女はレベルが低いから

「ルイーズ! アーシェラを!」

 ヴァージニアは叫んだ。

「うえっうぇっ? えっ、まっ、は? なになになに!?」

「攻撃されています! 急いで!」

 ルイーズは馬を寄せ、アーシェラを引っこ抜いた。アーシェラを乗せていた馬は前脚を高く上げて嘶き、どこへともなく猛然と走り去っていった。

「ちょ、アーシェラ! ねえ! やば! なんか冷たいんだけど!」

 ぐったりする身体を馬上で安定させようともがきながら、ルイーズは叫んだ。

「テルマ! 羽音に警戒してください!」

「あっわっわっ!」

 名を呼ばれたテルマが、慌ててあたりを見回す。溶けかけの塊となって落ちてくる雪の白を、不定形の黒が切り裂いた。テルマは瞬時に盾を生んだ。

「んあっぶなっ!」

 飛翔物は、火花を散らしながら盾の曲面を滑った。見る間に高度を上げ、四人の頭上で大きな弧を描いた。

「なにあれ! やば!」

「分かんないっスよ! アーシェラは?」

「ぐにゃぐにゃしてる!」

「えっなに!? 固定しづらいってことっスか!?」

「そう! どうしよ、やばい、冷たい! うわっ来たこっちテルマ!」

「ああーもぉおおお!」

 テルマが応戦する間、ヴァージニアは視覚と嗅覚を鋭く尖らせ周囲を走査した。

 ずっと後ろに、かすかな砂埃。こちらと一定の距離を取り、一直線に進んでいる。

 追い風に乗って、酸化した小麦粉の匂い、すみれの香り。髪粉だろう。埃の臭いと体臭。

 この臭気を、ヴァージニアは知っている。

「銀影団です!」

「えっなんでっスか! ウグルクっスか!?」

「いいえ! ですが、マウフルたちの近くにあった臭い! 一人で来ています!」

「グリシュナッハ!」テルマは怒りに任せて叫んだ。「あのごろつきが!」

 空が暗くなり、風雪が勢いを増した。

 夜が来る。判断を間違えれば死ぬ。ヴァージニアは独り笑った。これぞ冒険というものだ。危地に到るほど、彼女の頭は冴える。それに今は、仲間もいる。

「対象はっぶな!」、ヴァージニアは頭を下げて飛翔物を避けた。「あれ、恐らく敵が操っています!」

 互いに目視できる距離を保っているから、というのが推測の理由だった。遮蔽物のない開けた荒野を選んだのも、そのためだろう。精度の低い仮説だが、あてもなく右往左往するよりはいい。方向性を定められる。

「伝馬町まで走りましょう! 身を隠すんです!」

 叫びながら、ヴァージニアは手綱を引いた。馬は何度か首を乱暴に振り、連なる廃墟めがけて一気に駆けだした。

 蹴立てた泥が頬に散る。風はいっそう唸り、向かう西の空はますます暗く、威嚇の羽音は精神を削るようだった。

 ヴァージニアの推測は当を得ていたらしい。雪と夜闇で視界が狭まると、攻撃はますます精度を欠いた。四人は棄てられた伝馬町の入り口に馬をつなぎ、角や辻をめちゃくちゃに曲がってから廃墟の一つに踏み入った。

 かつては納屋だったのだろう。板葺きの屋根にはところどころ穴が開き、狭く、朽ちた網や櫂が転がっている。床板はあちこち腐り、踏むとやわらかい感触がした。

「やばい、アーシェラやばいどうしよ、なんか雪みたくなってきたんだけど」

 横たわらせたアーシェラの脈を取りながら、ルイーズは泣きべそをかいた。

「徐脈、徐呼吸、喘鳴……どうしよ、死んじゃうかも」

「あああ!」テルマが頭を抱えた。「どうしようって、どうしたらいいんスか!」

「あっためて、とにかく……あったかくして、そんぐらいしか、今は」

「火を焚きますか? 見つかるでしょうけど」

「でも死ぬんだよこのままじゃ!」

 ヴァージニアの静かな言葉に、ルイーズは衝動的な怒鳴り声をあげて立ち上がった。ヴァージニアは答えず、目を伏せた。

 テルマがアーシェラの荷物を引っかきまわし、原盤を取り出した。

「なにやってんの? ねえ、テルマ!」

「動けない人が持ってたら危ないっスよ」

 白い息といっしょに、抑揚の無い言葉をテルマが吐き出す。ルイーズは打ちのめされ、尻もちをつくと、目を閉じるアーシェラの手を取った。

「最悪なのは、私たち全員が殺されて原盤まで奪われることっス」

「でっ、でも、アーシェラ、アーシェラが」

「テルマ、落ち着いて」

 ヴァージニアが、テルマから原盤を奪い取った。

「は? 私は冷静に判断しただけっスよ」

「もっと最悪なのは、原盤とアーシェラを失い、それでも生き残ってしまうことです。もし追い詰められれば、わたしたちはきっと、アーシェラも原盤も見捨てて逃げ出しますよ。そうしないためには――」

 アーシェラの荷物に、原盤を戻す。テルマは抵抗しなかった。

「見捨てない。原盤を守る。グリシュナッハを、ここで迎え撃つ。術者であれば、治療法を知っているかもしれませんから。これが最善です。違いますか?」

「理想的っスね」

「現実的です。わたしたちは一度、グリシュナッハを退けています」

「相手が私をばかにしていたからっスよ。今度は、本気で来るはずっス。勝てるわけがない」

「違うって、アーシェラがこのままじゃ死ぬんだって! 火を焚かないと!」

 不意にアーシェラの口が開き、かすれた音がした。どうやら「まーあまあまあまあまあ」みたいなことを言ったらしかった。

「えと、まあ……ちょっと分かんないけど」

 短い言葉の途中で、アーシェラは激しく咳き込んだ。喘鳴がひどく、声は聞き取りづらい。三人は口げんかをやめ、アーシェラの言葉に聞き入った。

「いつも通りでしょ。みんなで、やろうよ」

 たった一言を笑いながら口にして、アーシェラは再び意識を失った。



 グリシュナッハは、勝利の手応えに笑みを浮かべていた。

 奇襲に失敗し、廃墟に逃げられたのは仕方ない。もとより、顔も見えない距離で仕留めるつもりはなかった。あの女どもがなすすべなく死んでいくのを、ぜひとも見届けなければならない。

 廃墟群の入り口で下馬したグリシュナッハは、薙刀葉蜂を肩に留めて歩き出した。磨いたブーツに泥が跳ねる。不快でみじめな場所だ。女の死に場所にふさわしい。四つの死体が夜に凍りつき、昼に解けるのを繰り返しながら腐っていくのを想像し、グリシュナッハは口の端を持ち上げた。

 足音を隠さず、グリシュナッハは堂々と闊歩した。廃墟のどこかで、女が畏れている。それは愉快な空想だった。

 世の道理を理解せず、死んでいくのだ。自殺と変わらない。手を下したとて、死の道義的責任は自分にない。自分のように人並みの努力をすれば、落ちぶれて他人に迷惑をかけるようなことにはならなかったはずだ。

 もしも同じ立場に置かれたら、自分は間違いなく孤独な死を選ぶだろう。他人に迷惑をかけるなどもってのほかだ。ばかがばかをさらすのを、ここで終わらせなければなるまい。男の仕事は、感謝されるようなものではないのだ。

 これはマスター・エステルのような考え方だろうか? つまり、正しいだろうか? このどぶさらいが終わったら、報告しよう。褒めてもらえるかもしれない。

 いくつかの角をでたらめに曲がり、グリシュナッハは思わず噴き出した。ことがあまりにも理想通りに進んだからだ。

 朽ちかけた跳ね上げ窓の隙間から、灯りが漏れている。つまり、あの四人がそこにいるということだ。

 薙刀葉蜂の毒は、受けた者の体温を奪う。雪と夜は、ただちにアーシェラの命を奪うだろう。そこに気付いた女どもは、目先の命にこだわって火を点したのだ。

 なんと愚かなのだろう。ひとり切り捨ててでも、堪え忍ぶべきだったのだ。逃がすつもりなどないが。

 泥の中から石を拾い上げて、窓に投げつけた。けっこう良い音がした。グリシュナッハは身体の芯がぞくっと震えるのを感じた。心地よさだ。いま、他人の命を握っている。これが支配するということなのだ。これがマスター・エステルの居る場所なのだ。

 できることなら、一晩中この感覚を味わっていたかった。グリシュナッハはエステルの言葉を思い出して気持ちを切り替えた。男の仕事だ。躾けても分からないのならば、処分するしかない。

 沿岸の建築物は高床になっている。ポーチに続く腐りかけた階段に足をかけ、ふと、グリシュナッハは嫌な予感をおぼえた。

 いくらなんでも、そんなに愚かだろうか?

 マスター・エステルは女だろうと公平に評価していた。躾けるだけの価値はあると。あの女どもは、ウグルクとマウフルを退けたのだ。最低限の知性はある。犬と同じように考えてはいけない。

 建物から、数歩離れた。肩の薙刀葉蜂を浮遊させた。

「行ってこい」

 こちらに向いた尻を、ぽんぽんと叩いてやる。この小さく忠実なアーティファクトに、グリシュナッハはすっかり情が移っていた。

「生涯の相棒との、初仕事だねェ」

 薙刀葉蜂が鎧戸の隙間にするりと滑り込み、閃光と爆轟がグリシュナッハを襲った。

 グリシュナッハは真後ろに吹っ飛び、泥の中を転げ回った。やや遅れて、痛みがやって来た。顔をかばって上げた腕が、鋭く痛む。皮を剥かれて無数の針を突き立てられたようだ。

 焦げた服が皮膚に貼りついている。グリシュナッハは悲鳴を上げ、焼けた肌を泥水に浸した。

「ヒッ、ヒッ、あああっクソッ、ふざけっ、ふざけやがって!」

 廃墟を跡形も無く破壊した爆発は、生涯の相棒をも焼き尽くしていた。想定をはるかに超えた魔法だった。なにをプロセッサにすれば、ここまでの魔法を――

 グリシュナッハの思考は途切れた。彼の首に、なにかが巻きついたからだ。頸を締め上げるものは、グリシュナッハを無理に立ち上がらせた。

 グリシュナッハは、絞殺されつつある者が必ず試みる抵抗に打って出た。爪を立て、巻きつくなにかをひっかいたのだ。グリシュナッハの爪の間に、掻き破った皮膚と血が溜まった。人間のものだった。

「アーシェラを! アーシェラを治して!」

 ルイーズは叫んだ。

 爆発に紛れて忍び寄ったルイーズが、グリシュナッハの首を絞め上げたのだ。

「だっ、だから、おっ……女はばかなんだよなァ!」グリシュナッハは毒づいた。「唯一の治療法は、たった今オマエらが壊しちまった!」

「は? いいから! はやく治せ! 治せよ!」

 ルイーズは腕に力を篭めた。腕の内側に、ごりっとしたものが当たっている。皮膚を通して、のど仏と気管に触れているのだ。押しひしいだときの感触を想像して、それはきっと靴の中のカタツムリを誤って踏みつぶしたときによく似ているだろう。もろい殻が砕けて、やわらかな内臓が潰れる。怖気が走った。

「かっ、がッ……」

 橙色の光が闇に点り、無文字魔法のナイフが生じた。ルイーズは両脚でグリシュナッハの腕と胴を絞め、後ろに倒れた。衝撃が、グリシュナッハにナイフを手放させた。

 凍るような冷たさの泥水に身を浸し、ルイーズは胴と頸を更に強く絞めた。グリシュナッハの両腕は、ルイーズの脚を跳ね返そうと硬くなった。グリシュナッハの両脚は、泥水をかかとで引っかきまわした。

「治して! 死んじゃうんだよ、アーシェラが死んじゃう! はやく!」 

 ルイーズの腿裏に、鋭い痛みが走った。無文字ナイフの切っ先が引っ掻いたのだ。ルイーズは全身に力を篭めた。グリシュナッハは身体を震わせ、ナイフを取り落とした。わずかな範囲の泥水を沸き立たせ、ナイフは消滅した。

「むりだ……言って……ばか」

 グリシュナッハの気管が、みしみしと音を立てている。潰れるかもしれない。おぞましい感触だった。ルイーズは涙を流した。恐怖と嫌悪と憎悪と忌避感と罪悪感がぐちゃぐちゃにまざった、止めようのない涙だった。

「どうして、なんで! どうして!」ルイーズは助けを求めるように叫んだ。「どうしてこんなこと! なんでできるんだ!」

 絶望に、一瞬、力が抜けた。グリシュナッハはルイーズの両脚から右手を引っこ抜いた。

「おっ、女は、レベルが低いから」

 橙色の微発光が、グリシュナッハの顔を照らした。

「ああああああっ!」

 ルイーズは泣きながら吼えた。限界まで背を反らしてグリシュナッハの気管を潰しながら、身体を回転させた。泥水に突っ伏したグリシュナッハは、顔を上げようともがいた。ルイーズは左手でグリシュナッハの頭を押さえつけた。吐き出された命のように、いくつもの泡が湧いては弾けた。

 グリシュナッハはめちゃくちゃに手足を振り回した。指先で泥を引っかき、爪先を地面に突き立てた。水溜まりから抜け出そうと、生き延びようと、必死で抵抗した。ルイーズはグリシュナッハの脊椎上に膝を突き、背を丸め、全体重を左腕にかけた。

 すみれと、酸化した小麦粉の臭い。冷たい汗の臭い。泥の臭い。頭を抑えつける掌に、背中を抑えつける膝に感じる、体温のぬるさ。ざらりとした髪の、ぬるりとした頭皮の感触。潰れた気管の、力をこめるほどへこんでいく感触。

 えづきながら、泣きながら、ルイーズは汚水に身を浸しつづけた。手足の動きが鈍くなった。潰した気管を通り抜けようとする呼吸が途切れた。ルイーズの膝を押し上げる呼吸が絶えた。

 ルイーズは立ち上がり、グリシュナッハだったものを見おろした。間違いなく死んでいて、二度と動かない。諦念が蜜の粘度でルイーズに絡みついた。一歩も動けそうになかった。

「アーシェラ」

 ルイーズは友達の名前を口にして、なんとか歩き出した。

 廃墟に戻ると、三人が待っていた。意識を保っているのは、ヴァージニアひとりだった。

 自分の血で喉を潤したテルマは、昏倒していた。アーシェラは、獣化したヴァージニアの被毛と体温にくるまれ、辛うじて凍死を免れていた。

「終わった」

 短く、ルイーズは告げた。ヴァージニアは何も問わず、静かに頷いた。

「一人分、空いてますよ」

 ルイーズは首を横に振った。

「アーシェラ、あったかくしといて」

「火、焚きましょう。私の荷物にいろいろ入っていますから」

 乾いた床板を引きはがし、ナイフで削って火口にし、火打ち石を打った。床下の地面は乾いていた。ルイーズは無言で、かすかな火を少しずつ大きくしていった。ときどき涙が炎に落ちて、小さな湯気を上げた。

 狭い室内は、あっという間に煙で満ちた。目を覚ましたテルマが、跳ね上げ窓を開いた。雪をもたらす層雲はいつの間にか去っていた。手が切れそうなほど鋭い月の下を、薄い雲が這っていた。

 四人は火を囲んだ。

 すべては無駄だったのだ。襲撃を切り抜け、術者を仕留めた。なんの意味もなかった。得たのは空しさだけだった。

 ときおりアーシェラが、言葉にならない言葉を発した。三人は耳を傾けた。たいていは、譫妄のもたらす意味の無いうなり声だった。

 夜が明けた。嘘のような冬晴れだった。

「行きましょう」

 ヴァージニアが言った。

「なんで?」

 ルイーズが問うた。

「まだ、間に合うかもしれないっスよ」

 言葉はあまりに空疎だった。それでもテルマは声を出して、ルイーズに手を差し伸べた。ルイーズはよろよろと立ち上がった。

 ルイーズがアーシェラを背負って、三人は伝馬町の入り口に向かった。

 馬は逃げ出していなかった。三人の顔を見ると、うれしそうに唸った。

「ごめんなさい。待たせちゃいましたね」

 ヴァージニアが差し出した手に、馬は頬をすりつけた。

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