第20話「少年と、少女と、夏祭り」

 誰かの泣き叫ぶ声が、今も聞こえる。

 醜く歪んだ表情が、目に焼き付いて離れない。


 だから、私は祈る。

 そうすることしか私にはできないから。


 自分の中で大きな塊が外へ出ようと暴れまわる。

 体の中をグチャグチャにかき回されるような痛みが永遠に続く。

 それでも、私は祈る。祈り続ける。


 だって、教えてくれた人がいるから。

 どんな時だって、きっと道はあると。

 そう、私に教えてくれた。


 だから、お願い。


 早く、みんなを助けて。

 早く、私を、見つけて。


――――


 夏の昼は蝉が騒がしいくらいに鳴いているが、今日は風が少し出てきて涼しい。

 風に揺られてチリンと風鈴が音を鳴らす。その涼し気な音のおかげも多少はあるのかもしれない


「あら、一人?」


 そんなことを考えていると祖母に話しかけられた。


「ええ。散歩したいとか言って、さっき出ていきましたよ」

「珍しいねぇ」

「そうでも……。いや、確かに」


 よく考えてみたら、ほとんどこの夏はずっと美奈と一緒に過ごしている。こうやって昼間に一人でいるのは久しぶりだった。


「ふふっ。いつも一緒なことが気にならないくらいなんて。仲が良いわねぇ」

「そうですねー」

「あっ、そうだ」


 おばあちゃんがそう言って懐から何かを取り出す。手のひらに収まるくらい小さなものだ。


「もらってくれないかしら。お守りみたいなものなんだけどねぇ」

「これは……ビー玉?」


 その形には、見覚えがあった。つい最近思い出したばかりの記憶の中にも現れた代物。


「昔ね、すごく仲が良い友達がいたの。まるであの子にとってのあなたのような」

「はぁ……」

「その子がずっとこれを大切に持ってて。でも、その子は……」


 そこで口を閉ざして、どこか懐かしむような、あるいは寂しそうな表情を浮かべた。


「そんな形見のようなものを、どうして俺に……?」

「どこか、その子があなたに似ていると思ったの。前に、ここに来たことがあるか聞いたことがあったの、覚えてるかしら?」

「はい」

「もしかしたらあの子はどこかで生きていて、そのお子さん、ううん、お孫さんだと思ったの」

「……すいません」

「別に謝ることじゃないからね。……まぁだからあなたにこれを渡したくて」

「……大事にします」


 祖母から小さなお守りを受け取る。もう何十年も前の代物だから表面にはいくつも小さな傷があるが、光に当てるとキラキラと中で反射して煌めいた。


「ありがとう……」


 眺めていると祖母はそんなことをポツリと口にした。

 本来ならもらう側の俺が言うべきセリフだったが、今ここでされているのはそういう話ではないのだとなんとなくわかった。


「……こっちこそ、ありがとう」


 だから、俺はその言葉に対しては返さず、同じようにお礼の言葉を送る。きっとそれで十分なのだ。


――――


 自分も散歩に出かけようかと思い玄関を出ると、美奈が庭先で木にもたれかかっているのに気づいた。

 彼女も俺に気づいたようで軽く目を見開くと静かに微笑む。どうやら話しかけていいようだ。


「どうしたんだ? ボーッとして」

「うーん……。なんかね、寂しくて」


 美奈はそう言って空を見上げた。その眼差しが儚げで少しだけ見惚れてしまう。


「もう、夏休みも終わっちゃうなぁって」

「ああ、そう言えばもうそんな時期か」

「夏休みが終わっちゃったら、もうこうやってあなたとおしゃべりすることもないだなーって思って」

「言われてみたら確かにそうだ」


 軽く答えてみせるが正直なところ、そんなこと考えてもみなかった。

 なんとなく、これがずっと続くものだと思っていたけど、そんなわけがない。


「そっか……。もう、終わりか……」

「うん……」


 庭にいる蝉の声が喧しく響き渡る。

 なのに、それは数日前よりも少し弱まっているように感じられた。

 夏の終わりが、近づいてきている。


「……実はね」

「うん?」

「明後日なんだ、帰るの」

「……えっ?」


 一瞬、美奈が何を言っているのかわからなくなった。

 明後日。明日のそのまた次の日。


「ごめんね。なんだか、言いたくなくて」

「そ、そうなんだ……。てっきり、まだ八月は二週間くらいあるから、それまでいるんだとばかり……」

「親の仕事の都合で、元々ここにいるのはお盆が終わるくらいまでだったの」

「明後日、か」


 いきなり言われても、ピンとこない。明後日には、あと二回眠って起きたら、美奈はこの村からいなくなってしまう。

 そうなったら、俺はまた今までのように魔王と戦う日々に戻るのだろうか? 実感がいまいち湧いてこない。


「このまま、時間が止まればいいのにな」


 無意識に、そんな声が漏れていた。


「……意外」

「何がだよ」

「正太郎くんがそういうことを言うのが。その辺り、もう少しドライなんだと思ってた」

「……自分でも柄じゃないと思うよ」

「自覚あったんだね」


 時間が止まる、か。

 そんな魔法があるって、いつだったか聞いたような気がする。結界による時空の断裂だとか、よくわからない話が次々に飛び出してきて混乱した記憶しかないが。

 でも、そんなものは風変わりな魔法学者が口にしていただけで、実物には今まで一度も出会ったことがない。

 きっと、噂話の類の域を出ない、眉唾物なのだろう。

 終わりは訪れる。

 彼女は明後日にはここを去り、俺は女神様の元へと戻り、また世界を救う旅に出ることになる。

 そう思うと、途端に焦りが胸の中を圧迫し始めたような気がした。


「あ、そうだ!」


 その時ふいに先日聞いた話を思い出した。


「どうしたの?」


 美奈が不思議そうに首をこくんと横に倒す。


「明日、広場で祭りがあるんだってさ!」

「あー……」

「あ、あれ?」


 俺が祭りという単語を発すると、美奈は気のない声を上げた。思ってた反応と違い、思わず聞き返してしまう。


「何かあるのか?」

「お祭りって言っても、名前だけだよ。ここのは」

「名前だけ?」

「昔は盛り上がってたみたいだけど、最近はおじいちゃんとおばあちゃんが、ブルーシート広げてお酒を飲んでるだけ」


 げんなりとした様子から、美奈が一度期待して行ってみて、見事に裏切られた様子が目に浮かんだ。


「お祭りらしさなんて、ほとんどないよ。何年か前に行って、すごくがっかりしたし」

「おぅ……」


 なんということだ。喜ばせようと思った結果、逆にテンションが下がる結果になってしまうなんて。若干話しづらい雰囲気になってしまいどう次の話題をふろうかと考えていると、遠くからいつかの農家夫婦の旦那さんがこちらに歩いてくるのが見えた。


「お、いたいた。おーい!」

「あ、どうもっす」

「正太郎くんたち、明日のお祭り来るかい?」

「あー……」


 思わず口ごもってしまう。あまりにも話のタイミングが悪かった。


「いや、その……」

「よかったら来てくれよ! 美奈ちゃんも一緒に!」

「あの……」

「じゃ、オレはちょっとじゅ……じゃなくて、用事があるから!」


 どう断ろうかと考えあぐねていると、おじさんはそう言って走っていってしまった。忙しいのだろうかと思ったが、よく考えたら今までそんなに急いでいる姿を見たことがない。もしかしたら今日は奥さんに何か頼まれごとでもされていたのかもしれない。


「あ……」

「……あなたのコミュ力はどこに行ったの?」

「いや、あんな一方的に言われたらな……」

「あの、とか、その、しか言ってなかったじゃない」

「ぐぅ……」

「はぁ……。でもまぁ、仕方ないね」


 おかしいな。普通祭りってもう少しワクワクするものじゃないのか?

 まさか、こんなにも憂鬱になるとは予想もしていなかった。

 適当に顔を出して、すぐに帰ろう。大人がみんな酒を飲んでるなら、上手く抜けられそうだ。


――――


 そして翌日。俺と美奈は昨日農家のおじさんから言われた通り、夕方になってから波揺の端の方にある広場へと向かった。広場とは言ってもただの空き地同然で、普段は毎朝ラジオ体操があるくらいで他には何もない場所だ。


「あれ?」


 現地に着いてまず美奈が発した声はため息ではなく、驚きの声だった。その声も賑わう人たちの声にかき消されてしまう。

 そう、賑わっているのだ。


「おい。なんか、話に聞いてたのと違うぞ」

「あれ? あれれれれ?」

「焼きそばとかあるぞ」


 普段何もない空き地の広場にはいくつか屋台が並んでいて、傍らの発電機がブツブツと駆動音を鳴らしている。その数は一つや二つどころでなく、片手では数え切れないほどだった。

 そこらから漂ってくるにおいは、空っぽの胃を絶えず刺激してくる。


「ど、どうして。去年までこんなの……。まさか正太郎くん……」

「いや、俺は何も――」

「驚いたかい?」

「わぁっ!?」


 背後から男の声に呼びかけられて、美奈がビクッと肩を震わせる。振り返って見るとそこには昨日のおじさんが立っていた。

「村の大人たちみんなで準備したんだよ」


「えっ……?」


 美奈が声を失う。完全に予想外で思考が追いついていないように見えた。


「まぁ、昔のものを掘り出してきたのがほとんどなんだけどね」


 おじさんはそう言って汗を拭う。屋台だけでもそれなりにあるのに、それに合わせて提灯なんかも吊るされていて、一体どれだけ大変だったのかが表れていた。


「気づかなかった……」

「そりゃそうさ! なんてったってサプライズだからね」

「これを、私たちの、ために……?」

「ははは、まぁね。それに、他にも小学生が何人かいてね。いい機会だと思って」

「小学生……、あー」


 いつかのオオクワガタをあげた子供のことを思い出す。そうだ、この村には俺たち以外にも年齢は離れているが子供がいるのだ。


「そうだぜ、坊主ども」


 と、これもまたどこかで聞いた声。おじさんの後ろからさらに二人の男が登場した。二人ともまた別の仕事を営んでいて、俺と美奈で手伝いという名の遊びに行ったのだった。確か鍛え上げられていて恰幅のいい方が米農家をしていて、眼鏡をかけている方が林業だったような気がする。


「こいつが唐突に『今年はちゃんとした祭りやろう』なんて言い出しやがって」

「お前ら! それは言わない約束だろ!」


 恰幅のいい彼がおじさんの肩に手を回して、ガハハと豪快に笑う。


「なんでいなんでい。別に減るもんでもねぇんだし」

「そうだよぉ。こういうのはむしろ言うのが、お約束ってやつだぜ?」


 ガッハッハと笑い飛ばす二人の手には缶ビールが握られている。


「お前らもう飲んでるのかよ!」

「それもまたお約束ってやつよ」

「あはは! 仲、良いんですね」


 俺がそう尋ねるとおじさんはやれやれと半ば呆れたように苦笑いを浮かべた。


「最早腐れ縁でな」

「そうそう! 小坊の時からのダチよ」


 お前も飲めよ、などと二人が缶ビールを渡してくるのをおじさんが受け取ると、また俺らに向き直って缶を軽く上に持ち上げた。


「酔っぱらいに付き合わせるのもアレだし、回ってきなよ」

「はい、ありがとうございます」


 軽くもなく深くもない礼をして背を向けようとした時に、さっきから美奈がほとんど喋っていなかったことに気づいた。


「どうした?」


 どこか具合が悪かったりするのだろうかと思って聞くと、美奈は小さく首を横に振った。


「……ううん。ただ、嬉しくて」


 改めて美奈は、酔っぱらいにもみくちゃにされているおじさんたちに向かって、深くお辞儀をした。


「本当に、ありがとうございます……!」


 おじさんは嬉しそうに、そして照れくさそうな笑みを浮かべながら、俺たちの方に手を振ってくれた。


「じゃあ、行くか?」

「うん!」


 改めて見渡してみると村中の人が集まっているんじゃないかというくらいに祭りは人でいっぱいだった。考えてみればこの村に来て早くも一ヶ月が経とうとしていてほとんど全員と顔なじみであるのだから、本当にほとんど全員集合しているような気がする。


「ほら」


 だから手を差し出した。都会の祭りほどではないが、それなりには人がいるしはぐれると厄介だ。


「えっ?」


 だが美奈の方はその行為の意味するところを掴み損ねたらしく、呆然と俺の手を見つめてくる。


「そんなにジロジロ見られると、恥ずかしいんだけど……」

「あっ、ううん! じゃあ……」


 美奈はおずおずと右手を差し出してきて、そしてゆっくりと俺の手を掴んだ。そんな風にされたものだから、なんだかこっちまで気恥ずかしくなってくる。

 そのまま無言で俺たちはどこへともなく歩き始めた。何を食べようか、と聞くと美奈はうーんと唸って屋台を見渡す。フランクフルトにわたあめに焼きそば。海が近いのを活かしてか海鮮焼きなんかもあった。金魚すくい――は論外だ。


「あ、焼きそば! こういうの食べてみたかったの!」


 と、美奈が走り出す。それに引っ張られるように俺も走ったせいで石に躓きそうになった。いつも通りの感じだけど、祭りの雰囲気のせいか俺が美奈に引っ張られている今が、いつもよりも楽しいと思った。


「俺も、食べるのは初めてだな」


 前に東京に転生した時もそういうことは皆無と言ってもよかった。本業が魔王討伐なのだから当然の話ではあったが。


「私も小さい頃に来たことあるみたいだけど、あんまり覚えてなくて」

「へぇ……」


 美奈の両親は基本的に仕事が忙しいという話を思い出す。幼少期からずっとこんな風に過ごしていたのだろうか。

 いや、そういうわけでもないか。今言った通り小さな頃には祭りに連れて行ってもらっていたようだから、それなりに両親と遊んだ経験はあるに違いない。ただ、美奈自身があまり覚えていないだけで。

 でも、それは少し寂しい話ではある。

 物心がついてからは夏をこっちで過ごすことが多かったのだろうから、彼女が記憶する楽しい夏というものは今年が初めてなのだ。


 俺は、そんな夏を美奈に与えられたのだろうか。

 そんなことを考えていると、また手が別の方向に引かれた。


「あ! あっちはかき氷だって!」

「先に焼きそばじゃないのか?」


 と、ツッコんだ時には既に――


「くぅーー!!」


 ――かき氷片手に、頭を押さえていた。


「って、早!?」


 一体いつの間に買ったのだろう? 早業過ぎて認識すらできなかった。


「一口いる?」


 そう言うと一口分掬って俺に見せてきた。透明な黄緑色の結晶がキラキラと光っていて綺麗だ。


「もらえるなら、まぁ……」


 スプーンをもらおうと手を伸ばすと、美奈はひょいと手を引っ込めた。


「?」

「はい、あーん」

「え」


 思考が停止した。

 一体何を言っているのだろうか?


「あーん」

「ほ、本気か?」


 数秒の脳のフリーズを超えてようやくその行為が意味するところの察しはついたが、それでも正気の沙汰とは思えない。


「いいから。一回やってみたいの!」

「む……」


 だがそう言われるとこっちは弱い。

 こうなったらヤケだ。こちらも覚悟を決めるしかない。


「早く、溶けちゃうから!」

「わ、わかったよ。あ、……あーん」


 羞恥心を押し殺して口を開けると、美奈はスプーンをその中に入れた。空中で留まるスプーンから甘い液体が垂れ、俺の舌の上に落ちてくるのを感じて口を閉じる。


「どう?」

「んー。冷たいし、甘いし、これは――」


 口の中でゆっくりと溶かしながら、人工的な甘さを堪能する。夏の暑さが夕方になって穏やかになってきてはいるが、それでもやはり氷が体温を下げてくれて気持ちいい。


「そうじゃなくて」

「ん?」

「間接キス、だね」

「んぐぅっ!?」


 本当に彼女は何を言っているのだろう。


「!」


 変に力んでしまったせいで氷が勢いよく喉を通り抜けていく。

 まずい、これは――!


 ――!


 瞬間、頭の中が氷山と化した。

 氷で覆い尽くされた世界が、脳を突き刺す。


「くぅーーーーー!!!!!」


 その場に立っていられなくなって膝から崩れ落ちた。休暇中の歴戦の勇者が、夏の風物詩であるかき氷に敗北した瞬間だった。


「あはははは! 動揺しすぎだよ!」


 ゲラゲラと腹を抱えて笑っている。腹を押さえる美奈と、腹を立てる俺という構図だった。


「君が突然変なこと言うからじゃないか……。まだ頭がキンキンする……」

「なんか顔赤いよ?」

「気のせいだ! バカ!」


 美奈という少女は本当に、俺の心をかき乱すことに関して天才的だ。きっと魔王側に彼女がついたら魔王軍は負けなしだろうし、相当な地位につけるに違いない。下手したら魔王よりも厄介な敵にすらなり得る。


「あーーー!」

「ん?」


 頭痛に悶えていると、かん高い大声が足元から聞こえた。


「オオクワガタのお兄ちゃん!」


 そんな呼び方をする人間は一人しか思いつかない。随分前に美奈と虫取りに行って捕まえたオオクワガタをあげた男の子がいた。他にも同じくらいの年齢の男の子と女の子がいる。


「大事にしてるか?」

「うん! あれからもっと大きくなった!」

「そうかそうか」


 すると隣にいた女の子が不思議そうに聞いてくる。


「オオクワガタって?」

「この人すげーんだぜ? オオクワガタ見つけたんだよ! 普通全然見つかんないのに!」


 いまいち質問に対する答えになっていないような気がするが、女の子の方は諦めているのか特にツッコもうとしない。


「マジかよ! ずりー!」


 そしてそれに乗っかって羨ましがるもう一人の男の子。


「へぇー。虫なんて捕まえて何が楽しいの?」


 本当に、これって男女で反応が真っ二つに分かれるんだな、と改めて実感する。。女の子が二人に向けている目線があの時の美奈とそっくりだった。


「お前わかんねぇの!?」

「めっちゃカッコいいじゃん!!」


 ここで心が折れない分、彼らの方が俺よりもよっぽど強いのかもしれない。


「ガキ臭い」


 が、それも一蹴。このくらいの年齢の子は遠慮がない分、さらにダイレクトにこちらの心を抉ってくる。俺に向けて言ったわけではないのだろうが、オオクワガタを捕まえようと一番躍起になっていたのは他ならない俺だったりするのだ。


「ひでー!」

「まぁいいや! あっちで金魚すくい行こうぜ!」

「金魚すくい!」

「じゃあお兄ちゃんたちじゃあねー!」

「おー、頑張れよー」


 ダメージに軽く胸を押さえながら、走り去っていく彼らの背中を見送る。恐るべし。小学生。


「大人気だね」

「そりゃ昆虫は男のロマンだからな」


 だがあの小学生たちには感謝せねばなるまい。おかげでさっきの暴走気味の思考をどうにか止めることができた。


 それから俺と美奈は祭りを一通り見て回った。

 結局ほとんどの屋台の食べ物を制覇してしまったり。

 金魚すくいに二人で挑戦するも、二人とも一匹もすくえなかったり。

 それで二人して顔を見合わせて笑ったり。

 すると隣のおじさんが名人級の上の持ち主で、一枚の紙で両手では足りないくらいの金魚をすくってみせたり。

 それを見て俺が再挑戦するけどやっぱり惨敗して、美奈は笑っていたり。


 夏の祭りってこんなに楽しいものだったんだと、俺はきっと初めてこの身で、この心が実感したんだ。


「あー、楽しかったー」

「ああ」


 俺と美奈は少し人のいる場所から離れた草原に座っていた。もう随分と辺りも暗くなってきていて、宙に並ぶ提灯がぼんやりとしたラインを描いている。その下でたくさんの人が食べたり、飲んだり、笑ったりしているのが見える。


「楽しかった、な」

「……ああ」


 祭りの喧騒が遥か遠くのように聞こえる。

 そんなに離れていないはずなのに、辺りがすごく静かだ。

 二人とも何も言わなかったけど、思っていることはなんとなくわかる。

 いつの間にか少し小さくなった夏の虫の声。ひんやりと冷気をはらみ始めた夜の風。


 いくつもの要素が俺たちに絶えず告げてきている。

 季節が移り変わることを。『今』が終わり続けていることを。

 時間の流れというものの存在を。

 その終着点は、すぐ近くにあることを。

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