第13話 心音

桃香は冴からの返信を目にして、携帯をテーブルに置き、茫然と天井を仰ぎ見た。吊り下がっている電球が揺らいで見える。桃香は、自分でもはっきりわかるほどに動揺していた。どくん、どくんと脈打つ心臓。他人の物とはっきり意識してしまってからは、それが異物のように感じておそろしい。それに、憂里の心臓で自分の体が動いているだなんて、花市場の人たちはどう思うのだろうか。色んな不安、懸念が桃香の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。


明美には「移植元がバイトの先輩かもしれない」なんて、どう伝えたらいいのかわからないので、桃香はここ15分ほど黙りこくって、明美の言葉にうなづくだけになってしまっていた。そんな桃香を目にして自分の責任だと思ってか、明美は先ほどの追及するような態度から一転して焦り始める。


「ごめん、私……桃香が私の知らないとこで変わっちゃったんじゃないか……っていうか‥‥…看護師さん……若林さんとどういう関係なんだろ、とか、彼氏ができたんじゃないか、とか心配だっただけで……そのっ……まさかそんなことだとは思ってなくて……」


悲壮感すら漂う明美の様子に、桃香はせめて安心させなければと思い直し、ぐちゃぐちゃにかき乱れた思考を一旦止めて、口を開く。


「大丈夫、どうせいつか気付くことだったから。それがちょっと速まっただけだよ。むしろ気付かず生活してく方が怖いから、感謝してる」


自分のことを頭が悪いとは認識していないが、人並み以上に鈍感な自覚はあった。実際言われるまで何の違和感も持っていなかったわけで、明美の指摘はむしろありがたかったと言える。もちろん自分の体の一部に異物感が発生したというのは、かなり苦痛と恐怖を生じるものではあるが。


「でも、誰かもわからない人のものが体の中にあるって、怖いよね……。それで、その人の影響が出ちゃうのも……。ごめんね、ごめんね」


はっと、気付いた。明美の言う通り、この心臓が「誰かもわからない人のもの」だから、恐怖を感じてしまうのだ。自分は憂里という人間について、ほとんどなにも知らない。知らないという恐怖から、憂里の影響が自分に及ぶことを怯えてしまうのだ。もし、この心臓が祖父のものであったなら、むしろ親しみの情だけがあるはずじゃないか。よく知っていて、好感を持てる相手なら、きっと怖くなんかない。


恐怖と動揺という真っ暗な部屋の中に、一筋光が差したように感じた。それなら、光源に向かって歩いてみるのも悪くない。

「わたし、移植元の人について調べてみる。ちょっと心当たりがあってさ、きっと悪い人じゃないと思うから。それがわかったらきっと元気になれると思う。だからもう、心配とかしなくて大丈夫」


そう言って、テーブルに向かってうつむいてしまった明美の頭を撫でる。明美は急に触られて驚いたのか体をぴくりと震わせ、桃香は悪いことをしたなと自戒した。明美は桃香の言葉にうん、うん、とただうなづいていたが、しばらくして泣きはらして真っ赤になった顔を上げた。

「できることがあったら、私も手伝うからね」

「ありがとう……じゃあ、今まで通り笑ってわたしと話してくれる? それだけでわたし、だいぶ救われるから」

明美は「わかった……」と言ってぽろぽろと泣き出してしまったので、桃香は焦って慰めようとしたが、すると明美は「大丈夫、大丈夫」とだけ言って、泣いた顔で笑顔を作った。



店を出てみれば、既に陽は傾いて、街はオレンジに染まろうとしていた。今日のところはお開きにしようか、と別れて帰路につこうとしたとき、明美が桃香を呼び止める。

「……今日もバイト先で泊まるの? ストーカーで危ないのなら、私の部屋じゃダメ?」


明美の部屋は桃香と同じ階にある。それもあってお互いによく行き来するし、泊まったことも何度かあった。だが、だからといって、明美を危険に晒したくはないし、返り血の血族が相手では女子大生が二人いたところで意味がない。


「ううん、バイト先は防犯設備もしっかりしてるから。それにバイトの先輩、喧嘩が強くて頼りになる人だし。……ダメ人間だけど」


すると明美は、「……そっか」と言ってつま先でくるっとターンして後ろを向く。

「気をつけてね。桃香になにかあったら、その先輩、ぜったい許さないから!」

冗談めかした口調だったけれど、夕陽を帯びた明美の背中はなんだか寂しさを纏っていた。


――――事件が解決したら、また一緒に遊べるから。


待っててね、と心の中で唱えた。この子のためにも、ぜったいに事件を終わらせないといけない、そう強く決意して帰路についた。


安全のためになるべく早く帰らなければいけないと思い、走る。



「……? 牛久保さん?」

聞き覚えのある声に呼び止められ、足を止める。見ると、若く身なりの綺麗な男……、忘れるはずもない、看護師の若林だった。

「若林さん! さっきは変なメッセージしてすみません。でも、すごく助かりました」

「いやいや、ぜんぜん大丈夫だよ。元気そうでよかった、あんなメッセージ送ってくるから、なにか変なことが起きたのかと思ったんだよ」


心当たりしかないので、あはは、と苦笑して誤魔化すしかなかった。


「でも、あんまり走るのはよくないよ。手術してすぐなんだから、心臓に負担をかけちゃダメだ」

「すみません……気をつけます」

真剣な顔の忠告だった。確かに、体の調子がいいのをいいことに、退院後なのに無茶しかしていない。

「ま、退院して好きに動けて楽しいのはわかるけどね。俺だってきっとそうなっちゃうし。……それより、急いでたみたいだけど、行かなくて大丈夫なの?」


「そういえばそうでした……!」と言って、別れを告げてまた走り出そうとしたところで、あることを思い出し、足を止める。そういえば、憂里の部屋には看護の本があった。同じ看護師だし、もしかしたら知り合いかもしれない。


「若林さん、憂里さんってご存知ですか?」

「ん? 姫島さんのことかな? うちの病院の同僚人の名前がそうだったね」

「ほんとですか! どんな人でした?」


早くも得られた情報に、思いっきり食いつく。情報源が限られている以上、なんでも聞いていくしかない。


「ものすごく仕事ができる子だったよ。しかも患者さんに寄り添える、明るくて愛想のいい子だったから、患者さんにも同僚の皆にも好かれてたね。患者さんとか年上の看護師さんには憂里ちゃん、憂里ちゃん、って呼ばれて可愛がられてた。……まあ、1年ぐらい前に辞めちゃったけど」

「その後は……?」

「同僚の誰も会ったことも、街で見かけたこともないって言ってたんだけど……。ああ、ごめん。ここから先は守秘義務があるからさ」


口ぶりと暗い表情から、死んだのだろうとわかった。心臓移植だから、脳死状態で病院に運ばれてきたのだろう。そしておそらく、その後桃香に臓器提供された。


憂里の人格については、若林の顔に見える陰からも、みんなに好かれた良い人だったのだろう。花市場の中で唯一の話の通じる常識人。そんな姿が想像できる。


少しだけ憂里のことが見えてきた気がして、桃香は若林に礼を言って別れた。



そして花市場への帰り道。陽はもうとっくに地平に吸い込まれてしまったけれど、夏がゆえにまだあたりは明るくて、空は紫色に澄んでいる。そんな中、街を東西に分ける三ツ角川、それに架かる長い沈下橋を渡っていた。川の両岸はどちらも畑が広がっていて、誰もいない。花市場から駅前までで唯一の、人通りの少ない地点だった。


橋の中腹まできたあたりで、大きな黄色い傘が放置されていることに気付く。忘れ物だろうか、と近づいてみると、青いワンピースの少女が、傘に身を隠すようにして座り、釣りをしていた。年の頃は小学校低学年、髪も肌も色素が薄く白か灰色といったところ、体は心配になるくらい細くて、とにかく儚く庇護欲をそそる容姿だった。


「どうしたの? こんなところでひとりでいると危ないよ。もう遅いから帰ったほうがいいんじゃないかな」


すると少女は甲高い哄笑をあげ、腹を抱えて細い橋でのたうちまわった。少女の体から出たものとは思えない、ひどく残酷で老獪な女の声だった。


「危ない? 危ない? このわたくしに危ないと? なんてつまらない冗談でしょう! あるいは滑稽な親切心ですか! ご好意ありがとう、、お嬢さん!」


耳に突き刺さるような高音で喚き散らされのは、少女が口にするとは思えないような皮肉に満ちた言葉。


「それって……どういう……」


「どうもこうも! この地を覆う鬼神の血霧、それが何処から発生しているのか、ご存知ないなら教えてさしあげましょう! ですよ! 鬼神が一度死したときに真っ赤に染まったというこの川こそが、夜霧の発生元! ゆえに! ゆえにゆえにゆえにゆえに! 最も早く霧が出るのもこの場所なのです!」


恐ろしい言葉にあたりを見回すと、昨日ほどではないにしろ、川の両岸が見えない程度には既に霧が出始めていて、ぞっとする。背骨に鉛を流し込まれたような感覚。


急がないと、と走り出そうとしたとき、桃香は二つの事実に気づいた。

ひとつは、少女の姿がはじめから存在していなかったかのように消え去って、傘も釣竿も残されてはいなかったということ。


……もうひとつは、川の両岸、霧の向こうから、微かに犬の唸るような声が聞こえてきた、ということ。

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