萱草色の飴

有髷℃

0,ユメ

 あの日のことは、今でも覚えている。



 確か、東京へ出張しに行った帰りの事だったと思う。不安定な月が薄らと登場し始めて、西の端に追いやられた橙色の太陽が、目を刺すような眩い光を発していた。

 単調な色の信号が停止を知らせる色に変わり、僕はゆっくりブレーキを踏んだ。ちょうど目の前に現れた太陽の光が五月蝿くて、目を背けようと、右を向いた。


 その時だった。


 女の人と目が合った。

 僕が運転する車の、右に止まったバスの中に、彼女はいた。

 今思えば、何故目が合ったのだろう。いや、何故合ってしまったのだろう。あの時、目の前にあの光がなければ、右ではなく左を向いていれば、彼女と目が合うことも、話すこともなかったというのに。

 僕は、あの頃の自分を恨んでいる。もし、あの時の僕に会えるのならば、真っ先にこう言うだろう。


 その女から逃げろ。


 だが、例えそれを言えたとしても、あの時の僕は耳を貸さなかったに違いない。

 彼女は、僕に魔法をかけていたのだから。

 あの時、僕は、彼女から目を離すことができなかった。金縛りにあったように、頭では動けと念じても体が動かなかった。 それは、彼女も同じだった。

 大きな暗黒の瞳で、僕のことをじっと見ていた。これは勘違いや自意識過剰などではなく、本当に見られていたのだ。気まずそうに目を逸らすことも、はにかむこともなく、ただただ、その底なしと思える黒い瞳で僕の目を見返していた。その時の僕は、自分自身を見透かされているように錯覚した。

 僕は、目を逸らしたかった。目を逸らさなければいけない、と直感的に悟った。それだというのに、僕の目は彼女を捕らえたまま、氷漬けにされてしまった。

 極寒のロシアの市場で見るような、釣られてすぐに、そのままの姿で凍ってしまった巨大な魚たち。動いて、海の底へ逃げ出したくても、体が固まってしまって、その場から動くことができない魚たち。

 今の僕は、まさにロシアの魚だ。彼女と目が合ったままの姿で凍らされた、可哀想な魚。僕はこれから、どのように調理されてしまうのだろう。

 彼女は、僕に魔法をかけた。呪いとも呼べる、氷の魔法を。

 僕の目は、必然的に彼女の情報で満たされた。真っ黒な瞳。真っ暗なセミロングの髪。形の整った、綺麗な顔。歳は、幾つなのだろうか。大人の顔つきの裏に、何か見えない幼さを感じた。


 ブ―――。


 その時、奇妙な音が聞こえた。しかし、何だろう、と思っても、僕の脳は正常に情報処理をすることができない。僕の体は彼女に見つめられたまま、硬直し、何も考えられなかった。


 ブ―――。


 再度音が鳴った時、彼女からの呪縛は解けた。氷が溶けていくように、体の自由が戻ってきた。僕はやっと、耳障りな音の正体が、車のクラクションであることに気が付いた。自由になった目で、信号が安全を知らせる色に変わったことを確認した。

 慌ててアクセルを踏んだ。

 車が発進した時、彼女の乗っていたバスを横目で見た。

 彼女がいたところに目を向ける。

 黒い瞳、黒い髪の毛、綺麗な顔を探す。

 僕は、目を疑った。

 彼女が乗っていたはずのバスの中は、艶やかな赤で満ちていた。

 バスの窓から刺す、オレンジ色の光を背景に。

 そして、誰もいなかった。

 無人のバスは、徐々に速度を増していく。それに合わせ、僕もスピードをあげていった。

 周りの車が遅く感じた。おかしいと感じた僕は、ハンドルの奥に見えるスピードメーターを見た。またもや、目を疑った。

 その時の僕は、120キロメートルも出していた。

 ブレーキを急いで踏む。目の前にいる大型トラックには気付かなかったのだ。急ブレーキの鋭い音が響き、僕は顔を顰めた。

 ぶつかる。

 僕は、目を瞑った。






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