4,トキメキ

ある日、体調不足で体育の授業を見学していた恩田は、クラスのバレー部男子のサーブを顔面で受けて倒れてしまった。鼻からは大量の血が噴き出して、倒れた時にぶつけた後頭部を痛そうに押さえていた。

担架を持ってくるのが煩わしく感じ、僕は恩田を抱いて保健室まで運ぶことにした。立てそうにない恩田の腰と膝を持ち上げて、世間で言う「お姫様だっこ」をした僕の後ろから、「きゃー」と女子生徒の黄色い歓声が聞こえたのが、何とも心地よかった。

恩田は小柄で体重は思ったよりも軽かったから、恩田の腕が僕の首の後ろに無くても、僕が彼女の体を支えることは容易だった。

一歩踏み出す毎に、空中に投げ出された彼女の細く白い手足が力なくぶらぶらと揺れる。細い体を包むのに充分過ぎるほど長い僕の腕は、彼女の柔らかな部分にも触れてしまう。それでも、彼女は嫌がらない。

嫌がらなかったのだ。

体育館から保健室までのほんの数十メートルの距離が、僕には永遠に感じられた。午前の授業中の学校で、誰もいない静かな廊下を、僕たちは二人きりで歩いている。

僕の胸に埋める恩田の顔が、蒼白い手足とは裏腹に赤く色付いていた。

「大丈夫か」

そう囁いた。

恩田は顔を上げ、僕の瞳を覗く。そして、僕に相談をし終えた後の様に満面の笑みを浮かべ、ゆっくり頷いた。

心臓が、きゅうっと締め付けられた。久しく疎遠になっていた恋という感情が、体を突き破って外へ出たがっている。出してしまえば、楽だろう。でも、僕にはそれができない。

僕は、教師だから。

恩田は、生徒だから。

恩田はこの腕の中にいるのに、僕は彼女を手に入れることはできない。いや、現実にはできるのだろう。でも、残りの人生を賭してまで、彼女を得る覚悟が僕にはあるのだろうか。

「ねえ、先生?」

とうとう保健室に着いてしまって、僕は奥のベッドに恩田を寝かせた時だった。

「何だ、恩田」

「恩田は嫌。椿って呼んで」

「……椿」

椿は、目に涙を浮かべていた。泣くほど、名前で呼ばれたかったのだろうか。

「あのね、先生。今朝、私のお父さんが死んだの」

「し……」

「何で死んだと思う?」

「ご病気、とか……」

「ううん、違うの」

椿が、僕の裾を掴んだ。

「朝、私が起きたら、家が静かで、まるで誰もいないみたいになってて」

僕は、思わず椿の肩を抱いた。辛いだろうに、悲しいだろうに、椿は感情を殺そうとする。泣けばいいのに、唇を噛み締めて、じっと何かに耐えている。こんな時まで、椿は何に縛られているのだろうか。

「おかしいって思ってリビングに行ったら、浮いてたの。お父さんが、足をぶらぶらして、浮いてたの……」

「もう、いい。もう何も言わなくていいんだ、椿」

保健室の窓から差し込む午前中の柔らかな日差しが、光の筋となって椿の髪を照らしている。その艶のある真っ黒な髪に包まれた桃色の頬に、一筋の雫が零れた。

「おかしいなあ。もう泣かないって、お母さんと約束したんだけどなあ……」

そうか、だから、椿は感情を殺していたのか。亡き母との約束を果たすために。彼女の母親が亡くなったのは椿が5歳の時だから、もう12年間も守っていたことになるのか。

「椿は充分頑張ったじゃないか。お父さんが亡くなったのも、椿のせいじゃないよ。だから、泣いていい。僕が支えてあげるから」

僕は、腕の中の椿をより一層強く抱きしめた。微弱ながらも、彼女の腕にも力が籠るのを感じた。

椿を、二度と離すものか。僕は、やっと手に入れた。やっと、椿は僕の物に……。


カシャッ。


僕の背後から、人工の光が飛んで来た。やばい。これは、大変な光景を撮られてしまった。僕は、恐る恐る背後を振り返った。

「先生……?」

僕の後方、保健室の入口で盗撮をしたのは、1人の女子生徒だった。それも、如何にも気の弱そうな地味目の生徒。これは、不幸中の幸いだった。

「君、今盗撮したな。いいか、校内でのスマホの使用は禁止だし、まして他人の盗撮も許されないんだぞ。僕は生活指導の教師だから、君のスマホは没収させてもらう。ほら、出しなさい」

こうやって少し脅してやれば、こんな生徒は簡単に征服できる。ああ、やはり教師はいい職業だ。

「え、あ、はい」

ほら、こういう生徒は楽でいいんだよなあ、すぐ従ってくれるから。後は、適当に壊れたとか何とか言ってデータを消せば、僕たちの写真は消えてなくなる。我ながら、良い案だ。

「僕はこれから、つ……恩田さんを家まで送り届けないといけないから、君は早く教室に戻りなさい」

そうして、女子生徒は帰っていった。僕は椿の方を振り返り、すっかり小さくなってしまっている彼女の唇へキスをした。急な出来事に驚いて、目を見開いている彼女の表情にすら、愛おしさを感じる。

「さ、君の家まで送ろう。歩けるか?」

僕は、椿を車に乗せて学校を去った。車に乗ってから彼女の家に着くまでの20分間、僕は彼女に沢山キスをした。嫌がる素振りもなく、少し照れながら僕のキスを待つ彼女が、可愛くて、可愛くて、心臓が破裂しそうだった。

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