第12話「私の目指す場所」

「いや急な出張でな。あの夜から翌日には既にいなかったんだ、本当にすまん姫さん」


 彼女と出会ったあの夜、俺は次の日に必要な資料を作成している途中だった。しかし、彼女のことを心配するあまり、彼女を家に送り届けて帰宅するまですっかり頭から抜け落ちていたのだ。

 もちろん翌日の会議に間に合わず上司から大目玉を喰らった。その挽回の機会が、今回の急な出張だったというわけだ。


 そう説明している現在、二人は橘家のリビングで食卓を囲んでいる。テーブルの上にはもちろんピザ。まるであの夜と同じような状況であるが、ひとつ全く異なる要素があった。それは――


「……」


 むっすー。

 我らがお姫様こと橘愛さんのご機嫌である。部屋に招き入れてくれてはいるものの、顔を合わせた瞬間これである。

 状況は伝えたものの、機嫌は一向に回復の兆しを見せない。先程からピザにも口をつけず、じっと優を見て黙っている。その目に渦巻く感情は複雑すぎて上手く読み取れなかった。


 ……実際のところ、愛自身にも自分の感情が整理できていなかった。ドアを開けて顔を見た瞬間心底ホッとした。しかし彼の顔を見ていると、それだけじゃないものが泉のように湧きだしてくる。安堵、疑念、悲しみ、怒り、感謝……いくつもの「なぜ?」という感情。それらがぐるぐると胸の内に渦巻いている。


 数年間時間の止まっていた彼女の心は、この2週間に激動した感情の荒波に限界を迎えつつあった。


 それに気づかない優は内心冷や汗をたらしながら、もういくつ話題を振ったかわからないが話をし続ける。

 次はどんな話題を切り出そうかと考え、そう言えばと思い付いたことを口にした。

 ――口にしてしまった。


「そういやウチの会社にまで来たんだって?受付から聞いたぞ、そんなに寂しかったのか」


 言ってから優は自分の発言を後悔した。愛の瞳にじわじわと涙がたまっていくのが見えたからだ。

 優は自分の過ちを悟った。なにが、そんなに寂しかったのか、だ。そんなもの寂しいに決まっているじゃないか。両親を失ってからずっと傷付いてきた女の子が、ようやく手に入れた人の温もり。

 それがなんの一言もなく掌からすり抜けていけば、誰だって不安になるし泣きもしよう。

 正直、少し楽観視していた。あの夜の微笑みを見て、これなら大丈夫だろうと思ってしまっていたところはある。

 せめて連絡できればよかったが、あの時は酔っており連絡先のことについて失念していたのだ。

 完全に優のミスだった。相手が年端のいかない不安定なか弱い女の子だということをきちんと理解できていなかったのだ。

 優は掬い上げたと思っていた少女を、再び暗闇の中へ叩き落としていたのだ。

 優は改めて愛に向き直り、頭を下げた。


「すまない、一応断ろうとはしたんだ。だが、俺が好きでやっていることで仕事に穴を開けるわけには――」


 いや、と首を振る。この期に及んでそんなもの、この少女の心を傷付けていい理由になどなりはしない。先日まで、最早これ以上ないほど彼女の心身はボロボロだったというのに。

 優は彼女の姿が見えないほど深く頭を下げる。彼女の心が癒えるのであれば、土下座でもなんでもするつもりだった。それほど自分は軽率で許されないことをしたのだから。すると――


「――――」


 立ち上がって優の傍に来た愛は、ぎゅっとスーツの裾を握る。俯いて表情は見えないが、震える手で裾を握る彼女のその姿は本当に迷子のようだった。


「許してはくれないか?」

「――――」


 首を横に振る。許さない。


「どうすれば、許してくれる?」

「――――」


 愛は卓上に置いてあったスケッチブックを引き寄せ、何かを書き始めた。いまだその表情は前髪に隠れて見えない。優はどのような罰も受ける覚悟だった。そして彼女が示した条件は――


『私とも、約束をしてください』

「!」


 「私とも」と、彼女はそう確かに提示した。この場で優が他に約束を交わしている相手など、「あの子」以外にいない。


 それはつまり、「あの子」との約束と同じように、自分との約束を遵守せよということに他ならなかった。


「――――」


 覚悟が、試されていた。彼女は言外にこう言っているのだ。


 『あなたは私を絶対に見捨てませんか?』と。


 優は一度きつく目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。覚悟など、あの日の夜に彼女の消えてしまいそうな顔を見た時から決めていたはずだろう。


「――あぁ、わかった」


 誓いの言葉を、口にした。

 それを聞いた愛は、ゆっくりと顔をあげる。


「――――」


 優は顔を強張らせた。

 そこには、儚げに涙を流しながら微笑む愛の顔があった。悲しみと、喜びと、安堵と……様々な感情がごちゃ混ぜになったような笑顔だった。


 優はこの光景を忘れまいと心に刻む。唇を強く噛み、血の味を覚えながら痛みと共に記憶する。もう二度と、この少女にこのような涙を流させまい、と。


 そして愛は、スケッチブックに記していく。その約束の内容を。優がこれから彼女にとって不要になるまで続く契約の言葉を。

 書き終わり、愛がゆっくりとスケッチブックを優に見せる。どこかスローモーションにも見えたその動きで示された内容は――


『私が道を見つけるまで、私が言葉を取り戻すまで、どうか一緒にいてください』

「――――」


 悲しい、約束だった。優は胸がズキリと痛むのを感じた。

 こんな当たり前にできることを、こうして文字に起こさせてしまった。こうまでしないと、彼女は他人を信用できない。約束で縛らなければ、安心できないのだ。

 ここまで追い詰めたのはこれまでの彼女の運命と、環境と……俺だった。

 その悲壮なまでの内容に優は……しかし不適に笑った。


「愛、信用できないかもしれないが……俺にはそんな約束必要ないんだ」


 やんわりと否定する言葉に、愛は優を睨み付ける。その瞳には激情が篭っている。「なぜ?」と。「信用できない」と。

 だが、本当のことだ。その証明は、見せた方が早そうだった。

 優は愛の手を握り、部屋の外へ連れ出す。目を白黒させる愛を、優はしっかり手を握り隣の部屋のドアの前まで連れていった。


「これが証明だ」


 いぶかしむ愛は、目の前のドアを見る。確か隣は空室だったはず……まさか!?

 愛はドアの真横、設置されたチャイムのすぐ上の表札を見る。昨日までは真っ白だったその表札には――


『新藤』


 彼の名字がしっかりと刻まれていた。


「出張先から指示出すのは大変だったぜ」


 そういえば、と愛は記憶を掘り起こす。彼の家へとお礼を言いに行く日から、引っ越し業者さんと何度かすれ違ったことを。この場所も、あの夜に送ってもらったときに優には知られていたことを。だから彼はここにいたのだ。


「そんな約束なんかしなくても、俺はお前が『もう要らない』と言うまで一緒にいるつもりだ」


 しゃがみ、目線を合わせてしっかりと言い聞かせる。あの夜に、彼女の諦めたような顔を見た時からこうすると決めていたのだ。


「愛の約束は守る。だが、その内容は受け入れられない。意味がないからな」


 だから、


「今はまだ、俺との約束の内容はゆっくりと考えてくれたらいい。これ、と決まったときは迷わず聞かせてほしい」


 きっと俺はその約束を必ず守る。俺の道に誓ってだ。


 その言葉を聞いた瞬間、愛はゆっくりと優に歩み寄り、腰に腕を回す。顔を胸に押し付けその表情を見せまいとするが、彼のシャツがどんどんと濡れていくのを感じる。

 肩が震え、嗚咽のような空気が漏れる音が口から出る。それを聞いた彼は、「本当にすまなかった」といって遠慮がちに私の頭を撫でた。

 ますます肩の震えが強くなり、ぐりぐりと頭を押し付けた。

 彼は私を泣かせてばかりだ。

 ――だけどこの涙は、さっき流した涙よりも温かい気がした。


「(……私、決めました)」


 私はまだ迷子で、休憩してばかりだけど……でも、目的地は決まりました。

 どんな道を行けばいいのかもわからず、この先きっと彼を困らせることも多いだろう。

 だけど、それでも構わないと言ってくれた。一緒に迷ってくれると、そう言ってくれた。証明もしてくれた。

 そんなあなただからこそ、私はいつか伝えたい。


 あなたに、いつか「ありがとう」と自分の口からそう伝えてみせる。そして、この胸の中にある大切な気持ちも。だから――


 その目的地に至る道を、きっと私と探してください。


 ――迷子の少女は手を引かれ、その一歩を踏み出した。

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