12-4 精子の海の中を歩いているようだ。本当に汚い。嫌だ。

 女はそんなにすぐに別の男を好きになるものなのか?好きな男がいても、ほかの男を好きになるのか?山口がぼくのことを好きだなんて思っていたのが、単に思い上がりだったのか?写真で一歩踏み出せるまでぼくのことを待ってくれるというのは、そういう意味じゃなかったのか?ぼくは女の気持ちがわからないんだ。

 顔をあげると、気の毒そうな顔をした山口が見えた。

「ぼくが、んんっ」

 喉の奥になにかつまったようになって、うまくシャベれない。

「ぼくは、山口のことが好きだ。今日は、それを伝えたかったんだけど、もう遅かった。なんの意味もない。クソッ。山口はぼくのことを待ってくれると、無邪気に信じていたよ。大バカだな。人の気持ちはそんなものじゃないのに」

 気を抜くと力が抜けそうな膝に拳をいれて気合を入れた。立って、ふらふらと歩きだす。さっきまでの世界が嘘のように、ぼくにはすべてが邪悪なものに見えた。汚らわしいものたち。どんより曇った空。汚い電球の光とネオン。汚れたコンクリートにアスファルト。すべてなくなればいいのに。

「ちょっと、どこ行くの?」

「どこって、もう用事は済んだから帰るよ。ああ、今までありがとう、ぼくなんかと一緒にいてくれて。それと、ごめんなさい。人生の大切な三年間を無駄にさせてしまって。それじゃ、さようなら」

「そっち、駅じゃない」

「ああ、電車に乗る気分じゃないから」

 だいたいの方角の見当をつけてふらふらと歩き出した。全身から力が抜けて、肩が落ちる。腰がまがる。息が苦しい。胃が重たい。ゾンビのように力なく歩く。住宅街を抜けて、広い道路にでた。自分がどこにいるかなんてどうでもいい。雨が落ちてきた。それもどうでもいい。すべてが気にならなかった。死ねばいいのにと思った。さっきまで好きだった山口まで汚いものに思えた。

 ため息が出た。顔がゆがんできた。涙があふれてきた。雨だか涙だかわからないものがしきりに顔を流れてゆく。顔がかゆい。濡れた体がかゆい。肩をわななかせて泣いた。叫び声をあげてガードレールを蹴った。足に衝撃がきて痛いだけで、ガードレールはびくともしなかった。


 どこをどう歩いたのか覚えてないけど、知らない道を歩いていたら小さな鉄道駅にでた。どういう路線だったのか、自宅まで帰ってきてしまった。しかたない、びしょ濡れの服を脱いでパンツをはいて布団に潜り込んだ。

 山口がぼくの知らない男と会っていた。楽しそうに話して、食事して、家にあげて、その男とキスをした。ぼくは自分の頬を拳で殴った。痛みに救われる気がした。山口がその男とベッドに入って、セックスをはじめる。ぼくは起きあがって、テーブルに額を打ちつけた。頭の痛みで心の痛みが麻痺してくれればいい。寝ては悪夢にうなされ、目が覚めてはゲスな想像が頭を占め、また眠る。その間、涙はだらしなく流れ続ける。昨日の夜に続いて、ひどい気分だった。今日のほうが何倍も最悪の気分だ。

 いつのまにか日曜日の夕方になっていた。月曜日はゴミの日だ。山口にかかわるものは処分しようと思った。パソコンを起動した。山口のアカウントはすでになかった。着替えも持って帰ったらしく、消えていた。いつの間にもっていったのだろう。スイスにいっている間か、遅くとも金曜の夜だろう。玄関を出て、集合のポストをチェックしたら、やっぱり合鍵がはいっていた。いちおう南京錠をかけているけど、その気になれば取り出せるだろう。防犯上よろしくない状態だった。処分すべきものは、山口からもらったものと、山口のために買ったものか。一緒に買ったマグカップなんかも捨てなければならない。すぐに必要なものは買いなおさないと。マナー違反だけど、夜のうちにゴミを出してしまった。

 ぼくがこんなことをしている間も、日曜日だから山口は彼氏と会っているんだろう。気分が悪くなった。トイレで吐こうと思ったけど、腹になにも入ってなくて、胃液が少し出ただけだった。涙と鼻水をトイレットペーパーで拭いて流した。シャワーを浴びてベッドに入った。

 夜明け前に目が覚めた。金曜の夜から、出かけていた数時間をのぞいて、寝たり起きたりを繰り返していた。さすがに寝ていられなくなるというものだ。家にいても自分が腐っていくだけだと思った。このベッドさえも、山口が泊まりにきたとき寝ていたものだ。吐き気がやってくる。

 財布と鍵だけ持ってフラフラと家をでる。雨はやんでいた。昨日だしたゴミが濡れている。ぼく以外にもフライングしている人がいた。道路はまだ濡れている。霧が発生していて、街灯からくる光が濁る。空気が冷たくしっとりしている。出かけている間に部屋ごとなくなってしまえばいいのに。

 ため息をついて、肩を落として、腰をまげて歩く。そうしないと、胃がもたれていて気持ち悪い。歩き出すと、股関節と膝の痛みに気づいた。土曜の夜に歩きすぎたらしい。駅とは逆方向に向かって歩く。普段行かない方だから、なにがあるのかわからない。

 何度目か前方が明るくなったとき、コンビニの前を歩いていることがわかった。店内に入って、飲むゼリーとポカリを買った。ひどい顔をしていたと思う。店員も、ぼくと同じくらい死にそうだった。ぼくの顔がひどいことになんか気づかなかったかもしれない。

 コンビニ袋をさげて歩く。歩きながらゼリーを吸った。すぐに気持ち悪くなってやめた。ポカリもダメだった。ただの水にすればよかった。とぼとぼと歩く。

 つい一昨日まで、ぼくは写真がうまくいく、山口とうまくいくと、明るい未来が待っていると思っていた。愚かだった。山口と付き合ったからって、自分が変わるわけではない。なにもうまくいくはずなんてなかった。いまは、もうなにもできないとわかってしまった。

 日がのぼってくるらしく、すこし明るくなってきた。霧のせいで世界はグレーだ。霧なんか日がのぼれば消えてしまう。すぐに日常が戻ってくる。

 ああ、歩いているだけで泣けてくる。部屋でベッドにはいっていても、それは同じだ。ぼくは頭が狂ってしまった。童貞だからだろうか。だから、女に逃げられたくらいのことで、こんなに死にそうになっているんだろうか。いや、ただの女ではない。写真を撮る原動力だった。ぼくの三年間のすべてだった。ぼくの半分が死んだようなものだ。もう写真なんか撮れない。写真を撮る場所も失ってしまう。ぼくはすべて失ってしまった。ぼくに未来なんかない。

 日がのぼって、あたりの霧は白くなった。汚い。精子の海の中を歩いているようだ。本当に汚い。嫌だ。帰ろう。ずっと道なりに歩いてきた。来た道を引き返して自分の部屋に帰った。ソファにぐったり体を沈めて休んだ。

 仕事に行かなけらばならない。支度をして、部屋をでた。霧はうすくなっていた。光がまぶしい。刺激が強すぎる。人の声、音楽、目にうつる色、臭い。感覚が鋭くなっているのか、刺激が強くて耐えがたかった。とくに女がダメだ。見ただけで吐き気がする。汚い。

 会社の建物に入る。エレベータを降りると、ひどい吐き気に襲われた。そこいらじゅうに女のポスターが貼ってある。トイレに入って、吐く。ドリンクタイプのゼリーしか胃にいれていない。出すものがない。苦しみだけがやってきた。仕事にならないどころではない。会社にいることもできない。ぼくはうつむいて苦痛に耐えながら、社長のところに直行し、仕事ができないと訴えた。ぼくはその場でクビになるものと思ったけど、社長は一箇月の休職にしてくれた。また写真が、女の写真が撮れるようになる気なんかしなかったけど、ありがたく休職させてもらうことにした。

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