意思




 新しい白いシャツに袖を通す。しゅるっ……という音が耳に心地良かった。

 着心地は軽く、感触もごわついたところがない。



 こんな品物を惜しげも無く『ラオインを大切にしたいから』贈るのだと、あの少女は――ルリは、真っ直ぐに見つめながら言っていた。

 あまりにも、深くて、純粋な思い。


 小さくため息をつき、首を振る。

 あれは、あのお嬢様は、ただ寂しいだけなのだ。

 ラオインが、ここで自分を除けば唯一の人間だから親切にしているだけ。


 そうでなければ――




 ぎゅ、と空の手を握りしめる。

 どのぐらい剣を握っていないのだろう。もうすっかりなまってしまったに違いない。

 いつもごつごつとしていた己の手のひらなのに、今では妙に頼りなかった。

 けれども、手に刻まれた――そして体中に刻まれた古傷は消えていない。


 あんなたおやかな少女がこんな傷だらけの男を、好き好んで相手するわけがなかろう。




 もう一度ため息をついてから、シャツのボタンを留めてしまう。

 相変わらず右足は自由にならないが、着替えは問題なく一人で出来る。


 ……大丈夫だ。右足だって、こうしてズボンをはいてしまえば傷は見えないのだから。大丈夫だ、何も、問題など、ない。





 着替え終わって、懐中時計を見る。時計の読み方にもかなり慣れてきた。今は、八時十五分。普段ならこのぐらいにはもうルリは訪れていて、いつも一緒に朝食を摂るのだが、遅い。

 これは、何かあったのだろうか。


 思わず、ラオインはこの部屋の扉を見つめてしまう。


 その時、響いたのは扉を敲く音が数回と、小さくではあるがルリの声。

「ラオイン、入って良いでしょうか?」

「……っ……あ、あぁ。大丈夫だ」




 入室してきたルリは、召使い人形を二体連れていた。


 一体はいつも通り朝食を運んできたモルガシュヴェリエ。それは、いい。

 もう一体の、メイド人形アクアシェリナが運んできたもの。それは……大きな車輪のついた椅子。ラオインも見たことがある、これは車椅子だ。


 思わず、右拳を握りしめてしまう。

 これが運ばれてきたと言うことは、もうこの右足は――


「もう歩けない、のか?」

「……え」

「車椅子があるということは、もうこの右足はこれ以上は動かないんだな」

「あ、あの」

「……動かないんだな」


 ルリはただでさえ大きな目をまんまるくしていたが、ラオインが悲しさに沈んだ声を吐き出すと、慌てたように左右をきょろきょろし始めた。

 テーブルを整えていたモルガシュヴェリエが、人間ならため息をついているのだろう仕草をする。

 それで、彼女ははっとしたような顔になった。

「あ。あの、違うんです、これは、今日はちょっとお部屋の外に出てもらわないと行けないので」

 ふるふると、ぎこちない動きで首を振っている。 

「結構な距離を移動するので、それで、持ってきてもらって」

 それでは足りないと思ったのか、身振り手振りで説明し始めて。

「こんな、ラオインを悲しませるつもりじゃ、なくて……ご、誤解させてしまって、ごめんなさい!!」


 そして、最後にばっ!! と音がしそうな勢いで、彼女は頭を下げた。



 その令嬢らしからぬ一連の動きも、妙に可愛らしく思えてしまい、ラオインはしばらくぼんやりとルリを見つめる。


 だが。

「……こほん」

 アクアシェリナが無表情のまま咳払いの真似事をしたので、ようやくラオインも我に返った。


「その、俺のほうこそ、すまない……!」

「いいえ、元はと言えば私が……」


 すまない、ごめんなさいとお互いに謝りあいを続けているところに、穏やかな声が振ってくる。

「さぁ、お二人とも。誤解が解けたところでご一緒に朝食になさいませ」

「……こちらへどうぞ」

 笑顔のモルガシュヴェリエと表情のアクアシェリナが揃って指し示すテーブルには、今日も完璧に美味しそうな朝食メニューが並ぶ。まだスープは湯気を立てているし、パンはふっくら、サラダは新鮮そうだ。


 それらを見つめて、二人はほんの少しだけ微笑み合ってから席についたのだった。






「部屋の外へ、とのことだったが……屋敷の外なのか?」

「いえ、違います。一応は屋敷の中ですね。かなり移動することになりますが」


 食後の紅茶を待っている間、ラオインは浮かんでいた疑問をルリに投げかける。

「あの……『マザーコンピューター』が、あなたを連れてくるようにとのことでしたので……」


 マザーコンピューター。


 それは、ラオインには奇妙な、耳慣れない響きに感じられた。

 ルリがつけた人形の名前なのだろうか。……そういえば、前にも一度か二度、この名を口にしていたような気もする。


「その『マザーコンピューター』というのはどういう方なんだ?」

「うぅん……そうですね……」


 どこかぼんやりとした瞳で、彼女はちょっと上を見つめた。ほんの少しの間ではあるが、何もない場所をじっと見つめていた。




 そして、ぽつりと呟く。

「言うなれば……この伏籠のお屋敷が存在し続けるために、存続し続けようとする意思。といったところでしょうか」


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