聖書よもやま話

ザビエルさん困った! ~キリスト教が根付きにくい日本~

 ネット上で、面白い記事を発見した。



『ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人』



 ザビエルが、東洋にもキリスト教を広めたい、ってんで日本にやってきた。

(イエスズ会は東洋がどういうところで、どんな精神文化が根付いているか知りもしないで、無謀にも送り込んだ。その話を受けるザビエルもザビエルだが、まぁ元気というか、お熱いというか……)

 でも、日本人の鋭いツッコミに、たじたじになったとか。



●その教えでしか救われないなら、そのありがたい教えを聞かなかった我々の祖先は、今どこでどうしているのか?



●洗礼を受けず死んでしまったご先祖が地獄に落ちているというなら、西洋の神様というのはずいぶん無慈悲だし、無能ではないのか。全能の神というのであれば、私のご先祖様ぐらい救ってくれてもいいではないか?



●もし神様が天地万物を造ったというなら、なぜ神様は悪も一緒に造ったのか?(神様がつくった世界に悪があるのは変じゃないのか?)



 これらの質問攻めに遭ったザビエルは、本国への連絡でこうぼやいている。

『日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと日本の布教は苦労するであろう』

『もう精根尽き果てた。自分の限界を試された』

 ちなみに、宣伝するわけではないが、私のこの書や別著『何だそうか! 悟り発見伝』では、これらのツッコミにちゃんと答えてある。(笑)



 皆さん。この程度のツッコミでうろたえるようなキリスト教の教えが、なぜ世界で二千年もの長きにわたって信じられ続け、誰も疑問や反対を聖書や教会に差し挟むことなく「当たり前」の位置を獲得することができたと思いますか?

 実は、それと同じケースは現代でも起こっている。(まぁ、いつの時代でも起こっている)

 一例を挙げると、ある新興宗教にハマり、お熱になること。

 魅力的なスピリチュアル指導者が現れ、その教えと人柄のとりこになる。



 例えばここに、『真っ暗な闇の中に一筋の光が鮮烈に映っている写真』があるとする。それを見たあなたは、まず何と思うだろうか。

「わぁ、キレイな光!」と思うかもしれない。

 言葉に個人差があるだろうが、光に注目するはずだ。

 この画像を見て、「うわ、闇ばかりですねぇ」と言う人はかなりレアであろう。しかし、それは正確である。写真の8割は闇である、光は、2割もないくらいである。

 でも、いくらその通りでも、人間の認識システムは闇に注目しにくい。

 たった少しなのに、光のほうをより注目してしまい、闇の存在など大して意識しない。それが、人間のさがである。



 たとえば、あなたは出会ったスピリチュアル指導者のある一言に雷に打たれたように感動し、あなたの内側で何らかの内的変革が起こったとする。

 その指導者の講演会や著書のおかげで物事の捉え方、世界観が変わったとする。

 そして、現実に良い変化まで起きたなら、もうノックアウトである。(笑)

 あなたは、その指導者にぞっこんになる。

 指導者のブログのコメント欄には、常に応援するコメを書き続ける。ちょっとでもその指導者を良く言わない輩がいたら、ムッとする。

 援護射撃もしたくなる。極端な場合は、自ら攻撃に転じる。その指導者の言うことは、鵜呑み状態。

 何でも「そうですよね! うんうん」という反応になる。

 仮に、その指導者の言うことで良く分からない部分、本当にそうかしら? と思う部分は「いや、まだまだ未熟な私に理解力がないだけなんだ」と、あくまでも先生は間違わない、というスタンスを貫く。

 なぜ?

 それは、一筋の強烈な光のゆえである。

 ある部分で救われた。よい変化をいただいた。その一点があるから、他が闇でもその光だけを見つめていられる。その指導者が多少おかしなことを言っても、それも「あばたもえくぼ」で聞き流せる。ファンからしたら、その指導者の明らかにおかしいところを聞き流せない一般層の反論が信じられないのである。



 キリスト教もまた、そう。

 イエスという人物が、人生の最後に見せた愛が、すごすぎた。

 人々は、そのあっぱれさを、強烈な光を目にした。

 イエスにじかに会ったことのない人物にでさえ、イエスの生涯の話を聞くだけで心打たれるには十分だった。すごすぎる話なもんで。

 自分と比較すればなおさら、イエスの偉大さが分かる。それにつけても、自身のエゴの強さよ……ということになる。私って、ダメだわぁ。イエス様のような愛を持てるように、頑張ろう——。

 こうして、キリスト信者の出来上がり。

 いったんそのレールに乗ると、冷静に考えれば膨大に存在する聖書の中の矛盾、キリスト教がもつ構造的欺瞞は、先ほどの画像でいう闇の部分として、大して気にもされない。それどころか、時として闇の部分を指摘してくる者に対し「神の敵」「悪魔(サタン)の仕業」という話にまでなってしまう。

 だって、光だけを見つめているんだから。



 イエスの愛というその光だけを見つめながら、西洋社会は突っ走ってきた。

 教皇が絶対の中世暗黒時代も生んだ。十字軍というバカもやった。

 キリスト教を巡って、無数の悲劇が起きた。沢山の血が流された。

 でも、皆その闇を見るよりも、光を見続けた。

 だって、もったいないから。

 今まで多大な犠牲を払って大事にし続けてきたものに問題があるなんて今更認めたら、すべてが水の泡になるような気がして、勿体ない。

 いい加減、イエスと後に勝手にできたキリスト教とは関係がない、ということを認めたらどうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る