高校一年生、秋

1. 面倒な時間

 * * *


 どうしてこんなことになったのか。人の良い微苦笑を浮かべたまま、亜樹あきは目の前の光景を眺めていた。眉の流れすらもわかる距離。それは、光介こうすけと亜樹の間に馴染まない。


「千切った方が早いと思いますよ」


 無駄だろう、と思いながらも、何度目かの提案を亜樹は零した。光介の眉間で皺が深くなる。


「……いや」


 短い否定は相変わらずで、亜樹は微苦笑を重ねた。ため息代わりのそれを、自身のシャツを睨む光介は気づかない。


 亜樹と光介を繋ぐのは、無駄に長い亜樹の髪だ。ボタンに絡んだ亜樹の髪を、光介の指が追いかける。

 短い爪と扁平な指は髪を摘むに向いていないようだ。亜樹は内心の嘆息をこれ以上微苦笑に変えようがなく、ただ笑みを浮かべて見下ろしていた。


(面倒なことになったなぁ)


 涼香すずか照信てるのぶ西之にしゆきの三人は行ってしまった。と言っても、西之は鋏を買ってくるとのことで近くのコンビニに行っただけだから戻ってくるのだが。


 涼香については、照信と一緒に暇つぶしをしているだろうから心配はない。照信にとっては願ってもない二人きりの時間でもあるので、そそくさと先を急いだ理由は亜樹でなくとも分かるだろう。照信が不実をしないか気になるものの、亜樹が思考してどうこうなる問題でもない。そんな度胸があるようには見えないという点で心配は憂慮かもしれないが、他人の内側などわかるわけがないのだからどうしてもそちらばかりが気にかかる。

 なにかあれば涼香から連絡はくるはずだという何度目かの思考の説得をして、亜樹は微苦笑を零す。微苦笑と一緒に零れた懸念が少しの揺らぎを生み、光介の指がまた逃げた髪を追った。


 今度こそ溢れそうになったため息を、亜樹はなんとか飲み込んだ。このままだといつか飲み込み切れなくなりそうだ。髪が絡んでしまった光介はただの被害者で、亜樹は微苦笑以上の不服を出す立場ではない。

 時間さえ経てば、西之が鋏を持ってくる。近い距離と待つ時間を減らす為の提案を繰り返してもしょうがないと考えた亜樹は、自身の髪が揺れ逃げないように押さえ持った。

 長い髪だから多少身じろいだところで問題ないと亜樹は考えていたのだが、度々光介の指が追いかけると言うことは多少影響があるのだろう。涼しくなりだした秋口の空気に震えて、という様子ではないのだから押さえた方が早い。少しでも解きやすいよう固定した亜樹に、光介が顔を上げる。


「…………」

「千切りませんよ」


 心配そう、と言うには表情が読めない光介の視線に、亜樹は微笑んで返した。じっと見据える瞳は静かで、光介の口数と同じく語るものがほとんどない。亜樹の返事は、その瞳の訴えからと言うよりは視線の動きによる推測で成したものだ。それと、何度も重ねられた否定の事実。ただそれだけ。


 ただそれだけでしかない、程度に亜樹は光介を知らない。照信の付き合いで巻き込まれた二人の内の一人。照信をなだめたり涼香に笑いかけたりする西之と違い、涼香にほとんど話しかけない姿から「付き合わされている」という言葉がぴたりと合うことくらいしかわからないほどに、亜樹は光介を知らない。少し物珍しいくらいに控えめだと思う程度だ。

 そもそも、付き合いだろうがなんだろうが、たいていは涼香に話しかけること、話しかけられることを喜ぶのが自然だろうに。亜樹の内心は友人の欲目ではなくこれまでの経験から当たり前に浮かぶもので、けれども光介は涼香との距離を埋めない。涼香の見目や頭の良さ、言葉選びのセンスなどは客観的な事実として魅力的であるにも関わらず、だ。

 不思議な人間だ。興味などほとんど無いが、光介の涼香に対する距離感は亜樹にとってなじみのないものである。

 亜樹はどちらかと言うなら女子になつかれやすいが、涼香は男女関係なく気さくに声をかけられるし、側に居たくなる魅力的な人物だ。それなのに一切表情を変えずに側にも行かない光介は奇妙な人間で、とりあえず真面目な人だ、と感じさせる程度の程度の印象。

 その真面目さが面倒になっているとも言えるが。何度目かわからない微苦笑を亜樹は零した。


 どうせやるなら光介よりも亜樹の方が器用だろう、というのは賢明さとかかる時間で判断できた。けれども鋏が来れば切るだけなのだし、そんな丁寧にほどく必要などないというのも亜樹の判断だった。正直に言えば無駄だろう。ただ、切った後も髪が残ってしまうのを憂慮するなら仕方ない、とも思う。他人の髪が気持ち悪いと感じるのは、珍しくない考え方のはずだ。ボタンに髪が絡んだ光介は被害者で、切りほどいても残るかもしれない髪の可能性を考えれば光介の選択はある意味自己防衛として正しい。

 そういう風に思考をしても、待つ時間は短くならないのだが。というより、コンビニで買うにしても時間がかかりすぎてないだろうか。時計を確かめたくなったものの、しかし当てつけのようだろうと亜樹に浮かんだ考えはそのまま変化を作らずに終える。

 毛先が廻り、止まり、時折引き。果てがないような所作を、亜樹は眺めていた。光介の視線は、じっと亜樹の髪を見たまま変わらない。


(ムキになってるのかなぁ)


 うまくいかないと逆に燃える、というのはあるらしい。しかしそういう発想は、光介には似合わないように思えた。光介をあまり知らない亜樹の勝手な印象なので実際どういう人間性かはわからず、今の真剣な表情からそれらは読みとれない。

 表情の起伏が薄いというよりパターンに偏りがある、という印象の光介は、ひどくしかめた表情で髪とボタンを睨んでいる。


(人が良すぎる、のかな)


 お人好し、は亜樹がそれなりに受ける言葉だが、亜樹自身はそんな優しい人間ではなく、今他人にその評価を向けることは少しだけ奇妙で、しかし少し合っているようにも思えた。


 亜樹がお人好しと言われるときは、たいてい笑顔でとりあえずなんとかしているだけでしかない。そう見える、程度の評価は薄っぺらい気もするのだが、目の前のいかめしい顔はそんな亜樹よりも相応しいように思えてしまった。自己防衛として髪をほどくにしても、不平も不満も言わず、千切る亜樹を止める時も否定だけで自身の感情を言葉にしなかった。それはおそらく、優しい、と言える人間性なのだろう。

 堅物、という言葉が似合いそうな顔立ちは、これまでの言葉選びと今動く指先と相まってやはりお人好し、という言葉が似合うようにも思えた。光介の伏せた顔をじっと見下ろす時間は亜樹にとって退屈で、だからこそ今更顔立ちをなぞるように眺める。


 光介の顔をこんなに観察することは無かった。おそらく一八〇を越えた身長は同学年の中では大きな体と言えるが、一七〇を越えている亜樹にとっては見るにそこまで困らない距離である。だから観察しなかったのはただ興味がなかったからで、このやっかいな機会がなければそもそもどうでもいい人間の顔をじろじろ見る趣味自体もない。涼香のように表情や言葉が見ていて飽きない人間を亜樹は知らないから、暇があれば眺めるのは彼女の顔だ。


 改めて観察すると、光介の厳めしさは眉間の皺とむっつりと下がった口角からのものだと思われた。太い眉は意志の強さを思わせるが、その下にある切れ長の瞳は鋭さよりも物静かさに寄り添っている。真剣さは伝えても感情を伝えきれない黒い瞳は光介の声と同じ性質で、短い前髪の下でよく見える顔は余分どころかその大元すら伝えきらない。

 ぎゅ、と、眉間の皺が一等深くなる。


「ハサミ、中々来ませんね」


 空気を吐き出して、亜樹は微苦笑を伝えた。ボタンから亜樹の顔に移った視線に、口角への意識を強めて笑みを深める。


「ソーイングセット、なんて持ってないんですよね。涼香との時間を減らしてしまって、すみません」


 光介の口角は、亜樹と逆にさらに引き結ばれる。光介が涼香との時間を重視していないことくらい、亜樹にはわかっている。涼香を重視しているのは亜樹で、それを光介が察したかどうかはわからない。

 髪を押さえる指が、シャツの皺を深める。


「……痛くないか」


 静かな低音。案じるというよりも淡泊で、しかし少し固い声質。じっと光介を見た亜樹は、なんとか瞳を微笑に歪めた。


「平気ですよ」


 どうでもいい。そういう内心から、亜樹はそれ以上言葉を続けなかった。ありがとうだとかそういう雑談は不要で、必要なのは光介が諦めるきっかけだ。

 それにしても本当に遅い。また揺らぎ出しそうな思考に顔を上げた亜樹は、は、と零れそうになる息をそのまま手に乗せ上げるようにして手を掲げた。のんびりとこちらに向かう人影が、亜樹の所作を受けて手を挙げ返す。


「いらっしゃったみたいです」

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