第16話

 まずは腕に繋がる両手で稽古し、次に飛手で行い、「どうしても二倍の時間がかかってしまうのよ」ポグスワフは説明するが、常盤の演奏を少しでも長く見ていたいのが大きな理由だ。飲み込みの良さも、独特な音色も理由に違いないが、宙に浮いて演奏する姿に依存していた。紅玉の瞳も端正な小顔も、性嗜好の倒錯したポグスワフにとっての魅力だが、艶やかな桃色肌の尋常じゃない動きに心は取りつかれていた。 


「ポグ先生! ちょっと近づきすぎじゃないですか?」


 三本足の灰猫を膝に撫でながら、サバラは常に見張っている。ピアノに向かう二人の後ろに黒い革張りのイスを据え、背筋を伸ばしたまま動きを見逃さない。わずかの異常も腹にためず、瞬間にして言葉に出す。


「えっ? そ、そう? ごめんね、気がつかなかったわ」不気味な愛想笑いを浮かべ(チッ、ウルサイ小娘ネ、足デモ失エバイイノニ)、ポグスワフは弁解する。


「いいからもっと離れてください」サバラの顔は厳粛に締まっている(シラジラシイ)。


 一度、ポグスワフが鳥籠を購入して、ちょっとした事件が起こったことがある。


 雑談をしながら部屋に入ったサバラが、空色の枠線が整う釣鐘状のそれを一目見て(キチガイメ!)、憎悪を眼に燃やしてポグスワフを睨みつけると、ステンレスのフロアスタンドを掴み(コノヤロウ!)、体をねじって先端を思い切り鳥籠に叩きつけた。ポグスワフと常盤が唖然とするのを、一人素早く情動を剥き出しに何度も踏みつけてから(絶対ニ閉ジコメサセナイ)、窓硝子を構わず外へ放り投げた。派手に硝子の破片が飛び散るのを待たず、三本足の紺猫を蹴り飛ばし、ポグスワフに飛び掛って(殺シテヤル)、やたらめったら殴りつける。


 意気地のないポグスワフは腰が抜けてしまい(ヒイイイ)、小さく背を丸めて頭を抱え、甲走った叫び声をあげて殴られるままに任せている。危うい形相のサバラは一言も発さずに、見苦しく丸まった男を打ち据える。常盤はただ見過ごすばかり。


 騒ぎを聞きつけて集まった近隣のがらくた住人に止められ、事態はなんとか収まった。


 三人の話をまとめると、鳥篭を見たサバラが唐突に怒りだしたと一致するので、ポグスワフに非は考えらない。後日、スニンとマムーンが一緒に詫びに訪れ、話し合いが行われた。マムーンは諂うことなく毅然と謝る一方、小娘に襲われて抵抗できなかったことを見下げてか、スニンは皮肉にも取れる軽々しい冗談を交えて謝る。


「あれは男かい? ひどいもんだよ、見ていてむかむかするね、ありゃしかたない、サバラもそう悪くは言えないよ」ポグスワフの家を出ると、通りを歩きながらスニンは無遠慮な声で話した。


 ピアノを教わりたい、ピアノを教えたい、互いの思惑は変わらないので、賠償金を支払うことで話は進められたのだが。


「サバラさんの出入りはお断りしたいので……」禁止したいポグスワフが小さい声でもらすと、「なんでいけないよ! もう鳥篭はないんだからいいじゃない!」サバラは気焔を吐く。そのくせ怒りだした理由を何一つ説明しなかった。


「サバ姉ちゃんがいないなら行かないよ!」常盤も合わせて駄々をこねる。 


 大した理由を持たないスニンも一緒になって懇願するので、常盤の演奏姿を眼福とするポグスワフは折れる羽目になり、今までどおりサバラのついてくるのを認めるしかなかった。結局痛みの分だけの金が支払われることで解決した。鳥篭を見て興奮した理由はサバラ以外にはわからず、鳥篭を用意していた本当の理由も、ポグスワフだけにしかわからなかった。 


 不揃いな肢体に偏屈な性格、それに腰の低い、不恰好に着飾った上辺だけの言動、ポグスワフのあらゆる面をサバラは毛嫌いした。唯一認められるのがピアノの教授だけで、稽古を始めてから、常盤の腕前は段違いに輝きを増した。


「いい常盤、確認するわよ、ピアノに関してはポグ先生の言うことをしっかり聞かなきゃいけないけど、それ以外は何一つ言うことを聞いちゃだめよ、いい? あの先生の教えは最高だけど、人間としては最悪だからね、一つだって真似しちゃだめよ、いい? 仕草も口癖も絶対に真似しちゃだめ、ついつい似るようなところを自分で見つけたら、真剣に悔い改めるのよ、いい? わかった? できる限り体には触れちゃだめよ、肌を合わせればそれだけ心が汚れるからね、いい? ポグ先生は見た目も変だけど、それよりも中身が変だからね、常盤は外見がすこし変わっているけど、中身は決して変じゃないのよ、いい? ポグ先生のような変人になっちゃだめよ、まともなピアニストになるのよ、わかった?」


 稽古前と後の二回、必ず常盤の体を前から抱き、頬をすり合わせて、サバラは一心に想いをこめて耳元に囁く。それから滑らせて、優しく口づけをする。


「いい? ポグ先生に近づかれて気分が悪いけど、我慢して稽古するのよ、わたしが常に後ろで見守っているからね、あの人を反面教師に学ぶのよ、忍耐を学ぶにはこのうえない人だから、生理的に嫌でも、構わず演奏に集中するのよ」


 二人は指を絡めて手をつなぎ、家路に向かう。二人の影は濃く、あらゆる方向へ伸び縮みしては、形影一体となって電飾のうねる夜を歩き続ける。



 サバラの想いを顕に常盤は成長していった。

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