第22話

 腰の位置に手を固定して、ターバンを巻いた男が手押し車を押して坂を歩いていった。 


「気分が優れないのは、さっきの旅行者だけが原因じゃないと思う」斜め先のテーブルを見通して常盤はぽつりと話す。 


「そんなに気にすることないわよ、わたしならむしろ気分が良くなるけどね、ほんと常盤は優しいんだから、ええ、なに、他に原因があるの? なになに? 女に関すること? 違うわよねぇ?」否定と決めきったように語調を強める。


「うん、違う、昨日の演奏会を観たみんなが、手品って言うんだ、それが……」


「そんなのいつものことじゃない、また気にしているの? そんな、手品でいいじゃない、大マジックよ、満足してたんでしょ? ねえ? 観に来た人が満足するなら、それでいいのよ、手品だろうがなんだろうが、人が喜んであつまるなら悪くないわよ」サバラは喜んで慰める。


「喜んでくれるのはいいんだけど、そりゃぁ、観に来てがっかりするわけじゃないし、でも、なんか、手品手品って言われるから、それに、昨日の演奏会も……」


「わたしからすれば、躍動感が足りないし、鋭さもいまいちだし、扇情的な部分が特に乏しいけれど、それは昨日ポグ先生と散々話したからねぇ、でも、観に来た人からすれば良かったと思うわよ、演奏後も拍手は上々だったし、たくさんの人が楽屋に訪れてくれたでしょ? 手がすごい手がすごいって、みんな喜んでいたじゃない」


 言葉を探して繋いでいるせいか、旅行者について語るようには口に出ない。肘に近い辺りを掴む手が、袖の下でかすかに動く。スプーンを爪繰りながら、常盤はゆっくりと視線を上げた。


「う、うん、喜んでいたけど、飛ぶ手でしょ? みんな飛ぶ手のことばかり、すこしも音のことは話さないし……」


「それは手が売りだからよ、前から何度も言ったでしょ? 目立つし、派手だし、不思議だし、だれだってまず手について話したくなるものよ、だいたい一般人のほとんどが、ピアノの音を聴き取るだけの耳を持っているものじゃないのよ、わかるでしょ? だから今の時代は、音だけじゃなかなか人が集まらないのよ、わかるでしょ? 常盤は音も良いけどね、なにより手が素晴らしいのよ、飛ぶ手、細くてしなやかな美しい手、鍵盤上を優雅に、素早く、緻密に、時には恐ろしく高く、時には花に降りる蝶の柔らかさで、不可思議な幻想を現実のものとして聴衆に届けるのよ? 手品っていうのもしかたないわよ」


 常盤の背後の街灯を見透かし、心地よく目を細め、思いを込めて言葉を表していると、急に常盤の顔に視線を定めて、幾分冷たい口調で言い放つ。にやけ顔の青年が肩を揺らして通りを歩く。 


「わ、わかってるよぉ、しかたないけど、あまりにみんなが飛ぶ手のことばかり話して、手品手品というもんだから、腕につながる手も、す、すこしは気にして欲しいと……」


「そりゃ無理よ、音は悪くないけど、見ためがねぇ……、太くて、膨れていて、土木業者の手だからねぇ……、男らしいんだけど、飛ぶ手に比べると、やっぱり見劣りするわよぉ、常盤の言うことはわかるけど、しかたないわ、腕につながっているからね、どうしても普通に見えるから、飛ぶ手のほうに気がいっちゃうわよ。常盤もわかっているだろうけど、その手だけだとあんなに人は集まらないわよ、いくら良い演奏しても、やっぱり普通の手だからね」 


 サバラは顔の位置を変えずに常盤の手を見下げ、飽き足りない心底を顔色に表した。人差し指を弄りながら、常盤はテーブルに目を落す。


「そうだけ……」


「飛ぶ手を華やかに前面に見せて、飛ばない手は地味に裏方に徹するしかないのよ、そう、それが一番いいの、出しゃばらずにわりきって演奏していくしかないわ、んっ、そろそろ時間よ、全部飲んだ? 早く飲んで、ポグ先生のところへ行くわよ」籐椅子に置かれた皮の肩掛け鞄に手を伸ばし、手元に近づけて財布を取り出す。


 常盤は返事をせずにカップを手に取り(姉サンモ飛ブ手シカ……)、苦々しくカフェ・オ・レを飲み干した。

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