四章 3



「私を殺してくれ。ワレサ」


 ふりむいたハイリーの両眼からは、涙があふれていた。


 病のせいで表情のなくなったおもて。

 嗚咽おえつの声もない。

 静かな涙。


「私の体が完全に病におかされる前に、おまえの手で私を殺してくれ。今ならば、私は死ねる。この心臓が動いてるうちに。その剣で」


 そうしなければ、ハイリーは狂ってしまうだろう。

 いや、すでに狂い始めていたのかもしれない。八つの子どものワレサに、自分を殺してくれと頼むのだから。


(ああ。ハイリー。おれは大人になった。約束どおり強くなって、今なら、あなたより力もある。あなたが歩けなくなれば、おれが運んであげる。あなたのかわりに手紙も書く。食事のときには、おれの手で一口ずつ食べさせて、湯浴みでは背中を流す。今なら、おれはなんだってできる。なんだってできるのに、どうして、あなたはいないんだ。なぜ、死んでしまったんだ)


 生涯でただ一人、主君にしてもいいと思った人だったのに。不治の病に身も心もむしばまれて、死んでしまった。


「ワレサ。何をぼんやりしてるの?」


 呼びかけられて、ワレサはドキリとした。


(この子も病気なんだ。怖い……)


 皇都へ向かう船のなか。

 出会った少女。


「ねえ、ワレサ。わたしのお兄さんになってくれない? わたしね。一人っ子でしょ。ずっと、お兄さんがほしかったのよね」


「君、誕生日は?」

「風の月よ」

「ぼくも風の月だ」


「何日? わたしはね。アイサラの一日よ」

「じゃあ、ダメだ。ぼくはアイサラの三日だからね。君のほうが、ちょっぴり、お姉さんだよ」


「ええッ。たった二日じゃない。なんとかできない?」

「そんなのできないよ」


 ほんとは一つだけ方法がある。ワレサのほうが年上になる方法が。


 でも、大丈夫。

 シェレールは死なない。


 そうだよね。シェレール。君の胸は少しだけ、ほかの子より弱いかもしれないけど、それだけのことさ。

 死んだりしない。


 だって、君はこんなに明るくて、活発な女の子だ。病気だってこと、忘れてしまうくらい。


「ねえ、ワレサ。わたし、やっぱり、あのことはよすわ」


 真剣な顔をして、何を言いだすかと思えば、


「あのことって?」

「わたしのお兄さんになってほしいってこと」

「ああ、あれね。ムリだって観念したの?」

「わたし、イヤだもの。ワレサがお兄さんだなんて」

「……そう」


 嫌われたのかと思った。

 でも、シェレールは頰を真っ赤にそめて、こう言った。


「兄妹では結婚できないじゃない」

「シェレール……」

「わたしね。あなたと離れていると、体の半分がなくなってしまったような気がする。父さまより、母さまより、ワレサが好き。世界で一番、ワレサが好きよ」


 いいの? ぼくは君を愛してもいいの?

 こんなに……汚れてるのに?


「どうして泣くの? ワレサ」

「君を……好きだから」


 幼くて、切ないキス。

 シェレールのふれた唇から、透明な光がさして、ワレサを洗っていくような気がした。


 この子がいればいい。

 もう何もいらない。

 神さま、どうか、この子を奪わないで。

 ぼくの命をかわりにあげる。

 だから、お願い。

 この子を殺さないで。


 あんなに必死に祈ったのに——


(死んでしまった。シェレールは死んでしまった!)


 この世に神なんていない。

 泣き叫んだ、あの日。


「信じない! ぼくはもう二度と、神なんて信じない! あんなに頼んだのに。シェレールをつれていかないでって。頼んだのに!」


 みんな、死んでいく。

 おれの愛した人は……。


「そんなことはないさ。君がそう思いこんでるだけじゃないのかい? ねえ、ワレサ。僕がそんな迷信、ふきとばしてあげるよ。もう一度、親子になろう」


「ミスティ……」


「皇都に来て、まさか、君に出会うなんてね。昔、必死に探したときは、まったく消息もつかめなかったのに」


「探したのか。おれのこと」

「そりゃ探すさ。七つや八つの子どもが、一人でどっかに行ってしまったんだぞ。僕の財布から現金を全部ぬきだしていったのは、さすがだったが」


 ミスティルが笑うので、ワレスも笑った。


 ミスティは、ほんとに変わらない。昔から陽気な楽天家だった。


 各地を放浪していた少年時代。最初に出会ったときは、ただの男娼と客だった。


 ケンカもした。

 ミスティは怒りっぽかったから。でも、子どもみたいに純粋だった。


「もう一度、やりなおそう。今度こそ、君にふさわしい父親になる。僕だって、あれから二十年。人生経験をつんだ。少しはマシな親父になれる」

「あんたは知らないんだ。おれがどんな人間か。あんたにふさわしくないのは、おれのほうなんだ」


 すると、まったくの世間知らずだと思っていたミスティルが言った。何もかも見通したような、おごそかな微笑で。


「知ってるよ。君は子どもだった。ただ、けんめいに生きてきただけじゃないか」


 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかった気がする。


「ミスティ。おれ……」

「僕がゆるす。君は何も悪くない。世界中の人が敵にまわっても、僕は君の味方だ」


 やっと見つけた。

 おれの帰る場所。

 あたたかく、おれを迎えてくれる人。


 ミスティにしがみついて泣いた。

 彼の明るさなら、ワレスの運命をくつがえしてくれるのではないかと思った。

 もう一度、信じてみる気になった。

 自分の未来の幸福を。


(でも……)


 だめだった。

 けっきゃく、ミスティルも……。


 誰もいない。

 おれのそばには、もう誰も。

 みんな、おれを置いていくんだ。

 いつも、一人。おれは一人……。


「おれがいますよ。隊長。おれが、ここにいます」


 目の前に、ハシェドの顔がある。悲しみに、おぼれそうなワレスの手を、きつく、にぎしりしめている。


「ああ……そうだ。おまえがいる。どこにも行くな。ずっと、いてくれ……」


 ハシェド。おまえは、ずっと、そばにいてくれ。

 世界の果てで見つけた、おれの恋人……。

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