Episode02 少女は迷い込むⅥ

「……っはあああああああ」

 長い吐息とともに悠慧は後ろへ倒れていて尻餅をつく。水分が蒸発しきって、高熱を帯びる枯葉を気にもかけなかった。

「やっと行きやがったか」

 目を閉じて顔を伏せた。

 さっきまでの嫌な感覚はただ今きれいさっぱり消失していった。悠慧の直感は危険を予測することなのだから、これで感知できなくなれば、しばらくは安全だということだ。

 悠慧は無造作に刀を振り払い、その上についている血液や泥水は平滑な刃から容易に離れていき、どこかへ飛んでいった。

 続いて刀を背後へ持っていき、背中の鞘に収めようとすると、鞘はまるでその動きを探知したかのように、刀がスムーズに入れるまでの広さに拡張した。すらりと刀が滑り込むとまた元の形に収束する。

「悠慧……大丈夫?」

 すぐ頭の横から心配そうな声が届く。

「ああ、多分しばらくは死にはしない、はず……だから死ぬ前にせめて薬を塗りたい」

 悠慧が人を斬った凶器を一般人に見つからないようにソフトケースに収納したあと、天音は彼を支えようと手を見た瞬間に「えっ」と声が微かに漏れた。

「腕ぼろぼろじゃない! 早く手当てしなきゃ!」

 烈火の暴虐の下で焼け爛れた手を見てしまった天音は泣きそうな顔つきで手を震わせながら悲惨な声を上げた。

「ああ、タクシーを頼むわ。この手じゃポケットに入れれそうにないからな……でもその前に天谷に適当な理由でメールを、俺が転んで骨折したとか、木にぶち当たって顔面が弾けたとか、スタンド使いに会ったとか、ブラックハンドにやられたとか」

「うん、分かった」

 最後の変な二個を除いてでも、残りの選択肢はコメディーでしかありえない。それ以外の理由を選ぶとなれば、イノシシと出くわしてしまうから止められたというのは確かにいいかもしれない。

 天谷のメールのあとにアプリケーションでタクシーを呼んだ。

「じゃ、早く行こう」

 顔を顰めて悠慧を立ち上がらせようといろいろな支え方を考えるが、悠慧が傷だらけで手も足も出なかった。

「いい、いいよ。俺一人で行けるから」

 天音の好意を断って、緩慢に立ち直す。

「じゃっ」

 来る時はまだ過剰なくらい心身健康なのに、帰宅時はもう火事現場から這い出た黒炭になってしまっていることに、悠慧は自然に顔の筋肉を痙攣させた。

 重い足取りで歩きながら頭を左右に動かして、何か疑問があるように問う。

「あれ、この道だったっけか?」

「いいえ、今ナビでの最短距離を歩いてるんだけど……もしかしていけなかった?」

 慌ただしく振り向かれると、悠慧は頭を横に振った。

「いや、大丈夫。ていうかこっちの方が好都合だ」

 手をぶら下がりながらさらに前へ進むと、一つだけぽつんと際経つものが見える。

 真っ白な塊が茶色と濃緑色が混ぜ合ってできている森の中を据える異状を作り出したのだ。

 ひょっとして、捨てられた死体なのか!? もしくはさっきのハゲか?

 ドキッと鼓動を早まった悠慧だったが、すぐにその緊張感が鎮めた。

 危険を感じ取れていないことに加え、例えあれが僧侶だとしても敵意を持ってないわけだ。

 もう少し近づくとそれの正体がやっと分かった。僧侶どころか、それとは全く違うただの小さい白い物体だった。

「ねぇえ、悠慧?」

「はい」

「あれは何でしょうか」

 今し発見した天音に肩をすくめて見せた。

「さあ、運が悪けりゃ誰かの死体かもしれないけど、見ておくか」

「うん……」

 その白い物体の前に着いた二人は満面の疑問符でそれを眺めていた。

「なんだろう」

 泥まみれの布団が白い物体の正体だった。酷く汚れているとは言え、泥の付いていない箇所は眩しいほど潔白で、新品のようにも見える。

 二人はまるで合図をするように見つめ合ってから、天音の方から布団を手で除けた。

 そして、二人は言葉を失った。

「おい……マジかよ」

 先に話を切り出したのは悠慧だった。感嘆しているも、多分目の前のものは自分の中にあるいやらしい何かが生んだ錯覚ではないことに気づき、次の一手を頭に巡らせていた。

 こともあろうに、布団の中に隠れていたのは一人の小さな女の子だった。

 年齢は十歳ぐらいだろう。瞼はきつく閉じていて、青ざめている顔が無力に伏せている。

「マンガじゃあるまいし……じゃなくて、呼吸はまだある。低体温になってると思う」

 急いでしゃがんで女の子を抱き上げようと両手を伸ばす途端、両手の傷が目に映す。

「ええい! 構ってらんねぇ」と罵るように言い捨て、手を突き出す。

「いってえええええっ!」

 凄まじい咆哮が天音の鼓膜に打ち付け、彼女は思わず目をピクっとした。

 腕が布に触れると火に焚かれたような猛烈な痛みが悠慧の精神に突き刺す。まだまだ続く叫びを喉の奥に押し殺して猛然と立ち上がる。

「そんなやめて、私がやるから」

 痛心そうに手を貸そうとするが、あっさり断られた。

「いいっ……てぇ、いいから、走れ! こいつが死ぬ前に」

 幼い女の子の不安定な呼吸音に影響されて、込み上げてきた不安で眉間に皺を寄せながら悠慧は駆け出した。

「この道をまっすぐだよね」

「あっ、はい」

 何分かが経過して、茂る木立の向こうにアスファルト道路がちらほら見えてきた。

「……ぅ」

「……はぁ」

 森から脱出してようやく、二人にまだ現実に生きている、という感覚が甦った。

 ぎりぎり青色が見える灰色と白色の空、広がる畑、冬を生き抜いた道路沿いの草、揺るぎないアスファルトの道路、すぐ目の前の小さな駅。

 すべても来たときの記憶と変わらない。だが、それらでさえ今の少年と少女の目に、おぞましい未視感によって違うもののように映っているのではないだろうか?

「あとどれくらいかかる?」

「ええと……いま、着いたよ」

 駅の前にやってきた一台の電気自動車はそっと前進を止め、自動ドアを開けた。

「357番ですか」と、運転席に座る三十台前後の男は乗り込んだ悠慧たちに問う。

「はい、神奈川量子力学研究所へ、お願いします」

「かしこまりました、出しますよ」

 目的地を設定し終わり、ブレーキを離した電気自動車は勝手にモーターを回し、平穏に走り出す。

 ほとんどの公共交通機関とタクシーがレベル4の自動運転の搭載している今では、運転手の仕事は非常に楽になった。状況が複雑の場合やレーザーレーダーが利きにくい場所を除いて、ほぼ運転しなくとも車は自動的に目的地へ向かっていく。そのため、運転手の教養も玉石混淆になりそうなところだ。

「兄さん、大丈夫ですか? なんかぼろぼろじゃないですか」

 いきなり話をかけてくる運転手に、悠慧はどう返答すればいいかに困った。幸い、彼が座っているのは運転手の真後ろだ。

「……」

 天音は視界の端で、顔をガラスの方に向いている悠慧を確認し、ゆっくり口を開いた。

「実はクラスのみんなでキャンプの準備をしてたんですけれど、悠慧くんがうっかりして、それで……ごめんなさい、車を汚してしまって」

 ルームミラーを通して、四角いメガネをかけている運転手の表情を確かめることができる。にっこりとしていても、真剣に前を見ている顔だ。この運転が高度に自動化された時代では珍しい心構えだ。

「あっ、いえいえ、問題ないですよ」

 頑張って笑顔を作り出している天音と運転手の間に妙な空気が漂っているのを悠慧は感じ取った。これは話がまだまだ続く空気だ。

「もしよかったら運転手さんも来てみますか?」

 なるべく手に持っているものを人間であることに認識させないように真ん丸にして抱える悠慧は、唐突にそんな出鱈目な誘いを申し出した。目的は一つだけ、この話を終わらせることだ。

 この一句は暴力的で、非常識だが、懸念を断ち切るのに十分すぎた。

「大変嬉しい申し出ですが、やめておきますよ。ははぁ。クラスメイト同士のキャンプに僕が行ったらしらけちゃうじゃないですか」

「俺のせいですでにしらけてしまったんですけどね」

 ——もし本当のことだったら、ね……

 タクシー運転手として乗客を退屈させないように会話を続けるが、しばらくは脅威になりうる話題を振られることはなかった。

 それでも悠慧は一言半句も発そうとしなかった。

 人との付き合いはできるだけ遠退いていくつもりだ。

 どうせ俺は嫌われてしまうし。でもこいつは何なんだ?

 悠慧は目を細めて横に座っている人に視線を向ける。タクシーの量が特に多い神奈川県という首都圏の都市で、これから一生をかけても会えるかどうかの人とどうしてこの少女は微笑みで他愛のない話ができるのだろう。彼女も知っているはずだ、ここでの対話は相手にも彼女自身にも覚えられることはないことを。

 なんでだ? なんでこんなシチュエーションで人と無駄な関わりを持とうとするんだ? 互いに不快を招かないほどの礼儀作法さえできれば何者にも責められる余地がないのにな……

「あの、もしかして量子力学研究所で働いてるんですか?」

 天音たちの会話は再び悠慧の注意を引き戻した。天音が何かを漏らしてしまうということに恐れているわけではない。彼女は大切なことを何気なく言ってしまうような人ではない。だが、やはり気になる。

「いいえ、違いますよ。知人がそこで働いてるのでいつもそちらへ行ってます」

 悠慧は密かに笑う。確かに言っていることは嘘ではない。

「あそこ、なんか凄いことやってるって聞いたことあるんですよ。何をやってるか知ってますか……あっ、もしまずかったすみません」

「詳しくは私も……」

「そうかそうか……僕もこんな人々の役に立つ仕事をしたか……」

 運転手のつぶやき声は後半になると次第に小さくなっていき、完全に聞こえなくなるまで。

 自嘲するように悠慧は窓ガラスに映る顔の笑みを見つめる。

 誰が知ることができるのだろうか。研究施設の中に行われている大半の活動は国際連合に隷属する兵士の訓練であり、研究などはただの表看板であることを。

 しかし、人類が行われてきたどの活動も本当の目的をさらけ出していると、誰が言えるのか?

 ほぼ毎日のように見ている景色を通って、タクシーは大きな黒い大理石に嵌められている金属板で作られた「国立神奈川量子力学研究開発機構」の表札の前にゆっくり停止した。

「はい、着きましたよ」

 運転手はぽちっとボタンを押すと、タクシーメーターに料金が表示され、ドアも開かれた。

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 二人は言ってすぐ車から飛び出した。

 それを見送った運転手も何事もないように車を出してどこかへ行ってしまった。

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