04

 エレベーターで六階に上がると目の前には受付があり、そこには英語と日本語が併記されていた。自然と日本語のほうに目が吸い寄せられて読めば、「日本人フォトグラファー 写真展」と書かれている。


「日本人の方ですか?」


 受付に座っていた日本人と思われる女性にそう尋ねられ、小春は「はい」と頷いた。女性はクスクスと笑うと、「どうぞ楽しんでください」と言って生暖かい目を向けてくる。どうしてそんな反応をされるのかわからなかったものの、とりあえずぺこりと頭を下げて赤い矢印で示されている順路通りに進むことにした。


 最初に入った部屋は白で統一されており、ぐるりと写真が小春を取り囲んでいた。写真にはさほど興味ないので適当に数秒ほど眺めて次の写真へと移っていく。どうやら受付にあった文字の通り日本人写真家の作品をまとめた展覧会らしく、写真の下にはタイトルと写真家の名前が英語と日本語で併記されていた。それぞれの写真家ごとにまとめられて飾られており、どうやら一人の写真家につき二、三枚ほどだと決まっているようで、それよりも多くの写真を飾っている人はいなかった。


 部屋の中の写真をひと通り見終わると小春は次の部屋に移動し、そして思わず目を見開く。明るい茶色の髪は彼女が少し顔を動かすたびに揺れ、口紅が塗られているのだろうか、つやつやと輝く唇は弧を描いていた。目は少しだけ細くなっており、どこか嬉しげな様子が感じ取られる。昨夜レストランで会った女性が隣にいる老人と、なにやら英語で会話をしていた。目を閉じて耳を澄ませれば隣にいるネイティブの男性と遜色ないほど、彼女の英語は流暢で淀みがなく、美しい。


 ぼんやりと会話をしている二人を眺めていると、どうやら話が終わったらしく老人がゆっくりと、けれどどこか颯爽とした雰囲気で去っていく。女性はそれを見送り、老人が部屋を出てしばらくしてふぅ、と息をついた。そしてうん、と背筋を伸ばして――視線を感じたのか、小春のほうを向く。


 途端、ぱぁ、と彼女は顔を輝かせて頬を緩めた。「来てくれたんだ」という言葉にバツが悪い思いがして、小春はそっと視線を逸らす。嬉しそうな顔を見ると本当は来るつもりなんてなかった、とは言いづらく、そうすることくらいしかできなかった。

 その間にも女性はこちらに近寄ってきて手を掴んできたかと思うと「ありがと」と言う。


「べ、別に……ただ、時間があったから来ただけ、です」

「それでも。――そうだ、このあと時間ある? しばらくしたらあたしはどっかのレストランに行くつもりだけど、一緒にどう?」


 その誘いに、小春は視線をさまよわせた。そもそも本当にここに来る気はなくて、彼女の話を聞く気もなかったのだ。しかしここで断るのは、なんとなくしたくなくて……

 どうしてこんなふうに思うのだろう? と今更ながらにそのことを疑問に思い、小春は内心首を傾げた。小春はただ早くやりたいことを見つけたいだけで、だからこそ昨日は目の前の女性の言い分に反論したのだ。それなのに、どうして――とそこまで考えたところで、気づく。


 ――意識しなければ見つかるものも見つからないかもしれません。時間がないから、見落としたくないんです。昨夜、小春は確かにそう言って、今まさにその言葉通り見逃したくないからこそこの場に来ているのだ。女性の意見を否定したものの、その中からヒントが見つかる可能性だってあるのだから。

 それを理解して小春はそれならば、と口を開く。


「……行きます」


 すると女性は嬉しそうにはにかんだ。




 女性はまだもう少しいなければならない、ということで小春は部屋の写真を見てまわり、やがて六時になって展覧会が終わったため建物を出た。女性の先導でよくわからない道のりを進み、ひとつのレストランに入る。カランカラン、とベルの音が鳴り響き、店内の様子が目に飛び込んできた。


 そこはいわゆるバーのような店で、黒を基調としており、全体的に大人っぽい雰囲気が漂っていた。おお、と思わず心の中で声を漏らしながら女性のあとをついて店内に足を踏み入れる。カウンターの内側にはワインボトルが大量に並び、そのそばでバーテンダーと思われる人がグラスを拭いていた。店内にはちらほらと小春たち以外の客もおり、グラスを傾けながら聞き取れない英語で何やら話している。クラシックな音楽もひっそりと流れていて――

 小春は思わず半眼になった。ちらりと女性を見上げ、言う。


「……ここって完全にバーですよね」

「うーん、ちょっと違うかなぁ。アメリカでは確かにバーって呼ぶけど、イギリスではパブって呼ぶの」

「結局同じじゃないですか!」


 そう言えば、女性はクスクスと笑いつつカウンターに行き、なにやら英語で注文をする。先ほどと同じようにあまりにも流暢でネイティブと遜色なくて、小春にはなかなか聞き取れず、かろうじて「roast beef」や「wine」という単語が聞き取れた程度だった。……もう少し英語の勉強をしたほうがいいかもしれない、と反省していれば、しばらくして大皿に乗ったローストビーフとフライドポテト、そして透明な液体の入ったワイングラスが二つ出てきた。女性は「Thank you!」と言いながら財布を取り出して支払いを済ませると、「はいこれ持って」と言って小春にワイングラスを二つ渡し、自分は大皿を持ってその場を離れる。小春は慌ててその背を追いかけた。


 端っこにある席に座ればすぐに女性がワイングラスの片方を持って「それじゃあかんぱーい!」と言った。まだ飲んでいないはずなのに酔っているような様子だ。そんなことを思いながらワイングラスに口をつける女性を見つめていれば、「飲まないの?」と尋ねられる。


「いや、だから私未成年ですから」

「それはこっちのセリフ。昨日も言ったでしょ? ここはイギリス。パブでお酒を飲むのは十八歳からオッケーなの」


 しかしそれでも抵抗感はあって。「でも……」と言えば女性はグラスをもう一度傾け、そして静かにテーブルに置いた。「昨日の話の続き、しよっか」真剣な眼差しが小春を射抜く。


「確かに抵抗感はあるだろうけどね、やりたいことを見つけるのなら自分の世界を広げないといけないよ」


「たとえばこのワインを飲むことだってそう」そう言いながら女性は右手で持ったワイングラスを揺らす。


「今まで経験したことがないことに果敢に挑戦することが、やりたいことを見つける一番の近道だとあたしは思う。――焦って探すことなんかよりも。焦っていたらどうしても追い詰められて、そのせいでやりたいことがすぐそばにあっても見落としちゃうかもしれないし」


 そう言って女性はフライドポテトを一本掴み、口の中に放り込んだ。

 彼女の言ったことは確かにそうだろう。自分の触れたことのないものに触れなければ、それがやりたいことなのかもわからないし、焦って追い詰められて、その結果やりたいことを見逃してしまうのも現実的に起こりうることだ。


 ああ、と小春は心の中で呟く。一晩経ったからか、昨夜とは違って彼女の言うことがゆっくりと胸に沁みていき、冷静に聞くことができた。

 そのとき、女性が小春の胸を指さす。


「ひとりでイギリスに来たのは、その点から考えてすごくいいと思うよ。勇気のいることだし、尊敬する。あとはそれを――新しい世界に触れることを恐れず、いつだって正面から勢いよくその世界に飛び込めばいいのよ」


 これが昨日言いたかったこと。そう続けて、女性は小春のワイングラスを示す。中に入っているのは透明な液体――おそらく昨夜と同じ白ワインだろう。

「飲んでみたら?」と言って女性は自分のワイングラスを傾けた。まるで飲むことを怖がらなくてもいい、と勇気づけるかのように。

 小春は両手でワイングラスを持った。手の中で透明な液体がゆらゆらと揺れている。そこに映る小春の顔は歪んでいて、どこか苦しげにも見えた。


「私――」と、自然と声がこぼれる。正直、親にダメだと言われたことを、正しくないと思うことをするのには、かなりの勇気が必要だった。それでも、すでにイギリスここに来た時点で、やらかしちゃっているんだし、と自らを納得させて、小春はワイングラスを唇にあてた。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、そのことに少しためらいながらもグラスを傾ける。


 初めて飲んだ白ワインの味は想像していたよりも甘く、柔らかに喉を滑り落ちていった。

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