8 女の人は靴を脱いだ。夜明けの澄んだ空気、青白い世界で、その存在感はうすい。

 萌さんは撮影旅行にハイヒールでやってくるという愚を犯すことはなかった。ちゃんとスニーカーで新宿の待ち合わせ場所へ姿を見せた。朝早いのに身だしなみがキチンとしている。ぼくはいつも通りのラフな格好だ。萌さんもこれでいつも通りなのかもしれない。

 高速バスは走りどおしで、途中でサービスエリアによるということはない。新宿を出たと思ったら、眠気にまかせて寝てしまったらしい。萌さんに起こされたのが、河口湖駅にまもなく到着するというところだった。

 路線バスに乗り換えて、河口湖の周囲をまわる。まずは荷物をあずけるために宿に向かう。車内から、どのあたりが撮影にいいか検討をはじめる。もともとネットの情報やネットの地図であたりをつけているから、現場を確認する程度の意味しかないんだけど。

 宿に荷物をあずけたら、さっそく撮影にでかける。宿までで確認した場所は目ぼしいところがなかった。バスでさらに河口湖の北岸を進む。ちょうど湖の東西の中間あたり、富士山の真北あたりに公園がある。その目の前でバスを降りた。湖岸におりて三脚を立て、撮影のセッティングをする。萌さんに説明しながら同じようにカメラをセットしてもらう。カメラ自体の設定も必要だ。萌さんは楽しそうに撮影をはじめた。

 太陽は富士山の方向にあり、偏光フィルターは必要ない。湖面に映る富士を撮るのにフィルターはないほうがいいから都合がよかった。フィルターを効かせると、反射を抑えて逆さ富士が消えてしまうという罠がある。ファインダーをのぞけばすぐわかるから罠でもないんだけど。

 当たり前だけど、萌さんは富士山の撮影に一瞬で飽きてしまった。三脚からカメラをはずしてレリーズもはずして手持ち撮影をはじめた。ぼくも被写体にされる。ぼくなんか撮ってもなにも面白くないけど、カメラのぞいてとか、ポーズに注文をつけてくる。なかなかカメラマンだ。明日は富士急ハイランドにいかなければなるまい。

 萌さんはやっぱり、撮る側ではなく、撮られる側の人間だった。ぼくにカメラを押しつけて、いろいろポーズをとっては、写せと注文してくる。ぼくも光の具合をみながら、位置取りして撮る。オートフォーカスですぐにピントが合うけど、ぼくの腕ではシャッターチャンスを逃してしまうことがある。仕事の撮影なら同じパターンの動きをしばらくしてくれるから、ぼくでもうまく撮れるんだけど、自由に動く被写体ではそうはいかない。一瞬のシャッターチャンスを逃すと、もう取り返しがつかない。

 バス通り沿いをすこし行ったところにあるレストランで昼食をとった。午後は遊覧船にでも乗りますかと提案したけど、萌さんはぼくに撮影しろという。湖面の波が消えたきれいな逆さ富士を撮影することがまだできていない。お言葉に甘えることにする。

 午前と同じ場所にカメラをセットして待つ。夕焼けも撮りたい。午後は風がでることが多いから、実はきれいな逆さ富士を撮影するには向かない。

 山口に、写真で一歩踏み出せるまで待ってくれといった割には、萌さんの相手をしてロクに撮影に集中できていない。ほかの女性と出かけているわけだし、罪悪感がある。山口が機嫌を悪くしていなければいいんだけど。

 萌さんとの富士撮影の日程が決まって、山口に報告した。泊りで出かけることも伝えた。そのときは気にする様子はなかったと思う。でも、女性は複雑でわからないから、帰ったら怒られるなんてことがあるかもしれない。

 山口とぼくはキスをする関係になった。ぼくなりに雰囲気を読むと、山口はぼくのことが好きだと思っていいんだと思う。ぼくさえ気持ちをはっきりさせて山口に告白すれば、山口は受け入れてくれるだろう。ちがうだろうか。でも、そうしたら、ぼくは山口と付き合うことになって、セックスすることになる。童貞卒業だ。なんだか、すぐにでも山口に告白したい気分になってくる。

「奥田くん」

 名前が呼ばれて、現実に引き戻された。萌さんが公園から湖岸のほうにくだってくるところだった。

「大丈夫?固まってたよ」

「そうですか?シャッターチャンスを待ってたんですよ」

 湖面を見ると、波が消えていた。レリーズを押し込んでシャッターを切る。とたんに風がでて逆さ富士がぼやけた。

「ほら、ちょうどシャッターチャンスだったじゃないですか」

「そう、ならいいんだけど。いい写真撮れたみたい?」

「いまのはよさそうですね」

「待った甲斐があったね、はい」

 萌さんが紙コップを差しだしてきた。

「これは?」

「うん。上の建物で売ってたコーヒー。砂糖とミルクはいらないんだよね」

「あれ?そんなこと言いましたっけ?」

「ほら、現場で」

「ああ、萌さんがコーヒーいれてくれたことがありましたね」

「いれたっていっても、ポットから注いだだけなんだけどね」

「よく覚えていられますね。ぼくなんか人の名前もすぐに忘れちゃうのに」

「わたし、けっこう物覚えいいんだ」

「学がありますもんね」

 萌さんは表情をくもらせた。あまり言われたくないことなのかもしれない。フタをとって、コーヒーを一口すする。熱い。

「上には、食べるものありました?」

「アイスがあるよ。わたし食べてきた」

「アイスか、ちょっとした軽食みたいのはどこかなかったかな」

「バス降りたすぐがパン屋さん。中で食べられるみたいだったよ?」

「そっか。じゃあ、腹減ったらそこ行きましょうか。ずっとここにいると、体冷えそうだし」

 そんなこんなで、だましだまし、日が暮れるまで富士山を撮影した。宿には、来たときと逆向きのバスで戻った。

 萌さんは一緒の部屋に泊ってもよいと言った。でも、ぼくはシングルの部屋のあるホテルを探した。山口は萌さんにあまりいい印象をもっていないようだから刺激したくないという心理がおおいに働いた。けど、河口湖周辺では二名以上でないと泊れる宿がなかった。だまっていれば大丈夫という気持ちもあったけど、そんなはずはないと思いなおした。しかたなく、正直に山口に話して、ツインで部屋をとってよいと許可をとった。どうなのだろう、山口が男の人と出かけて、一緒の部屋に泊ったら。わがままだけど、嫌な気持ちになる。帰ったら、山口にやさしくしてあげよう。

 部屋ですこし休んでから夕食をとった。なかなかの料金をとるだけはあって、贅沢な思いをした。大浴場もあって、露天風呂もある。萌さんと大浴場へ行った。混浴ではない。ぼくは先にあがったみたいで、休憩できるスペースでソファにかけてぼーっとした。寝ていたかもしれない。萌さんに声をかけられて、はっと気づいた。お酒が飲めるところが開いていたから、ビールを一杯づつ飲んだ。風呂上がりの体にしみわたった。

 萌さんは、襲わないという約束を守ってくれたのか、すんなりそれぞれのベッドで寝ることができた。旅行先で早寝は大切だ。

 ぼくは夜が明けないうちから起き出して、また撮影スポットに向かった。夜の富士と夜明けの富士を撮影するためだ。そのための備えをしてきていた。ヘッドライトと防寒具だ。バスはまだ運行していない。とぼとぼ歩いて向かう。カメラバッグが肩に食い込む。同じ部屋に泊っているから、未明に出かけると夜のうちに萌さんに伝えておいた。目覚ましで起こしてしまうおそれがあるからだ。

 夜はカメラの感度をあげて長時間露光で撮影する。フィルム時代、感度の高いフィルムは粒子が荒くて解像度が悪かった。いまのデジカメはそのあたりが進歩していて、感度をあげて長時間露光しても、そこそこ作品になる。露出をかえながら撮影する。

 夜が明け始める。条件がかわるから、カメラの設定もかえなければならない。色温度の設定に悩むところだけど、ぼくはすこし青白く写るようにセットした。透明感がでるのを狙う。

 バスがやっと運行を開始した。

 女の人が湖岸にあらわれた。なんとなくサブカメラをとりだす。カメラの設定は富士山を撮っているのと同じまま、レンズを向ける。女の人は靴を脱いだ。夜明けの澄んだ空気、青白い世界で、その存在感はうすい。青白い世界に溶けていってしまうかのようだ。静かにシャッターを切る。裸足で波打ち際まで進み、そのまま足を湖水に差しいれる。その瞬間をカメラでとらえる。同時に、冷たっと自分のことのように、足がうずく。

 女性の肌をきれいに写すためには、色温度を変更する場面だけど、いまの雰囲気をそのまま写そうと思った。色温度を変更しない。絞りを開放したり、すこし絞ったり、露出オーバー気味にしてみたり、適正露出にもどしたりする。

 女の人は足を湖水にひたしながらゆっくりした動作で、手を水平にあげたり、クルリとまわったりして、踊っているように見えた。

 すこしスカートをつまみあげて、湖にさらに歩みこむ。ゆっくりこちらに向いて、足で湖面を蹴る。こんどはシャッタースピード優先にして、速めのシャッターで、跳ね飛ばされた水をとめて撮る。女の人は存在感を増しながら、こちらに向かってくる。

 青白い背景から女の人が浮かび上がるように見えた。萌さんだ。ぼくの近くまできて、スカートを手から放す。足首くらいの深さだった。水をすくってこちらに飛ばす。ぼくにかけてやろうというのではない。ぼくの前の湖面にたくさんの波紋が広がる。

「萌さん、冷たいでしょう。もう、あがったほうがいいですよ」

 いつのまにか太陽が頭を出して、青白い幻想的な世界は消えていた。

「ねえ、この水撮って」

 レンズを広角に取り換えて裸足になる。湖面にお尻をつけそうになりながらあおって、萌さんと、はじけとんで朝日を反射させるしずくと、透明な青い空と、深く青い湖面と、頭に雪をかぶった富士山をいっぺんに写しとった。足が凍えた。五月の河口湖は冷たかった。

 湖からあがった萌さんに防寒具と毛布をかぶせて、朝の富士山も撮影した。ぼくも、萌さんも満足して、宿に帰ることにした。時間が早いからバスの本数が少なく、ぼくたちは凍えながらバスを待たなければならなかった。萌さんが三脚をもってくれた。宿で朝風呂に入って体を温めた。

 富士山の撮影は終了した。富士急ハイランドで遊んで、また高速バスで新宿までもどって解散となった。富士急ハイランドでも、ぼくは遊ぶより萌さんのカメラマンのようにして過ごした。親の許可が得られたときは、遊園地に遊びに来ていた子供も撮影した。あまり撮ったことのない被写体だったから新鮮な気がした。

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