★選手だぁぁぁぁぁぁぁぁッ!


 だめだめ、私も口半開きで虚空を見上げてどうする。でも私のそんな甘い棒球的な食いつき方をおいそれと見逃すような御仁では無かったわけで。


「……!!」


 放物線を描いて私の手元に飛び込んで来たのは、件の「黒い五角形」だった。金属っぽい質感の割には意外と軽い。けどそのひんやりとした表面は、なぜか私の掌にしっくり馴染んできたように思えた。冷たい触感とは裏腹に、穿たれた「鳳凰」の文字はいまや炎のような揺らめきを宿し見せている。


「物は試し。そいつを翳して、叫ぶのだ、魂の命ずるままに!! さすればなる。将棋に毒された世界に舞い降りし、紅蓮の炎翼を閃かす聖天使、並みいる『二次元人』共をその華麗なる足さばきにて蹴り消し飛ばすッ、最強の『大将棋パワー』を秘めた超絶美少女戦士、『赤い★フェニックス』へと!!」


 老人のテンションはマックスへと振り切れたみたいだ。灰色の髪を振り乱し、天を仰ぎながらそうアオり叫んでくる。名前はどうにかなんないのかな……と思いつつも、その勢いに押されるかのように、何でか私はその「五角形」を引っ掴むと、憑かれたかのように天高く掲げてしまうのであった……


 うさん臭いとか、思わなかったわけじゃない。ちょっと春の風にやられちゃったアブない老人の世迷言との疑いが、完全に晴れたわけでもない。けど日々の生活に、これからの未来に、説明できないほどの閉塞感を抱えていたのは事実だ。それに。私の「キック」をちゃんと評価しようとしてくれた。向き合ってくれた人なんてそうはいなかったから。


 だから、だから。


「うああああああああああああああっ!!」


 自然に口から飛び出してきたのは、もう何年も出してなかった、お腹の底からの雄叫びだった。熱を持ってきた腹筋から、体の隅々まで力が漲り伝わっていくのを感じている。


「『ダイショウギチェンジ』っ!!」


 すべてを、諸々を、将棋盤のように、それごとひっくり返すみたいなことが、出来るのだとしたら。


「……『赤い★フェニックス』っ!!」


 瞬間、私の身体は赤色の……いや緋色の光に包まれる。体のあちこちに、何かが吸い着くように張り付いていくような感覚。そして、


「鳳凰は、進み羽ばたく無限の軌道……盤上すべて、全駒紅蓮に焼き尽くすっ!!」


 キメ台詞まで叫んでしまった私は、ふと見た自分の身体が、何故か緋色のライダースーツのような全身タイツのようなものに覆われていることを実感するのだけれど。白い、肘下まであるロンググローブ。同色の膝下までのブーツ。それらを圧迫感のあるフルフェイスのヘルメットみたいなマスクの前面についた黒いゴーグル越しに見ている。「変身」……まさに変身。その作用機構はまったくもって判らなかったけど、確かに変身した。でも。


「……」


 押し寄せて来るコレジャナイ感を全身で受け止めつつ、マスクの下の私の顔面は真顔へと移行しつつある。


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