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 素敵な十勝晴れだ。


 宿の朝飯も綺麗に平らげた。調子が良いらしい。


 スタッフはアジアの人が多かったが、皆気持ちの良い動きをしていて心地好い宿だった。


 出発前のチェックをしていると、相棒の後タイヤの減りが早いことに気がついた。どうせこの旅の中で何本か履き替えることになるだろうと旅に出発していたので、次に札幌に行った時にでも交換しようと思った。大阪や神戸、京都のような極熱の路面温度になることはないだろうと高を括ったのだ。


 この前通ったのと同じ道道75号線を、少し雪の白が減った山並みを見ながら走った。


 あまりにも天気が良かったので、国道に出て日勝峠、新得の駅前を通って狩勝峠からの二つの十勝平野を見下ろした。


 何処から眺めても十勝は良かった。富良野や美瑛の良さとは一味違う、途轍もない広大さが魅力だった。


 いつまでもボーッとしている訳にはいかない。そろそろ道の駅が開きそうだったので、重い腰を上げて鹿追町に向かうため来た峠道を下った。


 平地に下りて新得の街中、信号待ちで停車すると、上からの照りつけと下からの熱気で、タンカースジャケットを着ているのが熱く感じた。少しでも涼めるように畑の中を走って行っても良かったが、前のジッパーを開けて走ると、中の灰色のパーカーが虫の死骸だらけになる。それに時々出会う路面の悪さと、地図にない道で迷って時間を消費することを考えると、無難に国道274号線で道の駅しかおいへ向かった。勿論、カントリーサインには鹿が描かれていた。


 北海道を代表する画家、神田日勝の美術館と鹿追町民ホールの横に、道の駅しかおいはあった。


 何人か開店を待っている様子で、店員が扉を開くと、それらはすべてスタンプ台に向かった。スタンプブックは盛況らしかった。


 俺も列の最後に並び、スタンプを押して足早に次に向かう。


 それにしても、十勝晴れの十勝は俺を惚けさせる。


 同じ鹿追町の道の駅うりまくでスタンプを押していると、さっきしかおいで二組前に並んでいたカップルの女性が、「あっ、さっきも……。お互い頑張りましょうね」そう笑顔で言った。


 どうやら俺がずっと持ち続けていた険というものが、弾と一緒に外に抜け出ていったらしい。


 「また何処かで」


 そのあとに続く適当な言葉が見つからないまま俺は、カップルに別れを告げて道の駅を出発した。


 ただ孤独を友に走るだけ、死ぬための準備を行う旅、そう心に刻んで船に乗ったはずだった。なのに、他人とのちょっとしたふれあいが、これも旅の楽しみなのだと俺の脳味噌に心が訴える。


 国道274号線を北に少し走り、然別湖に向かう道道593号線の丁字路を過ぎると、東に向いて、時折波打つようなアップダウンのある15キロほどの直線道路になった。


 夏のような日差しが、タンカースジャケットとグローブの隙間の地肌を、ジリジリと焼く感覚のある中、もう惚けが止まらない。


 ただ道が真っ直ぐに、ただアスファルトが真っ直ぐに引かれている。だけだった。


 肩を寄せ合うように高く伸びた防風林は、この広大な土地を開拓してきた人々の苦難の歴史を見てきたはずなのに、ただサワサワと時折吹く夏の風に枝を揺らして立っている。ただそこに、今ある風景が、俺をこうしてしまうのだった。


 遠くから深緑の物体がゆっくりと波間を泳ぐように近付いてきて、近づいてそれが自衛隊の車両だと気がつく。そんなことを繰り返して、俺は馬鹿になっていくんだ。


 士幌の道の駅で早目の昼飯にすることした。


 広い駐車場はほぼ満車に近かった。


 札幌ナンバーの蒼い二つ目のロードグライドの隣に相棒を停めた。


 相棒から離れる時、グルメパスポートと一緒にスタンプ帳も持ってきてしまった。もうここのスタンプは押し終えているのに、まったく俺はボケている。引き返してタンクバックに収めた。


 それにしても車も人も多かった。ガラケーを開いて、やっと今日が休みだということに気がついた。


 タンクバックに入れていた新品のお茶が随分と温まっていた。照りつけるお天道様の下で、それを飲む気にはなれなかった。


 俺より少し年上に見える天然パーマの長めの髪で熊のような体躯をした男が隣に停まっているロードグライドに近づくと、「こんにちは」と話し掛けてきた。ロードグライドの持主らしい。 


 彼は、俺のナンバーを見て「船で来たの?」、「北海道は初めて?」、「これからどこを走るの?」などなど。


 そして最後に「今日は暑いねぇ。〇×△□●△◇……」と言った。


 適当に会話していた俺は、彼の最後の言葉に耳を疑った。


 「スリップサインが出てるよ。そろそろタイヤ交換しないと。いつまで北海道にいるの?」


 確かにスリップサインが一ヵ所出ていた。今朝確認したはずなのに。後方荷重のバイクだが、これほど負担がかかっているのだとは思わなかった。運ぶのが嫌になるほどの、術後すぐなら正中切開した胸がパカリと開くほどの大荷物だ、仕方がないのかもしれなかった。


 釧路は知らないが、今住んでいる札幌ならわかるという彼にショップ事情を訊きながら建物に入り、地図に札幌のディーラーの場所と他のショップの場所の印をつけ、ガラケーに電話番号を登録して、彼に拝謝してから別れた。何と気のいい男なのだろう。


 しほろ牛丼を食うために俺が入店の列に並んでいると、もう出発したと思っていた彼が戻って来た。そして、「釧路だったら、こことここがあるよ」と、スマホを開いて見せた。北海道初心者でガラケーの俺を心配して、態々探してくれたのだった。さっきはそれほど気にならなかったのだが、スマホを操作する男の革ジャンの右袖口からは大量の腕毛がこんにちはしていた。左手首に見えているトレーナーの袖口が右手首には見えなかった。


 俺は、遠い昔、大阪から東京に出て行った時の薄っすらとした記憶を思い出そうとした。あの頃は、どういう風に人と接していたのだろうかと。


 しかし、思い出せなかった。彼の親切に対して、どう俺は義理を返せばいいのだろうか?


 間誤付いている間に彼は去っていった。


 こんな出来事が、思いの外俺の心に蓄積していっている。人の善意というものが、残っている俺を蝕んでいくのだ。いざという時の執着心が増えるのではないか?そう思った。


 しほろ牛丼と彼の優しさが胃に収まって、俺は先を目指した。


 足寄に寄るのは今度にして、道の駅・しほろ温泉とほんべつを回り、そのまま道東自動車道で、三泊の宿を予約している釧路に向かうことにした。宿に着いたら彼から教えてもらった二軒のバイク屋に電話して、タイヤの調達をしなければならない。上手くいくといいのだが……。


 少しの不安感から昼飯を食べる前の惚けは影を潜め、なるだけタイヤに優しい走行を心掛けることとなった。まぁ、それも最初の内だけだった。というか、これ以上どう走ればタイヤに優しいのかわからなかった。これ以上ゆっくり走ると迷惑になるし、交差点に信号などないので急発進急停止などしようもなかったのだ。


 しほろ温泉までの道道134号線を走っていると、惚けがまた顔を目一杯に出してきた。風は吹いていなさそうだが、空気抵抗で起こるゆるりとした風が心地好かった。


 道の駅・ステラ★ほんべつまでは、地図上の距離を考えて、くねっている道道134号線ではなく直線で南へ行ける道道496号線で進んだ。その道は、さっき以上に惚けが馬鹿になるような道が続いていた。車は一台も走っていなかった。あまりにも田舎過ぎる道だったせいか、池田町も本別町もカントリーサインには出逢えなかった。


 ほんべつでスタンプを押したあとタイヤを確認すると、悲しいことに一つしかスリップサインが出ていない所はなかった。路面に手をつけてみたが、熱過ぎて長時間は触っていられなかった。マンホールの上なら目玉焼きが出来ていただろう。そう思うほどに今日は暑かった。もしかして、アスファルト舗装が本州とは違うざらつきが多いのではないだろうか?そんな気がしていた。


 暑い十勝とはオサラバして、今日の予想気温が16℃だった釧路へ向かうために本別インターへ向かった。


 道東自動車道で東に向かうほど、体感温度が嘘のようにドンドンと寒くなっていった。


 この気温ならタイヤには優しい。その時、俺はツイていると思った。


 終点の阿寒インターを降りた。国道240号線を釧路方向にとった。山手から少しずつ下っていく。そのうちに木々がなくなっていった。その先に俺を待っていたのは、異世界と思える景色だった。


 俺の視点より高いものは、道端の電柱とポツンポツンと立つ鉄塔しかない、それ以外は草原なのか湿原なのかわからないものが、どこまでも漠然とそれが広がっているのだった。


 「これが道東か……」


 俺は自然と呟いていた。


 ポツンと立っている見慣れた三角青の国道標識さえも、俺の知ることのなかった景色の中で、何故だか素敵にマッチしているように思えた。


 それは、襟裳で感じたものとは違う何もなさだった。


 先に進むと、遠くに街が現れた。


 標識に従って釧路新道・国道38号線に乗り、釧路西で降りた。


 北海道なのに鳥取大通を進み、しほろで出会った彼が教えてくれた、マティーニの配合を変えてオレンジキュラソーとスウィートベルモットを数滴入れた、紅いバイク屋の前を通った。


 街中を走っていると急速に体力を消費する。ホテルは釧路駅の近くにあった。和商市場、釧路駅の前を通ってやっと辿り着いた。


 荷物を降ろしチェックインを手早く済ませ、部屋に入ってすぐにさっき前を通ったバイク屋に電話した。すると、タイヤがあったとしてもそのチェーン店で買った車両しかこちらでは整備出来ない。それが規則だと言われた。


 仕方がないのでもう一つのバイク屋に電話した。


 こちらの方はハーレーをいじったことがないのと、タイヤの在庫はなく、注文しても一週間近くかかると言う。


 俺は釧路でのタイヤ交換は諦めて、PCで一番近いディーラーを調べて電話を入れて、タイヤの在庫確認をお願いした。


 折り返しかかって来た電話で、在庫があるということと、整備予約の空いている三日後、その日なら夕方までに来てくれれば預からずに交換出来ると言った。


 俺は天気予報を確認しながらそれでお願いした。折角道東に移動したのにまた十勝へ逆戻りだ。仕方がなかった。


 これで一応の目途が立った俺は、JR釧路駅に電話して、明日の釧路湿原のろっこ号に空席があるかを訊いた。まだハイシーズンではないので充分空きはあると言い、明日の朝でも大丈夫だと思うと係の人は言った。


 俺は相棒で釧路の街を知ることにした。といっても、タイヤ交換に向かう日の朝飯を食べようと思っている店のある新釧路川に架かる西港大橋近辺と、釧路駅の南側から幣舞橋までの間を走り廻っただけだった。


 大体の位置関係を把握出来たので、幣舞橋を渡ったフィッシャーマンズワーフの対岸で、陽が沈むのをボーッと眺めていた。


 綺麗な夕焼けだった。


 子供の頃見た記憶のある夕焼け空は、誰と見た夕焼け空だったのか?ギャンブル狂で小心者の叔父だったのか?キッチンドランカーで気分屋の叔母だっただろうか?


 今となってはどうでもいいことと、それをスッと忘れると、そこにある茜色の空が俺をすべて包み込み、生きているのだという当たり前のことをわからせた。


 茜色が群青色に変わる。


 心が満たされたところで次は腹を満たしに、『レストラン泉屋』へ行ってスパカツを食べた。想像どおりの味で美味かった。ビールが飲みたくなったが、腹が一杯過ぎてウィスキーの小瓶で我慢した。




 次の朝は早かった。


 別にやることもなかったので、タイヤ交換後の予定を地図とPCを使って練り上げる。やはり先に道東を済ませておこうと思う。その方が7月に入ってすぐに、オロロンラインを走れそうだと思った。


 時間制限もない気ままな旅だが、これまでそう気ままな旅にはなっていなかった。天候だけでなく、店や施設の休業日や営業時間、宿の予約状況など、俺以外が帰する要因だけでも気ままに過ごせていない。それどころか、俺自身の体調による要因も否めない。もっと健康で、若い時にこそ、気ままな一人旅をすべきだったのだと、この身体の俺は思った。後悔は先に立たずだ。


 けれど、本当にそうだろうか?可能なことなのか?と自問自答に入った。


 若い時に、自分を振り返り、自分を見つめ直す時間など俺にはなかった。ある時間はすべて、先に進むためのものだったはずだ。それに金がないので自由には動けない。ただ毎日を必死に藻掻いて生きていた。


 金に余裕が出来ると、時間に余裕がなくなった。立場がそうさせた。


 やはり、すべてをかなぐり捨てなければ、こんな旅は出来ないのだ。


 ガラケーのアラームが鳴った。駅に向かう時間だ。


 雨は降ってはいないが、どんよりとした灰色に覆われていた。


 無事に切符を買い、昼飯の駅弁を買ってから、駅舎の中のコンビニでアメリカンドッグを軽い朝飯代わりに買った。この辺りでは、ケチャップではなく砂糖をまぶして食べるらしかったからだ。


 イートイン出来る場所はなかったので、外の通路に置かれたゴミ箱をカウンター代わりに、袋を破り開いてスティックシュガーを振りかけた。疑心案議で口に運んだが、一口目はまわりの衣の部分が甘いドーナッツを食べているようで、あまり変化はなかったが、中のソーセージと一緒になると、途端、ソーセージの塩味が主張し始め、口の中が楽しくなった。


 楽しい気分を引き摺ったまま改札を通った。


 三番線ホームにはもう、緑に乾いた土色のくしろ湿原のろっこ号2・塘路行きが停車していた。


 客車内はテーブル席と二人掛けの展望席があり、俺の席は四人掛けテーブルを独り占めだった。


 客層は老人だらけだった。夫婦もいれば男女混合グループ、女だけのグループもいたが、男だけのグループや、俺以外の一人旅もいなさそうだった。


 列車は釧路駅を出るとすぐに釧路川を渡り、東釧路を過ぎると進路を左に取り、右に花咲線の線路が続くのが見えていた。


 湿原に入る前、遠くに水門を見ながら、鯖と鰯のほっかぶり寿司駅弁を食べた。なかなか美味いものだった。


 遠矢を越えて、やっと釧路湿原に入って行く。車窓にポツポツと細かな雨粒がつき始めた。


 ログハウス調の釧路湿原駅では雨は降っていなかった。


 細岡駅もログハウスだ。見送りに来てくれていた地元の人は、上下頑丈そうな合羽を着こんでいた。


 山並みが小雨に煙る湿原の中には、朽ち果てた民家がポツンポツンといくつかあった。ここにも人が住んでいたのだ。人間はなんと逞しいものなのだろう。単純にそう思えた。


 のんびりと進んで行く観光列車に揺られた俺は、左右の車窓から見える風景を、余すことなく目に焼き付けた。


 この旅初めての蝦夷鹿は、細岡駅を過ぎた、蛇のようにうねっている釧路川のほとりに佇んでいた。夏になれば、このうねる釧路川をカヌーで下ろうかと俺は考えていた。


 終点・塘路の駅の周りには人家が多少あった。


 ホームに流れ出す乗客の中に、ガラガラとキャリーケースを引く、白い薄手のダウンジャケットを着て、白と黒の変わった柄のパンツをはいた女性がいた。


 俺と同じ車両だったのに、風景に夢中で気がつかなかった。


 ホームと駅舎の間の砂利の部分で、彼女が引くキャリーバッグが立ち往生した。


 真後ろを歩いていた俺は、そのキャリーバッグにぶつかりそうになった。


 危ないので俺が声をかけたが、彼女は日本語があまりわからない様子だった。仕方がないのでジェスチャーで俺が持つと示し、「オ、オオ」と言っている彼女の手からキャリーバッグを預かって、舗装されている駅舎内まで運んだ。


 彼女は「ありがとうございます」と流暢気味に言って頭を下げた。


 俺は軽く手を上げて返事を返し、駅舎から外に出た。


 路面は濡れていたが、雨は降ってはいなかった。


 駅前の広場のような空地のようなバスの転回所のような場所の向こうに、湿原カヌーの看板を掲げる店があって、道を挟んだ反対側には名物いもだんごを売っている店があった。


 カヌーがどんなものか訊いてみようと店に向かうと、急に大きな雨粒が落ちてきた。いもだんごの店の方が近かったので、俺はその店の軒先に避難した。


 白いダウンの彼女は、宿の人なのか迎えの人にキャリーバッグを持ってもらい、傘をさして駅前の公園の奥に建つ建物へ消えていった。


 いもだんごが焼き上がるのを待っている間に雨は止んだが、気を削がれたのでカヌーのことを訊くのは止めた。塘路の駅周辺を少し散策して、焼き上がったいもだんごのベンガルと呼ばれる菱の実入りの物を受け取って駅に戻った。


 復路の列車のテーブルでいもだんごを食べた。菱の実の食感が無ければ、昔ながらの砂糖醤油のだんごだった。こんな味が俺は好きなのだなぁと再認識した。


 列車の扉が閉まる少し前に彼女は飛び込んできた。


 行きにガヤついていた男女の老人グループが乗ってこなかった車内は、妙にガランとした味気なさが漂っていた。


 車窓の外には大粒の雨が降り出していて、いっそう霞がかった湿原が、やけに幻想的な風景に見えていた。


 目の間の席に誰かが座った。白が俺の目に飛び込んだ。


 「さっきは、ありがとうございました」


 キャリーバッグの彼女だった。


 「いいえ」


 「あのう、日本人ですか?」


 彼女の目にはどう映ったのかは知らないが、俺は日本人だった。


 「そうやけど?」


 「そう……やけど。痛いですか?」


 「痛い?」


 俺からすれば彼女の方がイタかった。


 しかし、すぐに彼女の勘違いに気がついた。彼女は関西弁を知らないのだ。


 「俺は、日本人です。あなたは、何処から来ましたか?」


 「わたしは、台湾です。タイペイ、わかりますか?そこから来ました。あなたはどこから来たか?」


 「大阪、お、お、さ、か。わかりますか?」


 滋賀と言ってもわからないかもしれないし、俺自身、住所を移しただけで、滋賀県のことなど琵琶湖があるくらいしか説明出来ないのだ。


 「はい、オオサカ、知ってます。たこ焼き食べました」


 白く細い手指を動かしながら、笑顔で話す彼女はなんとなく可愛かった。


 「日本語上手いね」


 「そう、ありがとうございます。ニホンゴ、アニメでおぼえました」


 「アニメで、凄いね」


 「凄い?わたし?ありがとうございます」


 行きとは違う場所に鹿がいた。俺は指を差して彼女に鹿がいることを教えた。


 彼女は窓ガラスに貼りつくように両手をつけて、子供みたいに幻想的な湿原に跳ね飛ぶ鹿に見入った。


 煩わしいと思っていたことが、少しずつ、良い感情を生み出すこともあるのだと、じんわりと染まっていく俺を自覚した。


 俺と同じように道内を見て回ると言った彼女との一刻は、あっという間に過ぎていった。


 改札口まで俺が彼女のキャリーバッグを運び、雨の止んだ釧路駅と書かれた看板の下でバスに乗ると言う彼女と別れ、俺は和商市場に向かった。


 ぐるりと市場内を見て回った。美味そうな海産物がずらりと並んでいた。


 市場の奥の方を歩いていると、ラーメンスープの良い香りが鼻に不法侵入してきた。まずい、今食べたら酒が美味く飲めなさそうなので、必死のパッチで我慢した。


 まだ店が開くまでには時間があったので、一度ホテルの部屋に戻ってシャワーを浴びた。


 俺は歩きながら、次、釧路に泊まるなら末広町近くにしようと思えるほど、飲み屋街は駅から離れていた。


 釧路で有名なタレザンギの店に行ってみたが、雰囲気が良くなくて、味が良いだけに残念だった。


 早々に店を出て、釧路赤ちょうちん横丁に向かった。


 帯広と比べても閑散とした飲み屋街で、ここだけが溢れそうなぐらい賑わっていた。


 俺は、とりあえず横丁を奥まで人混みを分けるように進んでみた。


 狭い通路の一角にテントが張られていて、『赤横はしご酒』のイベントが行われているのだった。


 参加しないという判断は、今の俺にはなかった。


 チケットを買って首からぶら下げ、店の簡単な説明書きのあるチラシを手に、俺は横丁を彷徨った。


 不思議なもので、四店舗まわる間に顔見知りが出来た。


 意気投合したその男女グループと最後の店で呑み、釧路の情報を色々と仕入れることが出来た。


 若い頃の盛り上がりに似た感覚を思い出していたが、俺は何故だが急に一人になりたくなった。いや、死ぬ時に思い出したくなかっただけかもしれなかった。


 皆に礼を言って先に店を出た。喧騒を離れた俺は、一人になった心地好さと、チョッピリの淋しさを両手に握りしめていた。


 釧路の夜には寒さがあった。


 あと少しの余裕を胃に持たせていた俺は、旅の前から気になっていた『つぶ焼き かど屋』を〆の店として目指した。


 上手い具合にカウンター席に空きがあった。それも焼き場の目の前だ。サッポロクラシックの瓶ビールにも心惹かれたが、ここはポン酒の熱燗だった。 


 青ツブにこの店独自のタレが注ぎ込まれてぐつぐつと焼かれていく。その香りだけで一合があっという間に消えた。


 ポン酒のお代わりを頼むと、お代わりと同時につぶ焼きが運ばれてきた。


 竹串を手につぶとの真剣勝負。


 上手くクルリと身が飛び出すと気持ちが良かった。


 一気に口に放り込むと、一咬み毎に旨さが口内に染み渡っていく。舌だけではなく口そのもの自体が、旨さを感じていた。


 旨過ぎる一人前五つを平らげても、まだお代わりがしたくなったが、俺は〆の醤油ラーメンを注文した。


 運ばれてきたラーメンのスープは黒褐色で、鉢が持ち上げられないほど熱かった。もしさっきのイベントで知り合った人に聞いていなければ、口の中がニ三日大変なことになっていただろう。


 レンゲですくってスープを喉に流す。色の割にはスッキリとした出汁の効いたスープだった。中太やや縮れた麺を啜ると上手くスープが絡み、綺麗なハーモニーを醸し出していた。


 具が葱とメンマにチャーシューだけというシンプルさが、呑んだ〆には心地が良かった。


 昨日も酒を買ったかど屋の向かいのセコマで、今日も寝酒のビールとウィスキー、それにお茶のペットボトルを三本も買ったので腕が怠くなり、途中で何度も持ち替えた。


 冷たい夜風に吹かれながら帰る、ホテルまでの道のりはやはり遠かった。 


 ホテルに着いた頃には、もう酔いが醒めている状態だった。


 PCを開いて明日の天気予報を調べる。釧路は曇り、帯広は雨の予報だった。


 不意にガラケーが震えた。徳永かなと思って開くと、彩香からのメールだった。帯広の最後の夜以来メールがなかったので、もう忘れたものだと思っていた。


 『今、何処を走っていますか?苫小牧にはいつ頃来ますか?気をつけて走って下さいね 彩香』


 そんな文字だけが並んでいた。


 俺の中で、彩香を思い出すのと同時に、今日出会った彼女の笑顔を思い出していた。彼女は独り、気が済むまで北海道を旅するつもりだと言った。俺と同じじゃあないかと言いかけた言葉を飲み込んだ。


 彩香に初めて返事を返すことにした。


 『釧路にいる』


 それだけだった。






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