Donuts ~君のためなら何度でも~

鏡春哉

第一章 失われた記憶

1日常

 見慣れた街。見慣れた風景。見慣れた人通り。街を行く人々は多すぎず、少なすぎず、すれ違ったり追い越していったりする。街道には小洒落た店々が並び、その窓に嵌め込まれた大きな窓には、互いに笑い合っている三人の女子高生が映り込んでいる。

 何も特別なことはない放課後。いつも通りの帰り道。仲の良い友達同士で寄り道をしているだけの、ごくごく一般的に見られる景色の一部。ただそれだけのことであり、彼女たちに向けられる視線などなく、また、彼女たちが向ける視線も、限られた範囲の中にしかない。まさに有象無象に溶け込んだ、日常の一カットだった。それでも、彼女たちはあくまでも彼女たちを中心にして、その可愛らしい顔を綻ばせ、互いに白い歯を見せ合っている。

 それが、彼女たちの日常だから。彼女たちに置かれた座標系における、当たり前の事だから。誰も疑わず、疑おうともせず、否、疑うこともできずに、時間の流れるまま、彼女たちは生きている。生かされている。……何に生かされているのか? そんなものなど知るはずもなく、また、そんなものが存在しないことも知らない。

 ただ、知らないだけ。知らないことを、知らないだけなのだ。


 件の女子高生三人組は、示し合わせたように系列店のカフェへと入って行った。入り口まで続いている列の最後尾へと並び、暇つぶしとしてお喋りに花を咲かせる。レジまで順番が回ってくると、一瞬だけ三人で顔を見合わせ、一人がはにかんだかと思うと、黒く艶やかな髪をツインテールに縛り上げた少女がレジの方へと振り返った。上方向に跳ね上がった髪の先がゆらりと揺れる。店員は張り付けた笑みでマニュアル通りに少女と対応し、慣れた手つきでレジを打つ。少女は店員から釣銭とレシートを貰うと、何を言われずとも右側へと捌けていった。後ろの二人も、ただ注文する内容が違うだけで、まるで工場にて大量生産されているかの如く、同じように対応されて右側へと捌けていく。そこで三人とも注文したスイーツと飲み物を受け取り、空いた席へと移動していった。


 三人は四人掛けのテラス席に落ち着き、街行く人々をよそに、彼女らの世界を作りだす。


「あぁ~、今日の数学マジヤバかったんだけどぉ」


 ツインテールの少女が、白いテーブルの表面に右頬を押し付けていると、彼女の隣に座っている長髪の少女が、苦笑交じりに「うーん、そうかな?」と相槌を打った。


「いや、だってさ、えのっちゃん、いつも日付で当ててくるじゃん? なのに今日は全然ランダムだったし。なんか、厄日過ぎるんだけど!」


「あー、言われてみれば、確かにねー。加絵ちゃんって、何番だっけ?」


「25ばーん。ね、おかしいでしょ?」


「うん、今日は14日なのにおかしいね。なんでだろー」


 二人の少女が会話を弾ませている横で、ボブカットの銀髪少女が、コトリとカップを置いた。カップの中から、飲みかけの甘い甘いホットコーヒーが一筋の湯気をくゆらせている。


「今日が11月14日だからじゃない?」


 一言、銀髪の少女が紡ぐと、彼女は一斉に二人の視線を獲得した。加絵と呼ばれたツインテールの少女が、興味深げに次の言葉を待つ。


「11と14、足したら25」


 たったそれだけで、二人は納得したように破顔した。


「あ~、そういうことかぁ」


「今日は変化球で来たってことだねー」


「いやいや、変化球とか要らないから。普通でいいから!」


 そう言って、三人は笑い合う。テーブルの中央には、三人分のドーナツの載った白い平皿が置かれており、それを取り囲むようにして、一つのティーカップと二つのコーヒーカップが並んでいる。中身はそれぞれ、ダージリン、ブラックコーヒー、そしてホイップクリームがふんだんに乗せられ、砂糖もこれでもかというほどにくべられたホットコーヒーで満たされている。長髪の少女が紅茶に口を付けつつ、遠慮がちに笑みを浮かべた。


「っていうかさぁ、なんか、結構寒くなってきた感じしない?」


「あー、もう11月だもんね。冬間近っていうか……」


「そろそろカーディガンだけじゃ足りない感じ?」


「コートでも見に行く?」


 銀髪少女の呟きに、加絵が即座に真顔で反応する。


「アルマ氏、もう、ほんっとうに最高! 週末、みんなで出かけようよ」


「いいね、行こう」


 長髪の少女が笑みを浮かべて返事をし、アルマと呼ばれた銀髪の少女も、当然のように頷いた。加絵が満足げに手帳へ予定を書き入れたところで会話は一旦途切れ、各々暖かい飲み物で喉を潤した。アルマは銀色のコーヒースプーンで、濁ったコーヒーを軽く掻き回す。スプーンの先に付いたクリームを舐め取ると、彼女は往来の有象無象を眺めた。そして、無意識の思考の中で、自分も有象無象の一人だと思った。その中に消えて溶けてしまう、人類の一部、否、人類そのものなのだと思った。

 加絵が中央のドーナツに手を伸ばした時、アルマの意識が三人の世界へと引き戻ってきた。ファンシーな色でコーティングされたそれを、加絵が小さな口で一齧りする。何度か咀嚼すると、恍惚とした表情を浮かべながら唇に付いた汚れを舐め取った。


「うまー。なにこれ、めっちゃしっとりしてんじゃん。初めて食べたけど、正解だったよ、これは」


「え、そんなにおいしいの?」


「うん、おいしい、おいしい。真奈も食べてみ?」


 加絵に触発されて、真奈と呼ばれた長髪の少女もドーナツに手を伸ばす。しかし、チョコ味のオールドファッションドーナツに手が触れるか触れないかのところで、途端に手を止めた。すぐに紙ナプキンを一枚取り、広げたそれにドーナツを挟む形で摘まみ上げる。上品な所作で口に運び、ドーナツを小さく齧る。その瞬間、彼女は声にならない声を上げ、ドーナツを持っていない左手を口元に翳した。


「おいしい!」


 彼女の反応に、自分が作ったわけでもないのに、加絵は「でしょう、でしょう」と、自慢げに呼応する。真奈は一欠けら食べたドーナツを平皿に戻し、時間をかけて口の中のものを飲み込んだ。カップに手を掛け、中の紅茶を喉に流して一息つく。


「アルマ氏は食べないの?」


 加絵は深く頬杖を付き、上目遣いでアルマを見詰める。アルマはカップの底に残ったクリームをかき集めながら「んー」と声を零した。


「飲み終わってから食べる」


「ん、そっか」


 加絵は子供らしい笑みを浮かべ、ドーナツの最後の一欠けらを頬張った。彼女の意識が真奈の方へ向いた時、アルマはコーヒースプーンに乗った最後のクリームを口に運んだ。スプーンを口から引き出した後、その窪みに残った白い筋を舐め取った。カップを傾け、中にもう何もないことを確認すると、用の無くなったスプーンをその中に立て掛けた。紙ナプキンを取り、薄い唇を軽く拭き取る。それでも拭き取れた気のしなかったアルマは、少し出した舌で唇を一嘗めした。


「あ、写真撮るの忘れてた!」


 唐突に叫ぶと共に、加絵は頭を抱える。心配そうにしている真奈をよそに、加絵は「痛恨のミス!」と叫びながら、中央に残っている最後のドーナツを凝視した。次いで、アルマの顔を見上げる。彼女は銀色の髪を揺らしながら、「別にいいよ」と答えた。加絵は「ありがと!」と一言告げるや否や、スカートのポケットから携帯を取り出した。幾らか操作した後、暖色のドーナツに焦点を定める。表面にかけられたベリーソースが薄い光をてらてらと反射している。

 何枚か様々な角度からドーナツを撮った後、加絵は満足したのか、再度礼を言って携帯をポケットの中に仕舞った。ブラックコーヒーに口付け、舌なめずりをする。


「そういやさ、みきぽん、また彼氏できたって言ってなかった?」


「あ、言ってたねー。今年でもう三人目?」


「そうそう、多くない? ってか、逆に破局し過ぎじゃない? リア充って、一体何なのさって思うよね。リアルに充実してるって言うんなら、うちらも立派にリア充だよね」


「友達同士で遊ぶの、楽しいもんね」


「うん、まさにJK生活楽しんでるもんね。恋愛だけが人生じゃないし」


「ほんとにねー」


 加絵と真奈の会話の間に、白く細長い手が割って入ってくる。その手は静かに二人の視線を掻い潜り、テーブル中央にある暖色のドーナツへと伸びていく。それに気付いた真奈も、自分の食べ残していたドーナツを皿から取り上げた。一口齧り、また平皿の上に戻す。アルマは摘まんだドーナツをしげしげと見つめ、停止した。呼吸と鼓動と瞬きだけが、彼女に動きを与えている。他の二人はそんなアルマを気にかけることなく、会話に花を咲かせた。


 ふと、何を思ったのか、アルマはドーナツの外周を右手の親指と人差し指で挟み、ドーナツの穴を覗き込んだ。刹那、何かが割れるような音が脳内に響く。同時に、聞こえていたはずの高い声や喧騒が、気味が悪い程にピタリと止む。


 穴の先では、空席だったはずの席に、見知らぬ男が薄い笑みを浮かべながら座っていた。

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