梅雨本番の六月。インターハイの予選が無事終わり、香坂先輩は県の代表になった。週のはじめの朝礼で校長先生から壇上で紹介を受けているときも、香坂先輩はいつもみたいになぜかぶすっとしていて不機嫌そうで。

 わたしはその姿を遠くから見つめながら……綺麗だな、と思っていた。

 それはまるで人に慣れる事のない気位の高い猫のようだ。

 でもいつか。

 そののどをゴロゴロと鳴らせられたらいいのにな、なんて思うのだ。

 その日の部活も雨だった。的前に立つ事を許されたわたしたち一年生は、篠原先輩と果穂さんの指導のもと、まだまだぎこちない仕草で一生懸命弓を引いていた。

 そんな様子を三年生たちが温かく見つめている。言いたい事は多々あるのかもしれないけれど。みんな黙っている。二年生の射も今日はどことなくぎこちない。そのぎこちなさが余計に一年生たちをいたたまれない気持ちにさせているのも……みんな解ってる。でも、それも仕方ないと思う。

 なぜなら。

 ……今日は三年生が引退する日だから。

「えー、と。なんか改まってだと照れちゃうね」

 早めに終了した部活の最後。正座する二年生と一年生に対面して、三年生が正座している。そのまん中には早野主将。

「残念ながら、ゆかり以外はみんな県大会で結果を残せなかったからね。わたしたちは今日で引退になる。でもまだまだ受験まで間があるし、たまに、あー……ちょっとごめんね」

 そう言うと少しだけ言葉に詰まって、早野主将は親指の先で目をそっと拭った。

「あ、っと、なんだっけ」

「たまには顔を出すから、でしょ? 昨日一緒に練習したじゃん。……なんで肝心なところでそうなんだよ。馬鹿」

「うっさい。聡子だってこの前数学赤点だったくせに。馬鹿のくせに馬鹿って言うな」

「なっ、ちょっと待て朋美っ。このタイミングでそれバラすか普通っ?」 

 ツッコミを入れる河原木先輩の目にも涙が浮かんでいて、こんなふうに主将と副部長の漫才のような掛け合いを聞く事ももうなくなってしまうんだな、なんて思うと、わたしも思わず……目頭が熱くなってしまう。

「ま、ゆかりの応援には行きたいし。八月のインターハイまではちょこちょこと顔を出すつもりだから。あ、秋の新人戦も応援に行くわ。でもね、どっかでけじめはつけないといけないしね。……今までありがとうね。二年と少しだったけど、みんなと一緒に弓道やれて楽しかったよ。みんなと過ごした時間は、わたしにとって掛け替えのない宝物です。これからは新しい主将と副部長と一緒に、この弓道部を守り立てていってください。最後に、短いあいだでしたけれど、今村先生。ご指導……ありがとうございました」

 手をついてお辞儀をする早野主将に続いて、三年生が全員礼をする。

「うん。わたしからもありがとうって言わせてもらっていいかな。前任の柚木先生の代役として急遽コーチを拝命させて頂きましたが、不慣れで色々と迷惑をかけちゃったと思う。特に主将の早野さん、副部長の河原木さん、主務兼監事の仲本さん、新人指導係の篠原さんには何度も助けてもらいました。本当にありがとうね。高校を卒業したら弓道を辞めてしまう高校生って意外と多いんだけど、わたしはね、社会人になっても弓を続けられるように指導してきたつもりです。だからいつかまた、どこかの射会で会いましょう。そのときを楽しみにしてます。三年生の皆さん。おつかれさまでした」

 果穂さんがにっこりと笑って。三年生一人ひとりの顔を見つめる。

 わたし、こういうの……弱いんだよなぁ。

 涙をこらえるのに精一杯で。

 三年生の顔をまともに見る事が出来なかった。

「じゃあ。新しい主将と副部長を早野さんから発表してもらうわね」

「はい」早野主将はすっと立ち上がると、自分の前に置いていた白羽の竹矢を両手で捧げ持つように手に取った。

「……新しい主将は、篠原瑞希。立って」

「はい」

 篠原先輩が静かに立ち上がる。

「新人指導は引き続き、根本ねもとと一緒に見てあげて。あなたは誰よりも人を導くのが上手だから。……頑張ってね」

「はい」

 早野主将の手から白羽の矢が篠原先輩に手渡される。いつもは上座に掲げられた額の中に飾られているその矢は、代々こうやって次の主将に引き継がれていく。

「副部長は雪宮ゆきみや恵那えな。主務及び監事は原田はらだ美沙みさ

 名前を呼ばれた先輩の、はい、という声が唱和する。

「ふたりとも、瑞希を助けてあげてちょうだい」

 どこからか鼻をすする音がする。

「じゃあ、篠原。主将としての最初のお仕事ね。……納射、お願いします」

「はい」

 渡された白羽の矢を。

 篠原主将は座射の姿勢でゆっくりと番える。

 第一介添は雪宮先輩。

 第二介添は原田先輩。

 篠原主将の手が震えている事に気づいて。わたしは小さく息を飲む。つややかなその頬をつうっと涙が伝っていく。

 儀式的で美しい射が雨のそぼ降る矢道に、まるで一筋の光のように。すすり泣く声の中、ただ、静かに一手、的に向かって射られた。

 いつも優しく指導してくださっていた篠原主将の横顔はとても凛々しく輝いている。

 今日で三年生ともお別れかと思うと、切なくて、寂しさが胸に去来するのをどうしても押さえられなかった。

 けれど、わたしの目はいつしかぶすっとしたままの香坂先輩の姿に釘付けになっていた。左手首の黄色いシュシュを所在無さげに撫でている、退屈な猫のような……美しい先輩の姿に。

 自分一人だけ取り残されるように弓道部に在籍し続ける先輩は、今……なにを考えているんだろう。


「……花村。ちょっといい?」

 寄せ書きを渡したり、記念写真のお手伝いをしていたわたしを香坂先輩が呼び止めた。ストレッチのとき以外でわたしに声を掛けてくださるのは初めての事で。わけもなくドキドキしてしまった。

「あ、えと。なにか御用事でしょうか」

「このあと、時間取れるかしら。話があるの」

 本当は一年生同士でまた、マックかどこかでお茶して帰る予定だったのだが。

「大丈夫です。ええと、どちらでお待ちしたらよろしいですか」

「着替えたらまたここに来ていて。場所は……そうね、近くの喫茶店でいいかしら」

「でも、どういったお話なのでしょうか?」

 香坂先輩は少しだけ渋いものを飲み下したような顔をして。

「ここでする話じゃないわ。いいから、待ってて。解ったの?」

「はい。解りました」

 わたしはぺこっと頭を下げた。

 一緒に帰れなくなった旨を三人に告げると、案の定……なんだかんだ言っても香坂先輩って、一花さんに目をかけてくれてるんじゃないの? と真琴さんに肘で突つかれたりしたけれど……どうもそういう雰囲気じゃなかったんだよなぁ。

 わたしの顔を見てなんとなく察したのか、由貴さんが心配そうに大丈夫? と訊ねてくれた。

 まあ、獲って喰われるってものでもなさそうだし。大丈夫だと思うけど。

「わたしたちいつものマックにいるから。早く用事が済んだら一花もおいで。真琴がいつもみたいにくだらない話で間を持たせていてくれるさ」

「桜、それはあんまりじゃない? ま、どんな話をしたのかちょっと興味あるしね。待っててあげるわ」

「ありがと。でも遅くなるようならメールするから、先に帰っちゃっていいからね」

 わたしは答えて、スポーツバッグを肩にかけた。

「じゃ、またね」

「うん。バイバイ」

 お互いに手を振りながら別れる。お気に入りの傘をさしながらプールのわきを通って再び弓道場に向かうと、入り口には果穂さんがぼんやりした表情で雨降りの空を眺めていた。

「あ、果穂さん。どうしたの?」

「……一花ちゃん」

 果穂さんの目はちょっとだけ赤くて。泣いていたのかな、なんて思う。

「教え子って、可愛いね。なんか色んな事を考えさせられちゃったわ。あーあ、わたしにも自分の子どもがいたらなー」

 わたしはぎゅっと、傘を持つ手と反対の手で制服のスカーフの辺りを握りしめながら。果穂さんの顔を見つめていた。

「……そんな顔しないで。その様子だと紫優が喋ったんでしょ?」

「うん。……ごめんなさい」

「いいよ。別に。でも、わたしも一花ちゃんみたいな子が欲しかった、かも」

 どう答えていいか解らないわたしを見て、クスッと笑いながら……果穂さんは言った。

「でも今は……ここの生徒がわたしの子どもみたいなものだわ。ま、ひとり問題児がいるけど。そういう子も可愛いものよね」

 ちらり、と果穂さんはわたしの後ろに視線を投げた。慌てて振り返ると、赤い傘をさした香坂先輩が少し驚いた顔をして、一瞬足を止めたのが見えた。

「一花ちゃん。あとお願いね」

 優しくわたしの髪を撫でて。

 果穂さんは傘もささずに行ってしまった。

「……今村先生と随分親しいのね」

 依怙贔屓。先輩にはまだ……そう思われているのかな。

 険のある声にわたしはぎこちない苦笑で返して、

「あの。お話というのは」

 と訊ねた。

 香坂先輩はついっと目を逸らして。

「場所を変えましょう」

 と言った。

 そしてきびすを返すと、またもとの道を戻り始めた。先輩の姿がまっ赤な傘に遮られて見えなくなる。足早に歩く先輩を追って、わたしは小走りでついていった。

 先輩に連れてこられたのは住宅地の中にあるあまり目立たない喫茶店。一歩中に入ると、薄暗い照明の中、カウンターの中に無数に並べられているカップがわたしたちを出迎えてくれた。クラシックが静かに流れる店内は、古い木のぬくもりに包まれている。珈琲を挽くいい匂いがする。

「いらっしゃい。今日は連れがいるんだね」

 初老のマスターが香坂先輩に微笑みかける。

「君はゆかりの友達かな?」

「あ、部活の後輩です」

「そうか。ゆっくりしていって、ゆかりの相手をしてあげてほしい。ゆかりは……」

「おじさま、余計な事は言わないでいいですから。いつものを二つ」

 香坂先輩が渋い顔で遮った。

「カップはいつもの?」

「ジノリ。それと……彼女には色鍋島の。あの青いやつ」

「ほう。なるほど。了解」

 なにがなるほどでなにが了解なのか解らなかったけれど、わたしは口を挟まなかった。

 奥まった席に連れられて、沈み込むようなソファーに腰を下ろす。スカートがめくれそうになってわたしは慌てて裾を押さえた。

 まさかこんな専門的なお店に連れてこられるとは思ってもみなくて、それに目の前に香坂先輩もいるし。……緊張してのどがカラカラだった。

 先輩はこのお店の常連さんなのかな、なんて思って見つめていると。

「ここね、わたしの母方の伯父さまのお店なの。誰かを連れてきたのは……初めてよ」

 と、いつもの不機嫌そうな調子でそう言った。

「素敵なお店ですね。なんか、その……緊張しちゃいます」

 わたしは伯父さまのお店と聞いて余計体を硬くして、慌てて居住まいを正した。

「それで、先輩。あの……」

「珈琲が来たらね」

 やけに焦らすなぁと思いながら。わたしは所在なく店内を見渡してみた。木造の梁の高い店内は天井でゆっくりとファンが回っている。なんだか外と中では時間の流れが違っているようにも思えた。あるいはそれは、……先輩とふたりきり、だからなのだろうか。

「お待たせ。ハイローストのマンデリン。君、ミルクと砂糖は?」

「お願いします」

 先輩の前には真っ白のジノリのカップが、わたしの前には鍋島焼きの綺麗な青いカップが置かれる。深く焙煎された珈琲の、とってもいい匂いがわたしの鼻をくすぐった。

「ごゆっくり」

 マスターが立ち去るのを待ってから、香坂先輩はゆっくりとカップに口をつけた。

「先輩はお砂糖もミルクも入れないんですか」

「……ええ」

 一瞬真似してみようかな、と思ったけれど、苦いのは苦手なので。わたしは遠慮なくお砂糖もミルクも使わせてもらった。

「話というのはね」

 かちゃり、とカップを置いて。

「あなたに訊きたい事があったの」

「……なんでしょうか」

 わたしもそっとカップを受け皿に戻した。

「さっきも随分今村先生と親しそうだったけれど。あなたたち、どういう関係なの」

「なぜ……そんな事を訊くんです?」

「不自然だからよ。コーチと生徒というだけの関係には見えないわ。それに」

 カップに一瞬手を伸ばし、けれども触れることなく、先輩はわたしの顔を、じっと見つめた。

「わたしと今村先生がやり合ったのは花村も知っているんでしょ。あるいは七月の社会人の大会に出ることも、全部知っているのかしら。わたしの勝負の相手。今村先生にその友人っていうのがどんな人なのか訊ねたら、花村に訊いた方がいいわって。そう言われたもの」

「そうですか」

 わたしはもう一度カップを手に取って、そっと口に運んだ。

「果穂さんはわたしの大切な家族の、その友達なんです。それでわたしにも親しくしてくれているんです。勝負、というか、先輩と一緒に出場するのは、果穂さんの高校の同級生で……」

「花村のお母様?」

「いいえ。わたしの母の……」わたしは一瞬ためらったけれど、……はっきりと言った。「恋人です」

「……え? でも、……今村先生ってうちの学校の卒業生でしょ? それにそう、彼女、って言っていたわ」

「ええ。母の恋人は女性ですが。それが……なにか?」

 一瞬、驚いた目の色をした香坂先輩から視線を外して、わたしは唇を噛んだ。

「先輩はそういうの、駄目な人ですか? 同性愛者なんて気持ち悪い、と」

「あ……駄目って、あの。……ごめん、よく解らない。それ、本当なの? あっ、違う……そうじゃないの、ごめんなさい。花村を傷つけようと思ったわけじゃなくて、わたしは」

 もう……それ以上なにも言わないで。

 お願い。お願いだから。

 わたしは震える手でカップを口に運ぶと、中身を一気に飲み下した。めちゃくちゃ熱くて、口の中をやけどした。でも。無視した。

 わたしは立ち上がり、先輩を見おろしながら。言った。


「わたし、先輩が好きです」


「……え」

 香坂先輩の顔が真っ赤に染まる。

「先輩が弓を引く姿……果穂さんは色々と言うかもしれませんが、わたしは好きです。でも、いつも思ってたんです。先輩はなぜ弓を引いているんですか?」

「わたしの……?」

「紫優ちゃん、本当は勝負なんてまったく興味のない人なんです。先輩と勝負して欲しいって果穂さんに頼まれても、最初は嫌だって言いました。それでも引き受けたのは……」

 そっと手を伸ばすと、香坂先輩は体を硬くして、小さく身を引いてわたしの手を避けた。先輩自身が驚いたように、わたしの指先を見つめていた。

「あ、あの、違う。待って」

「……ごめんなさい。もう、先輩に触れたりしませんから」

 わたしはゆっくりと手を戻して。先輩に背中を向けた。最後なんだから笑ってお別れしたいと思ったけれど、でも……無理だった。

 胸が痛くて。

 もう、耐えられない。

 足早に店を出ても先輩が追いかけてきてくれる様子はなくて。どこをどう歩いたんだろう。気づいたら駅に着いていた。

 傘をお店に忘れてきた事さえ、そのときには気づいていなかった。

 しとしとと降り続ける雨が、ぺっとりと制服を肌に貼付けている。

 いつものマックが見えて、窓際に三人の姿も見えていたけれど。どんな顔をして会えばいいっていうんだろう。会って、なにを話したらいいっていうんだろう。

 ……わたしはみんなに気付かれないように急いで駅の改札口をくぐり抜けた。

 電車にゆられながら、ごめん、今日は行けない、とメールを打って送信すると。

 途端に涙が溢れて止まらなくなった。

 やけどのせいで口の中がべろべろになっていた。

 痛い。口の中も、心の中も、胸の奥も。全部。全部痛かった。

 わたしは嗚咽をこらえながら。

 ああ、

 初恋ってあっけなく終わるんだな。

 と思っていた。


 夕ご飯になっても部屋から出てこないわたしを訝しんで、紫優ちゃんが部屋の扉をノックした。お母さんはこんなときは放っておいてくれる。どっちがありがたいのかはよく解んない。でも、ふたりとも心配してくれているのは変わらないんだよね。

「入ってもいい?」

「うん」

 まっ暗な部屋の中で、わたしは湿った制服姿のまま……ぼんやりとベッドに座っていた。窓の外では梅雨の雨が静かに降り続いている。

「なんかあった?」

「うん。まあ、ね」

 わたしは微笑もうと思ったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに。ぎこちなく頬が引きつっただけだった。

「そう言えば、今日って……三年生が引退の日、だっけ。それでセンチになっちゃった……ってわけじゃないよ、ね」

「……違うよ」

 わたしは首を振った。たぶん、紫優ちゃんだってとっくに気づいていたんだと思う。

「告白したの?」

 わたしのすぐ隣に座って、暫くしてから。紫優ちゃんは小さな声でそう訊ねた。

「うん」

「そっか。えらいね」

「…………」

「……駄目だった?」

 また涙が溢れてきて、わたしは乱暴に手でごしごしと涙を拭いた。紫優ちゃんがわたしの肩を抱いた。優しくて、温かな手のひらが、そっとわたしに触れている。紫優ちゃんからは……ラベンダーの甘い匂いがした。

「いいよ、泣いても。でも、あとでちゃんと冷やしておかないと……次の日まぶたが腫れて大変だからね」

 わたしは紫優ちゃんの胸に顔を埋めながら、そのやわらかな胸を涙で濡らしながら、声を殺して泣いた。そして。

 あの日の夜の事を思い出していた。


 ねえ、果穂さんて紫優ちゃんと同い年だよね、子ども……作らないのかな。

 初めて矢を番えた、あの日の夜の事。

 洪大先生の道場を出て、紫優ちゃんの運転するプーさんにゆられて。わたしは行きのときと同じように窓の外を眺めながら、そう訊ねた。紫優ちゃんはフロントガラスを見つめたままなにも答えなかった。そしてある交差点に差し掛かったとき、不意に紫優ちゃんはウインカーを出して道を曲がった。アパートの方角とは違うから不思議に思って、わたしは紫優ちゃんの顔を見つめた。

 どこに行くの?

 うん。……ちょっと寄り道していいかな。

 住宅街の角を幾つか曲がり、たどり着いたのは町の小さな郵便局。

 ……郵便局だよね、ここ。

 不思議に思って訊ねたわたしに、でも、紫優ちゃんは暫く無言のままだった。その横顔はなにを思っているのか、表情がよく読み取れない。

 紫優ちゃん?

 ……ここね、わたしの家があった場所なの。

 え?

 わたしは慌ててもう一度郵便局を見つめた。紫優ちゃんが背中に大きなやけどを負った場所。紫優ちゃんのお父さんとお母さんが……亡くなった場所。

 もう面影もなにもないけどね。

 そう、なんだ。

 なんの変哲もない、ただの郵便局。そこにはもう紫優ちゃんの悲しみなんてどこにも残っていないように見えた。

 果穂はね。

 ぽつりと紫優ちゃんは言った。

 果穂は香坂さんって子に、たぶん……自分を重ねているんだと思う。前にさ、わたしが高校生だったの頃の部活は、的に中てる事がとても大切にされていたって話をしたのを覚えてる?

 うん。

 当時の果穂もそうだったの。どうやったら的に中てられるか、どうしたら試合でいい成績を残せるか……二年になって主将に選ばれたって事もあったんだろうけどね。わたしとは考えが合わなくてよく喧嘩をしたわ。でもね、果穂だって気付いてたんだと思う。どっちが正しいとか、どっちが間違っているとか、そんなの本当は意味がないって。だから悩んでいたわたしにお父さんを……洪大先生を紹介してくれたんだと思うの。わたしがそれで救われたように、果穂もきっと……わたしを紹介した事でどこかで救われていたんじゃないかな。そうじゃなければ……今になってあんなに体配や礼節にうるさくならないと思わない?

 そうかもしれないね。

 わたしは言った。紫優ちゃんはちょっとだけ笑って、ちらりとわたしを見た。

 だから果穂は余計に歯痒いのね。その子は果穂自身にもわたしにも似てるみたいだから。

 紫優ちゃんにも?

 うん。果穂には友達がいっぱいいたけれど、わたしは周囲と馴染めなくて部内に友達なんていなかった。唯一突っかかってきてくれたのが果穂だったわ。だから、わたしの弓道の友達は……果穂だけなの。その香坂さんていう子には……誰かいるのかな。

 わたしは胸が苦しくなって。紫優ちゃんの肩にしがみついた。額を強く押しつけて、震える声で小さく言った。

 わたし、香坂先輩が好き。

 紫優ちゃんはなにも言わなかった。

 好きなの。どうしてかなんて自分でも解んない。でも、見ていられないの。胸が苦しいの。

 わたしはぽろぽろと涙をこぼしながら。

 紫優ちゃんにすがり続けた。

 ……紫優ちゃん。わたし……こんなに誰かを好きになったのは初めてなの。どうしたらいいか解らないの。ねえ、誰かを好きになるって……なんでこんなに苦しいの?

 紫優ちゃんは反対側の手でわたしの髪を優しく撫でながら。

 わたしが女に惚れるのは不毛だよ、なんて言っても説得力ないよね。でもね、好きになった相手が男だろうが女だろうが、なにも変わらないと思う。誰かを好きなるのはそれだけで尊いものだもの。例えその気持ちが相手にきちんと伝わらなくても。変わらない。なんにも変わらないの。一花は今、とても素敵な経験をしてるのよ。

 紫優ちゃんはぽんぽんとわたしの頭を撫でた。

 これは……内緒ね。

 え?

 果穂ね、一度流産して……もう二度と子どもは産めないだろうって、言われたの。

 ……本当に?

 うん。それでも修一さんの果穂を思う気持ちは変わらなかった。修一さんは果穂を変わらずに愛しているし、果穂も修一さんを愛してる。遠くから見ていれば解るわ。だからわたしも、かすみとあんなふうになりたいなって。時々思うの。

 見上げると、紫優ちゃんの瞳も涙できらきらと光っていた。

 だから……余計に香坂さんの事は放っておけないのね。自分の子どもみたいに可愛いのよ。ううん。香坂さんだけじゃない。弓道部のみんなが可愛くて仕方ないんだと思う。わたしはそう思うな。

 うん。果穂さん、優しいもの。みんな果穂さんが大好きだよ。本当だよ。

 ……ありがとう。

 紫優ちゃんがこぼれ落ちる涙を拭った。弓道部のみんなが果穂さんを好きなように。わたしはこの泣き虫なお母さんの恋人を、ずっと好きで居続けようと思うのだ。

 ねえ、紫優ちゃん。わたしもいつか紫優ちゃんとお母さんみたいに……果穂さんと修一さんみたいに、運命の人に出逢えるかな。

 もちろんよ。

 紫優ちゃんはにっこりと笑った。

 わたし、かすみを愛しているわ。かすみがわたしを愛してくれているように。ね。

 でもさ。

 わたしはちょっと意地悪く言ってみた。

 案外、お母さんにとっての一番はわたしかもよ? なんて言ったって娘だもん。

 ふふん。どうだろうね? でも一番なんて言っても色々と種類があるもの。だからそんなものにはこだわらない方がいいのかもしれないじゃない? それに少なくともかすみはそんな事、気にしたりしないよ。

 紫優ちゃんはにやっと笑ってそう言った。

 その言葉を身に染みて実感したのはあの日の夜、お母さんにほっぺを思いっきり抓られたから。でも紫優ちゃんが言った通り、それはどっちが一番とかって問題じゃなかったんだよね。わたしがいて、お母さんがいて、紫優ちゃんがいて。そうじゃなくちゃわたしたちは……家族じゃないんだから。

 三人いて、三人がみんな愛し合っているから、だから家族なんだもの。ね? そうだよね?


 次の日の部活。

 更衣室で着替えているとき。

 昨日は行けなくてごめんね、なんて真琴さんに話しかけていると、ふっと香坂先輩と目が合った。

 わたしはいたたまれなくて、慌てて目をそらした。その様子を見ていた由貴さんがぽんとわたしの肩に手を置いて。でも……なにも言わなかった。朝までずっと冷やしていたけれど、きっと泣き腫らした目は由貴さんにはとっくにバレてると思うのだ。おんなじクラスだし。なんと言っても……親友なのだから。

「花村、手」

 けれどもストレッチが始まると、いつものように香坂先輩はすっとわたしの傍らに立ち、いつもと同じ台詞でわたしに向かって手を差し出した。その様子は本当にいつもと変わらなくて。……なんでそんなに変わらずにいられるんだろう。

「でも」

 わたしが逡巡していると。

「……いいから手を出しなさい」

 先輩はわたしの手を無理矢理掴んだ。

 その指先はいつものようにざらざらしていて。

 また、こんなふうに手をつないでくれるなんて思っていなかったから。わたしはそれだけで泣きそうになってしまう。

「先輩。わたし」

「いい。なにも言わなくていいから。ストレッチ、これからも一緒にしてくれるわよね?」

「……いいんですか」

「訊かないでよ、馬鹿ね。今までとなんにも変わらないわ。あなたの傘、傘立てに置いてあるから。帰りに持っていきなさい」

 わたしは汗を拭うふりをして肩で涙を拭いて。小さな声でありがとうございます、と呟いた。

 ……でも、これでよかったのかもしれない。

 わたしは先輩に手を強く握られながら静かな気持ちでそう思った。

 気まずくなって、もう手もつなげなくなってしまったらと思うと、辛いから。部活で毎日のように顔を合わせるのに、避けられるのは……恐いから。

 きっと先輩は、昨日の一件はなかった事にしてしまったんだろう。わたしの告白なんて聞かなかった事にしてしまったんだろう。

 それでいい、これでよかったんだと自分に言い聞かせながら。

 わたしは涙をこらえるのに必死だった。


 県南支部大会の前日に紫優ちゃんから、わたしがあげた帯、明日貸してくれないかしら、と言われた。夕ご飯の片付けを一緒にしているときだった。

 お皿の水を切りながらどうしてと理由を訊くと、気合いを入れたいから、と紫優ちゃんは笑ったのだった。

 次の日の日曜日は気持ちがいいくらい晴れていた。梅雨ももうすぐ完全に終わって、夏本番になる。気の早い蝉が時々思い出したように雑木林の中で鳴いている。わたしはお母さんと一緒に早起きして、お弁当を作るお手伝いをした。今日は珍しくお母さんも一緒に見学に来ている。長い弓を持ってぞろぞろと歩いている人ごみを見つめて、お母さんは小さくあくびをした。

「眠いの?」

 わたしが訊ねると。

「うん。だってわたし、緊張して昨日よく眠れなかったんだもの」

 お母さんは恥ずかしそうに笑った。

「紫優が弓を引く姿を見るのも久しぶりだわ。なんだかドキドキしちゃう」

 そう言って目を輝かせるお母さんはまるで恋する乙女のようだ。わたしは思わず苦笑してしまう。

「なによ」

「いや、可愛いなって思って」

「一花に可愛いって思われたって仕方ないわ。あ、見て見て、紫優が歩いてるっ」

「もう、パンダじゃないんだから」

 白と黒の道着姿ならあるいはパンダに例えてもいいかもしれない。でも。今日の紫優ちゃんの格好は黒紋付の凛々しい着物姿。襟と足袋の白さが目立つ……どちらかというと白靴下を履いた黒猫みたい。あるいは……黒豹かしら。

 今日行われる試合は団体戦と個人戦。個人戦は五手十射で行い、的中の数で優勝が決まる。もしも的中の数が同じなら射詰いづめで勝敗を決する事になる。あ、えーと。射詰とは要するにサドンデスの事で、どちらか一方が為損じるまで勝負が続くのだ。

「やっぱり道着姿の紫優、素敵ね」

「うん。綺麗だね」

 紫優ちゃんがわたしたちに気付いて小さく手を振る。わたしもお母さんと一緒に手を振り返そうとして、紫優ちゃんのすぐ近くに果穂さんと香坂先輩がいるのに気付いた。洪大先生の道場からの参加者となっている香坂先輩は、紫優ちゃんや果穂さんと一緒にいてもどこか所在無さげだ。そしていつものように不機嫌そう。わたしはわけもなく、胸がドキドキしてしまった。

 香坂先輩もわたしに気付き、わたしとそして隣のお母さんを見ていた。どんな思いで見つめているんだろうと切なく思いながら、わたしは香坂先輩に向かって軽く手を振った。

 でも。手を挙げかけて、香坂先輩は戸惑ったように手を下ろしてしまった。

 果穂さんが香坂先輩になにかを言う。香坂先輩が紫優ちゃんに向かってぺこっと頭を下げる。わたしは自分の力不足なのが歯痒くて、なんで今、わたしはこんなところで見ているだけしか出来ないんだろうかと思って……歯嚙みするほど悔しかった。

 紫優ちゃんが香坂先輩になにか声を掛ける。果穂さんと一緒に笑っている。

 ……うらやましいなぁ。

「ねえ、お母さん」

 わたしは訊ねた。

「お母さんは紫優ちゃんが果穂さんと仲よさそうにしてても気になったりしない? 嫉妬したりしないの?」

「なんで? 当たり前じゃない」

「だって……」

 なかなか思い切れないと思うんだけどな。だって。今のわたしがそうなんだもん。

「昔紫優と果穂さんとのあいだになにがあったか知らないけど、今はただの友達でしょ?」

 そう言ってにっこり笑ったお母さんの目は全然笑っていない。めちゃくちゃ恐かった。

「紫優はわたしのものだもの。……誰にも渡したりしないわ」

 ……そういう台詞を真顔で言うのやめてくんないかなぁ。

 わたしはお母さんからそっと視線を外して、もう一度紫優ちゃんたちを見つめた。

「紫優のこんな大きな舞台での弓、錬士の審査以来かしらね。大会なら……あ、あの日が最後かな」

 わたしはちょっと不思議に思い、お母さんに訊ねた。

「あの日?」

「うん」

 お母さんは紫優ちゃんを見つめながら苦笑する。

「昔ね、紫優が大会直前に怪我をした事があったの。勤め先の病院で患者さんに殴られちゃって。顔の右半分が大きく腫れちゃってね、目もうまく開かないような状態だったの」

 わたしはびっくりして、お母さんの顔をまじまじと見つめた。

「……なんで?」

「知らない。紫優は具合の悪い患者だったから仕方ないって笑ってたけど。わたしはショックだったわ。たぶん、紫優も。隠してたけど……わたしには解るもの。そんな状態だったのにね、わたしの為にあの子は大会に参加したの。わたしに……勇気をくれる為に。でもね、やっぱり無理だったのよ。わたしはよく解らないけど、弓道って精神的なものに大きく左右されるんでしょう? しつっていうのだったかしら、番えた矢を連続で落としてしまってね。とても見ていられなかった」

 お母さんは切ない表情で遠くの紫優ちゃんを見つめている。そのときもお母さんは……そんな目をして紫優ちゃんを見ていたんだろうか。

「だからね、わたし大きな声で叫んだの。しっかりしなさいっ、紫優はわたしの事好きなんでしょ、って。そうしたらね、あの子、好きよ、愛してるわって。大声で応えてくれたわ」

 わたしは唖然として、お母さんを見つめた。この人、弓道の大会で一体なんて事をしでかすんだろう。自分の母親が途轍もない人間に思えてきて、わたしは絶句してしまう。それに応える紫優ちゃんも紫優ちゃんだけど。

「結局それが原因で失に関係なく失格になっちゃったけどね。わたしはそんな紫優が大好きなの。だから……やっぱり誰にも渡したくないな」

「なんて答えたらいいか解んないよ。でも、なんかうらやましい。あ、訊いてもいい? ……お母さんに勇気って?」

 お母さんは自分よりも背が高くなってしまったわたしを見つめて、ちょっと背伸びをして。ポンポンとわたしの頭を撫でた。

「妊娠してたの。あなたを」

「そうなんだ。……それでみんな、わたしの事を紫優ちゃんの娘って言うのかしら」

 わたしは前から疑問に思っていた事をぽろりと口にした。洪大先生も果穂さんも。わたしを紫優ちゃんの娘だって、そう言っていたんだもの。

「そうね、それもあるかもしれないわ。でも……あれかな。一花って名前を付けたのが紫優だからかな」

「……え?」

「紫優はあなたの名付けの親よ?」

「えっ、ええっ! ちょっと待って、待ってよ。わたしそんな話、今まで一度も聞いた事ないんだけどっ」

「だって、言った事ないもん」

「なっ? なんでよっ」

 しれっとそう答えるお母さんの顔がものすごーく憎たらしく思えた。なんで、なんでそんな大事な、大切なことを今まで言ってくれなかったのよっ。

 わたしの大声に周囲の人の目が集まって、ちょっぴりいたたまれない気持ちになったけど、でも、今のわたしにはそれどころじゃないのだ。

「紫優が産まれたばかりのあなたを見て、言ったの。この子はわたしたちの為にこの世界に咲いた、たった一つの花だよって。それで〝一花〟って名前をつけてくれたの。ね、……素敵でしょ?」

「す、素敵かもしんないけどさっ。今このタイミングで言われて、どう対処していいか解んないよ。もう、馬鹿馬鹿お母さんの馬鹿っ」

「馬鹿はお前ぇだ、うるせえな。なに騒いでんだ」

 急に声を掛けられて慌てて振り向くと、そこには着物姿の洪大先生が立っていた。

「ご無沙汰してます。先生」

 お母さんが静かに頭を下げて挨拶をする。

「かすみさんか。相変わらず若ぇな。きゃぴきゃぴしてると娘みてぇだ。今日は紫優の射の途中で大声あげるなよ。あと、一花か。お前ぇは相変わらずうるせぇな」

 ぐっと言葉に詰まりながら、わたしもこんにちは、と挨拶をした。

「先生も今日は大会にお出になるんですか」

「おうよ。矢渡しと閉会の挨拶もな。面倒だがこれも付き合いだ」

 そうお母さんに答えてからからと笑ってみせる洪大先生は、なんというか道場にいるときよりも威厳に満ちているように見えた。あるいはきっちりした着物姿だからだろうか。

「どうだ、一花。ちっとは上達したか?」

「……あんまり、ですかね」

「おめえは雑念が多すぎるんだよ。色々抱え過ぎなんだ。……色恋はまだ早ぇな」

 見透かされたみたいでどきっとして。わたしは慌ててかぶりを振った。

「あ? なんだ図星か」

「一花もお年頃なんだものね。でもちょっとお母さん、寂しいわ」

「な、ちょ、違う、違うもんっ」

 わたしはぶんぶんと手を振って、抗議した。そんなわたしたちの様子に気付いて、果穂さんと紫優ちゃん、それから香坂先輩が遠くから何事かと見つめていた。わたしはもう、穴があったら入りたいくらいの気持ちだった。

「いいか一花。日本の弓ってのは、妻手を離すと弓返りしてくるんと回るんだ。他の国の弓と違ってな。日本の弓も昔は回らなかったんだよ。そんな悠長な射をしてたら敵を次々狙えねぇ。こう、手の内をがっちり固めて、次々矢を射っていた」

「はあ」

 わたしはよく解らないまま、先生の話を聞いていた。

「それが今みたいな射に変わった。それはな、射が人を射る為に用いられなくなった証だと俺は思ってる。くるりと弓は回っても、矢は真っ直ぐに飛んでいく。それがどうしたって言われればそれまでだが……なんなんだろうな。俺はそこに弓が立禅だって言われる所以があると思ってるよ。おめえも紫優も的に色々なものを重ね過ぎなんだ。もっと無心になって弓を引け。特にお前はまだ、なにかを的に込められるほどのところにはいねぇよ」

「……はい」

 わたしはしっかりと頷いた。洪大先生はその大きな厚い手でわたしの頭をくしゃくしゃと撫で回して去っていった。

「相変わらずなのは先生の方ね」

 お母さんが苦笑して、そっとその後ろ姿を見送っていた。


 午前中の団体戦が終わった。団体戦は修一さんが大前、果穂さんがなか、洪大先生がおちだった。結果は2位の好成績。でも「今日は調子が悪ぃな」と呟く洪大先生はなんだかとてもかっこいい。

「果穂もなんだあの射は。紫優に全部任せたんならつまんねぇ弓なんざ引くな」

 と怒られて、果穂さんはしゅんとしていた。それでも五手六中なのだから大したものだと思うのだけれど。

 お昼ご飯をみんなで食べているとき、ふと香坂先輩の姿が見えないのに気付いた。洪大先生の道場からの参加だから一緒のご飯かな、なんて期待していたのだけれど、でも考えてみれば今日の香坂先輩は紫優ちゃんの敵でもあるわけで。なんだろう、考え出したらすごくもやもやして落ち着かない気分になってしまった。

「香坂さん、そういえばどこ行っちゃったのかしらね」

 果穂さんもちょっと気になったのか、きょろきょろと辺りを見回していた。いつも射会で無視し合っていた果穂さんと紫優ちゃんが一緒に食事をしている風景は、とても奇妙で、でもとても気持ちよかった。まあ、お母さんの気持ちを考えるとなかなか手放しで喜べないところではあるんだけど。そんなお母さんも紫優ちゃんの隣に座って、甲斐甲斐しくお握りを手渡してあげたりしている。

 対抗心むき出し、ってわけじゃないとは思いたいんだけど、はて、どうなんだろうね。

「香坂先輩も一緒に食べる約束だったんですか?」

 わたしは果穂さんに訊ねた。

「うーん。特にそんな話はしてなかったけど。でもあの子だってこんな大会にひとりじゃ心細いでしょ? 見つけたら呼んであげようと思ってたんだけど」

 紫優ちゃんにぽんと無言で肩を叩かれて、わたしはそれで勢いづいた形で立ち上がった。

「じゃあ、わたし。ちょっと捜してきます。皆さんはそのまま食べててください」

 お母さんはきょとんとしている。でも、

 紫優ちゃんは小さく笑ってくれた。

 わたしはぱたぱたとその場を早足で離れた。同じような道着姿の人が大勢いて、誰が誰だか見分けがつかなくなりそうだ。でも、あの黄色いシュシュを見落としたりなんて絶対しない。わたしは目を凝らして会場を当てもなくうろうろしていた。

 すると、トイレから大きめのポーチを抱えて出てきた香坂先輩とばったり出逢った。

「先輩?」

「……花村」

 香坂先輩はちょっとばつが悪そうに、慌ててポーチを背中に隠した。

「おトイレだったんですか? あの、よかったら一緒にご飯食べませんか。先輩の分のお弁当も作ってあるんです」

「あ……でも」

 先輩は一瞬ためらうように足元を見た。

「わたし、色々と食べられないものがあるから。かえって迷惑をかけてしまうわ。それに……ちょっと調子が悪いから。ごめんなさい、気持ちだけもらっておく」

「そうですか。残念ですけど、仕方ないですよね」

 わたしは一瞬口籠ってしまった。

「花村?」

「あの、えと。午後頑張ってください。紫優ちゃん……その、わたしの家族の事ももちろん応援してますけど、わたしは先輩の事も応援してますから。ふ……ふられちゃいましたけど、でも、先輩を好きなのは、変わらないですから」

「……うん。ごめん、もう行くわね」

 先輩は悲しそうな、辛そうな小さな声で呟いて、足早に人ごみの中に消えていった。やっぱり少し、寂しかった。でも……これは仕方のない事なんだ、と思いながら。わたしはとぼとぼとみんなの元に戻るしかなかった。

 調子が悪いって言っていたけれど、先輩……大丈夫かな。

 わたしは香坂先輩の持っていたポーチが気になった。生理用品が入っていたにしても随分と大き過ぎたあのポーチの中には……一体なにが入っていたんだろう。


 ひとりで戻ってきたわたしを見ても、……紫優ちゃんはなにも言わなかった。

 ただ、ちょっと切なそうに。

 わたしのほっぺを軽く、抓っただけで。


 午後の試合が始まった。午後の個人戦も団体戦と同様にひとり五手、十射で行われる。ピンと張りつめた空気の中、粛々と矢が射られていく。四手終わったところでなんと紫優ちゃんと香坂先輩が皆中という快挙を成し遂げていて、矢を射る度に小さなどよめきが起こった。

「あんな紫優の姿、見るの初めてだわ」

 五手目の甲矢を番えた紫優ちゃんを見つめながら。お母さんがぽつりと言った。

「なんだか悲しそう」

「え?」

「紫優の横顔がね、わたしには悲しそうに見えるの」

 そうだろうか。

 わたしはいつもと変わらない様子で坐射を行う紫優ちゃんの姿を見つめていた。でももしかしたら、お母さんの言う通りなのかもしれない。こんな大きな大会に出る事も、誰かと勝負をしなくちゃいけない事も、お母さんの前で弓を引く人たちと談笑する事も。紫優ちゃんにとっては本意じゃなのかもしれない。でも、それでも。

 わたしは紫優ちゃんが香坂先輩と一緒に弓を引く姿が見られて、じんわりと胸が熱くなっていた。

 紫優ちゃんの射も、香坂先輩の射も、わたしにはとても美しく見える。射がその人柄を表すのだとしたら、それは紫優ちゃん自身、そして香坂先輩自身以外の何物でもなかった。

 結局、五手十射行い、紫優ちゃんと香坂先輩は皆中した。そんなのは大会でも初めての事で、射詰の準備をしているときも周囲からはざわざわとした囁き声がいつまでも続いていた。わたしなら二手四射皆中させるのだって大変な事なのに。それをこのふたり、本当にすごい。

 これから射詰を行います、とのアナウンスが流れ、会場は痛いくらいの沈黙に包まれた。

 大前で黒紋付に襷掛け、黒い弽に羽黒の竹矢を番えた紫優ちゃんがゆっくりと弓を打ち起こしていく。袴の隙間からは薄い抹茶色の帯がちらりと覗く。わたしが紫優ちゃんからもらった、大切なあの帯が。……そうか、わたしは今、紫優ちゃんとあそこに立っているんだ。そのために紫優ちゃんは……あの帯を締めているんだ。そう思うと涙がこぼれそうだった。

 そして。大きな大三から会に入り、静かに時間が引き延ばされていく。

 きゃんと鳴る弦音に遅れて、的を射抜いた音がした。羽黒の矢は的の正鵠を射ていた。

 それを見て香坂先輩が打ち起こしを行う。左足は的に向かって真っ直ぐに開かれ、反対に右足の開きは浅い。まるで上から見ると足踏みがTの字になっているみたいに。そして先輩の手の内は小指が一番内側に来て、次に中指、人差し指という本当に刀を握っているような、そんな手の内で。果穂さんの言う通り、まるでいにしえの武士のよう。

 大三から素早く会に入り、ギリッと音がしたかと思う間もなく、香坂先輩の矢は的を射抜いている。

 そして再び紫優ちゃんの……六手、十二射目の乙矢の番になる。

 ギリギリと大三から引き分けるときに弦の、弽の鳴る音がする。

 離れ。

 残心。

 バキン、と音がして、何事かと思うと、……乙矢は甲矢の筈を打ち砕いて、的の正鵠を射抜いていた。甲矢のが真っ二つに裂けていた。会場に大きなどよめきが走り、わたしは信じられない思いでその光景を見つめていた。実際にそんなことが起こるなんて。あり得ない。絶対にあり得ない。本当にそれは奇跡みたいな射だったのだ。

 香坂先輩は明らかに動揺していた。まだまだ素人のわたしでも解るくらい、射の形が崩れていた。

 そして、今日初めて。

 先輩は的を外してしまった。

 ……わたしは自分の胸に手を当てながら。息をするのも忘れて。その光景を見つめていた。傾き始めた西日が矢道を明るく照らしていた。芝生の緑、少しずつオレンジ色にグラデーションしていく空の青、真っ黒な紫優ちゃんの姿、そして、蒼白になった香坂先輩の横顔。

 わたしは一生この光景を忘れない。

 忘れられるはずがなかった。

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