美、し、い

石田夏目

上 彼女と私

―ほととぎす泣くや皐月のあやめぐさ

あやめも知らぬ恋もするかな


日本語はやはり美しい。

世界中どこを探してもこんなに美しい言葉はないだろう。

けれどそれを理解してくれるものは少ない。

今もほとんどの生徒が夢の中だ。

まぁ古典の授業なんてそんなものだろうと

半ば諦めかけている。

うちの学校は私学の女子高で内部進学者が多いゆえに、実際受験に必要のない人も多いのだ。

チョークの音だけがむなしく教室に響く。

だが彼女だけは違う。

沢口楓。彼女だけは。

真っ直ぐにこちらをみて真剣にノートをとっている。

彼女は物静かだか不思議な色気があり

見ていると女の私でも時々どきっとしてしまうほどだ。

キーンコーンカーンコーン

授業が終わるチャイムが鳴り響いた。

「はい。今日はここまで。」

生徒達があくびをしながら立ち上がり起立!礼!という号令と共に授業が終わった。

腕時計を確認する。12時35分。ようやく昼休みだ。

職員室へ戻ると鞄からコンビニの袋を取り出した。

今日は次の授業まで少し余裕がある。

ようやく一息つけそうだ。

袋からサラダを手に取り出し口にいれようとしたその瞬間だった。

「はーやさか先生?今日もコンビニ弁当ですか?」

(あぁ…ようやく一息つけると思ったのに)

「海原先生…。」

海原さくら先生。私の隣の席で去年大学を卒業してきたばかりの英語教師。

その愛くるしいルックスと誰に対してもフレンドリーな性格で生徒からも先生からも親しまれている印象だ。

…まぁ私は苦手なタイプなのだが

「早坂先生いつもコンビニ弁当ですよね?それだと栄養片寄りますよ?」

「サラダも食べてるから大丈夫。ほら野菜ジュースもあるし。」

気にせず次の授業の板書のノートを開く。

絡まれるとやたらと話が長い。

「食べる時ぐらいやめたらどうです?確か今日は六限まで授業ないですよね?」

「少しでも分かりやすい授業にしたいの。」

「相変わらず真面目ですね。でも真面目すぎてもつまんないと思いますよ。私も高校時代古典の授業つまらなすぎてほとんど寝てましたし。」

(それを古典教師の私の前で言う?)

最近の子はデリカシーがないと言うか配慮にかけるというか…

でもこんなことを言ったらおばさん扱いされてしまうかもしれない。

喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込みサラダを食べ進めた。


「早坂先生いらっしゃいますか?」

職員室の入り口で声が聞こえ、あわててフォークをおいた。

「沢口さん。どうしたの?」

「すみません。お食事中に。さっきの授業の質問があって…ここなんですけど…」

きっちりとした字で書かれたノートを見る。

彼女は本当に高校生なのだろうか。

「先生?」

「あっ…ごめんね?えっとここは…」

彼女はこうして時々質問に来る。

本当に熱心だ。

「この文法は間違えやすいから訳すときは注意が必要なの。」

「あぁ。だからこの訳になるんですね…分かりました。ありがとうございます。」

「ううん。また分からないことがあったらいつでも来てね。」

「はい。」

「あっ、そうだ。ちょっと待っててくれる?」

鞄から一冊の本を取り出し彼女に手渡した。

ちょうど今朝読み終えたばかりだ。

「これ勉強になるから。よければ読んでみて。」

「…嬉しいです。早速読んでみます。」

あどけない少女のように微笑む彼女を見て少し安心した。

(よかった。大人っぽく見えてもやっぱりまだ高校生なのね。)

丁寧にお辞儀をして彼女は職員室を出ていった。

席に戻ると海原先生が再び声をかけてきた

「今のって二年の沢口さんですよね?」

「ええ。そうよ。それがどうかしたの?」

辺りをきょろきょろと見回し私の耳元に唇を寄せた。

「沢口さんと山口先生がデキてるって噂知ってます?」

「え!?」

自分でも驚くほど大きな声が出てしまい職員室中の視線を集めてしまった。

「ちょっと声大きいですよ!」

「ごっごめん。だってビックリして。」

山口先生は三十代半ばの数学科教師で

身長が180センチありひょろっとしている。

顔もそこそこだがほわっとした優しい雰囲気で生徒からの人気も高い。

「まぁ確かに私も聞いたときは驚きましたけどね。」

「でもそんなのただの噂でしょ。大体山口先生って既婚者だし。」

「でも抱き合ってるのみたとか言う生徒もいて…」

「彼女に限ってそんなこと絶対ないと思うけど…。」

「うーん。 まぁそうですよね。二人とも真面目そうですし」

「それよりそれどうにかしたら?」

彼女の机に目をやる。

彼女の机の上は物で溢れ今にも雪崩れてしまうだ。

「あはは!大丈夫ですよ!ほら!」

無理矢理物を端に寄せた。

僅かだがスペースが出来ている。

「はぁ…雑ね。」

(でもこのくらいのほうが人生楽しいのかも知れないな。私には絶対出来ないけど。)

そんな風に思いながら野菜ジュースを飲みきりゴミ箱に捨てた。


「ただいまー。」

「おかえり。遅かったね。」

「うん。まぁちょっとね。」

「ご飯できてるよ。」

二人ぶんの食事を食卓に並べ手を合わせる。

今日は私の好きなオムライスだ。

彼とは結婚して5年が経つ。

夫婦仲は…まぁ可もなく不可もなく。そんなところだ。

彼とは母の紹介で知り合った。

はじめはあまり気乗りしなかったが

会ってみると誠実で実直な人柄でわりと好印象だった。

結婚はタイミング

そんな言葉が頭をよぎる。

「ご馳走様。お風呂先いい?」

「うん。どうぞ。」

付き合っている時からお互い会話が多い方ではない。

(まぁ結婚ってこんなものなのかな…)

好きな人とずっと一緒にいれるなんて幸せなんだろう。

そんな夢物語みたいなことを思っていた頃が懐かしく感じる。

ゴム手袋を両手につけ二人ぶんの食器を洗い終わると読みかけの小説を手に取りビール片手に読みはじめた。


起立!礼!ありがとうございました

号令とともにチャイムが鳴る。

今日も無事一日が終わった。

(あー終わった!今日は時間あるし…ちょっと図書室行ってみてみようかな)

この学校の図書室はさすが私立というだけあってかなり蔵書が多いし、新刊が入荷するのも早い

唯一この学校に勤めて良かったと思う瞬間だ。

(あっこの人の新刊もう入荷してる…せっかくだし借りようかな。)

本を手に取りパラパラとめくっているとふと机の上で誰かが寝ているのが見えた。

近づいてみると長い黒髪の少女がすやすやと寝ている。

美しい横顔だと思わず見とれてしまう。

すると私の視線に気づいたのか彼女がゆっくりと目を開けた。

「あれ?…先生?」

「あっあぁごめんね。」

思わず慌てて目をそらせてしまった。

「いえ。こちらこそすみません。気づいたら寝てしまっていて。山口先生ってまだ来られてないですよね?」

「山口先生?まだだと思うけど…」

「そうですか。実は勉強を見ていただく約束をしていて…」

「そう…熱心ね。」

その瞬間海原先生の言葉を思い出した。

―沢口さんと山口先生ってデキてるって噂ですよ?

(いや、ないない!ありえないから!)

「あっそういえば先生、これありがとうございました。」

「あっもう読めたの?」

「はい。すごく面白かったです。訳し方がすごくきれいで…」

「そうでしょ?私もこの人の訳しかた好きなの。」

(ほら、こんなにいい子じゃない…)

さっきの言葉を少しでも信じようとした自分自身を深く反省した。

「沢口さん。」

彼女の肩が少しびくっと上がった。

声がする方を振り返ると山口先生が手をふりながらこちらに向かって歩いてきた。

「あっ…先生。」

「待たせてごめんね?あぁ早坂先生もいらっしゃったんですね。」

にっこりと微笑まれる。

山口先生は確かに雰囲気はほわっとしているが、どこか掴み所がない人で出来ればあまり関わりたくないタイプだ。

「えぇ。彼女に本を貸していて…」

「へぇ。本ですか。いいですね。僕にも今度貸してください。」

「えっえぇもちろんです。」

「……」

彼女は黙ったまま下を向いている。

「すみません先生。またゆっくり。さぁ沢口さん行こうか。」

「はい。」

勉強頑張ってねとただその一言だけかけて借りようとしていた本も借りず、すぐに出ていってしまった。

(なんだろう…この嫌な感じ。それにあの時一瞬だけど彼女の肩が少しあがったような)

ふと足を止める。

悪い考えが頭をよぎった。

(でも…まさかね。教師と生徒だし)

そう自分に言い聞かせ再び歩きだした。

(今日は早く帰ろう…)


私は今でもこの日のことを後悔している。

あの時彼女にきちんと話を聞いていればあんなことはおこらなかったかもしれないのに。


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