第8話「私は――」

 まなじりを下げてココアを飲む少女の姿に安心し、優は静かに胸を撫で下ろした。

 我ながら随分と語ってしまった。綺麗事だと自分でも思うが、それでもさっきの言葉には誠実さを込めたつもりだったし、嘘も言っていない。本心から出た言葉だった。

 少しでもこの子の気持ちを救えただろうかと顔色を伺っているあたりで、だいぶ入れ込んでしまっているなと自覚する。

 まだ会って数時間しか経っていないというのに、最早この少女をただの他人とは思えないようになってしまっていた。


 さてどうしたものか、と思った辺りでインターフォンが鳴った。玄関に出向きドアを開けると、そこにはしかめっ面を隠そうともしないバイト君が仁王立ちしていた。

 受け取りの際にグチグチと文句を言われたが、チップを余計に弾んでやれば機嫌が良くなるあたり彼も分かりやすい。次回もよろしくなと言ったら「やらへんわボケェ!」と叫んでいたが。


「待たせたな、お楽しみの時間だ」


 そう言ってテーブルにパーティサイズのピザを広げる。焼けたチーズの香りがたいへん食欲をそそる。


「その様子だと晩飯食ってないだろ?一緒にこの時間にピザを食うという背徳を楽しもうぜ」


 少女はチラリと壁にかけてある時計を見る。既に深夜と言っていい時間であり、この時間に食べるにはなかなか勇気がいる食べ物だった。

 と、その前に少女は鞄から慌てて財布を取り出した。さすがに申し訳ないと思いでた行動だったが、優は眉を潜めた。


「ばっかお前、ガキから金なんか取るか。それに金も少ないんだろ?」


 そう言ってテレビをつけながら、皿や飲み物の用意をする優に少女はスマホの画面を見せる。


『ごめんなさい』


 申し訳なさそうに身をよじる少女。その様子を見て、優はため息をついた。

 欲しい言葉があるとしたらそうじゃない。


「俺は、謝罪の言葉よりも感謝の方が何倍も嬉しい。大切な気持ちはポジティブに伝えないとな。姫さんはどうだ?」


 少女は少しキョトンとした後に、慌てて『ありがとうございます』という言葉を送った。優も「それに酔っ払いに遠慮するなんざバカらしいだろ」、とケラケラ笑った。


 そうして食べる準備を完了し、二人して手を合わせていただきますをした。


「この時間にピザを食うなんざ健康にケンカ売ってんな」


 おっかなびっくりとピザを手に取る少女を尻目に、テレビを見ながらピザをパクつく。この前の健康診断もコレステロール値が高かったから運動しないとなぁ、と頭の片隅では思っているもののなかなか実行には移せそうにない。まだ腹とか出てないし、いけるし。

 これが年かとしみじみと思いつつ少女を見る。この子はもう少し食べた方がいいな。冬服のブレザーで体型が分かりにくいが、太っているような感じではない。むしろ痩せていると言っていい。


「おらどんどん食え~、食わないとこの芸人みたいに罰ゲームだぞ~」


 テレビに映っている芸人を指差しながらピザを勧める優。困ったような顔をしながらも、少女はピザを少しずつ食べていく。テレビを見て笑う彼を見て、少女は目を細めた。

 一緒に炬燵に入りながら、テレビを見て、温かい食事をとる。それだけのことなのに、少女にとっては久しぶりの感覚だった。

 誰かと食事をとるのもいつ以来だろう。戸惑いこそあるものの、団欒といっていい空気に、少女はじんわりと胸を暖かくした。

 短い時間の中、初めて他人に胸の内を明かし、恥ずかしい姿もたくさん見せた。だけど、決して不快ではなかったし、彼も正面から言葉を交わしてくれた。

 ――一緒に迷ってくれるのだと。

 今はピザを食べながら「おい姫さん見てみろよこれ」とテレビを見つつケラケラ笑っている。

 どこにでもあるような、しかし貴重と思える時間は穏やかに過ぎていく。

 こちらを過剰に気にすることなく、あくまで自然体でいてくれる優に、少女は心の中である決心をすると同時に、もう一度『ありがとうございます』と呟いた。


 手を拭い、もう一度スマホを引き寄せ、とある文字列を打ち込んだ。そうして視線をテレビに向けている優に気づいてもらえるよう、机をゆっくりとノックする。


「ん?どうした『姫さん』?」


 少女は目を閉じて首を横に振る。そうではありません、と。そうして丁寧に差し出したスマホに踊っている文字を、優に見せた。


『私は『橘 愛』です。今夜は、本当にありがとうございました』


 優は目を見開く。それは言う必要のなかった情報だった。大事な個人情報で、間違ってもそこら辺にいる酔っ払いの男に渡してはいけない情報だった。

 それを今、自分に伝えてきた意味を考えるとゆっくりと息が漏れ、思わず笑みが浮かんだ。

 きちんと謝罪ではなく感謝まで……まったく……


「……いいってことよ、なぁ愛」


 そう言って顔を上げて少女の顔を見る。


 そこには今夜初めて見る、穏やかな微笑みを浮かべた少女……いや、『愛』がいた。

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