第10話「教室での私~激怒編~」
最近、橘の様子がおかしい。
「そ、それでは、これで授業は終了します……」
四時間目がチャイムと共に終わりを告げた。
いつもであればこの時間は生徒たちが友人とつるんで学食に行ったり、机を並べてワイワイと弁当を取りだしランチへと洒落こむ、喧騒に満たされる時間となるはずだった。
しかし、橘愛が所属する1-Aはその喧騒の最中になく、逆にピリピリとした緊張感に包まれていた。
教師はそそくさと教壇を後にし、生徒たちは一所に集まり、ざわざわと身を寄せあっている。
なぜこの教室のみがこのような空気になっているのか……それはやはり、この空気の発生源がこの教室に君臨しているからであろう。
その発生源は――もちろん、橘愛その人である。
決してこのような空気を醸し出す女の子ではなかったはず……クラスメイトたちはこれまでの橘を振り返った。
クラス内では特に目立つようなこともなく、ただ静かにそこにいるだけの女の子。
橘自身も積極的に人と関わる方ではなく、クラスメイトたちも、声を出すことができない同年代の子相手にどう接すればいいのかもわからないため、あまり関わろうとはしておらず友人と呼べる者もいない。せいぜい用事があったときに呼び止めるだけという、事務的な関係だった。
まぁ一部、そのミステリアスで儚げな雰囲気に魅力を感じる男子はいたようだが。しかし声をかけるといった行為には至らない。
様子がおかしくなっていったのは、やはり先々週辺りだろうか。彼女の雰囲気が一気に落ち込んだ時期があった。クラスメイトも「なんかヤバくね?」と呟くほどには。
しかし、休日を挟み明けてみれば、今度はとても穏やかな顔をして登校してきた。その様子に安心すると共に、今まで見たことのないような彼女の柔らかい雰囲気に当てられ、元々美少女であったこともありファンも急増。この辺りでファンクラブが開設された。
そうして、男子どもがいよいよ声をかけてみようかとそわそわし始めた矢先に、またも休み明けに彼女の雰囲気が激変していたのだ。
なんというか、先々週のような極端にネガティブな感じではないのだが、暗い。いや暗いというより黒い。黒くて怖い。
――分かりやすく言うと、橘愛は激怒していたのだ。
その禍々しいオーラを受けたクラスメイトたちは一様に目をそらし、今日という日が終わってくれることを祈った。ストーブを点けているというのに寒気がするのだ。
クラスメイトたちは寄り添い合い、もう何度目かわからない会議を開く。議題は、橘愛はなぜこんなに感情を爆発させているのか、だ。
しかし、彼女の情報など知りもしないクラスメイトたちの議論は白熱しない。彼女と会話すらほとんどしたことがないのだ、趣味嗜好すらわからない。
じゃあ今から声をかけようかということにも当然ならない。普段の彼女もそうだが、あの雰囲気の彼女相手に会話を試みようとする人間は、酔っぱらいか、ただの頭のおかしいやつだけだと意見が一致した。
よって手持ちの数少ない情報のみで彼女の悩みに当たりをつけていく。
曰く、「儚げな先々週、何か人に言えない悩みを抱えていたに違いない」
曰く、「穏やかな先週、あれはその悩みが解決したからに違いない」
曰く、「そういえば先週、名刺のようなものを眺めていた。事務所にスカウトされたのでは?」
以上が彼女の様子から得られた情報であり、これらを統合すると――
「彼女はアイドルにスカウトされて悩むもついにデビューし、今は事務所で揉めている」
ということになった。彼らはアホだった。
そんな身を寄せあっているクラスメイトたちの中で、一人の女子生徒がため息をついた。無駄にブレスの多い色っぽい吐息に何人かの男子が振り向く。
たれ目の下の泣きボクロが印象的で、どこか気だるさを感じさせる相貌。制服をきっちりと着こなしているが、隠しきれないほど大きいバストがブレザーを盛り上げている。ついたあだ名は「団地妻」。
彼女は男子たちの好き勝手な妄言に「わかってないわねぇ」とため息を漏らしたのだ。
「あれはねぇ……恋の悩みよ」
そう言った瞬間、一部の男子たちが膝から崩れ落ちた。この前開設されたファンクラブに入っている者たちだった。「あえて考えようとしてなかったのに……」と女々しい言葉をこぼす男子たちに、一部の女子たちは白い目を向ける。
「団地妻もやっぱりそう思う?」、「だよねー、なんだかこの雰囲気も怖いけど、どっちかって言ったら可愛い寄りだし」、「ねぇねぇ、相手はどんな人かなぁ?」
次は女子生徒たちがキャイキャイと騒ぎ始めた。いつだって女の子は恋のお話が大好きなのである。
話題は橘のお相手について言及されていく。どんな人であれば彼女をあんなに感情豊かにできるのか。
とりあえず、同年代という線はない。高校生とはいえまだまだ未熟。彼女のハンデを受け止めきれる余裕も度量も経済力も足りていないだろうという判断からだった。
やはり年上だろうか?そう呟かれた瞬間、きゃあと黄色い声が上がる。大学生や社会人に妙な憧れがある者は、どの世代でも一定数いるものだった。
ヒートアップしていく女の子たち。彼女たちの中では既に、傷付いた女の子に手を差し伸べる、優しさと余裕を持ったイケメン彼氏像が形成されていた。さながら王子様、もしくはお姫様を守る騎士様である。
どんどんと話題が変わっていき、教室内に活気が戻ってくる。
恋の話になって女子たちは盛り上がり、男子たちは涙を流すという混沌の坩堝が顕現していた。橘愛の知らないところで、このクラスは今日も平和であった。
そんな会話が交わされているとは露知らず、橘愛は一人黒いオーラを撒き散らしながらある男性について考えを寄せる。
もちろん白馬の王子様や騎士様ではない。一人の酔っ払いのおっさんについてだ。
一体彼はどこに行ったのか……私を放って。そう思うと同時にやはり腹立たしさが込み上げてくる。
一緒に迷ってくれるって言ったのに!いつでも来いって言ったのに!
少女は今エネルギーに満ちていた。
少し前の彼女であれば、「あぁやっぱり」と思いすぐに諦めていただろう。しかし、いなくなったのは彼だが、元気をくれたのもまた彼なのだった。
こうなったら絶対に探しだして文句を言わないとこの感情は収まりがつかない。
愛は胸ポケットから唯一の手がかりを取り出す。小さい長方形の厚紙、彼からもらった名刺だ。
そこには名前や年齢だけでなく、勤め先である会社の住所や電話番号が記されていた。
――かくなるうえは。そう決意をみなぎらせ、自分で作ったお弁当を食べながら、愛は思いを新たにするのだった。
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