橋姫影物語

相羽裕司

第一節「もう一人の私」

「この世界に何があったのかを、私は知りたい」


 び付いたロッカーに背中を預けて、ここではない何処かに意識が遊離していくのに任せて虚空へと視線を投げる。


 私が宙に発した言葉は、生徒会室の隅で文庫本に傾注していた少女には捉え損ねられて、そのまま窓から空へと消えた。


 切目の美少女が本の頁をめくる指を止めると、外から吹き込んだ風で艶やかな黒髪が優しく揺れた。


碑文ひぶん? こと、昔のことに興味があるの?」


 七宮しちみやしおりが、薄く日焼けした紙に綴られた文字を追いながら、一度は彼女を素通りした私――大城おおしろことの言葉の真意を確かめ直すように鈴の声を鳴らす。


 1996年。5月。


 新緑が眩しい頃の宮城県は仙台市の郊外。とある山を切り開いた住宅地に位置する中学校の生徒会室に、私と栞だけがいる。


「忘れてしまっている、『強さ』のようなものが見つかる気がして」


 私は、この山。杜の都の周縁からは少し遠出になるけれど、広瀬川ひろせがわの広瀬橋の近くにある碑文を一緒に読みに行こうと栞を誘ったのだ。


 栞が顔を上げて、じっと私の瞳を見つめる。


「やぶさかではないけれど。何だかのんびりした感じ。受験生の休日って、もっと忙しいものという印象があったわ」

「栞は、推薦枠確定じゃない」


 私と栞は中学三年生である。校内から一人選ばれる仙台M山高等学校の推薦の枠に、栞は既に内定していた。


「琴の方は、余裕ということ? ねえ、二女にじょの推薦枠を蹴ったのはどうしてなの?」

「本当に強ければ、推薦じゃなくても合格する」

「バカなの?」

「行くの? 行かないの?」

「行く。興味あるもの。『橋姫はしひめ伝説』でしょ?」

「決まった。じゃあ、日曜日の九時半に校門前で待ち合わせで」


 山から街へ一緒に出るには、学校の前の停留所からバスで向かうのが都合が良かった。


 話がひと段落着いたところで、ドアが開く擦れた音が場に響いた。


 現れたのは、飄々ひょうひょうとした風情の少年。我が生徒会の会長、塩畑しおはた謙吾けんごである。


「何か、入りづらかったぜ」


 その言。私と栞の会話が終わるまで、扉の外で待っていたのか。


「すごい、じっとりとお互いを確かめ合うように話すのな、おまえら」


 謙吾……謙くんは背が、同年代の男子としてはちょっと低めで、本人も気にしているのを知っていたりする。


「言葉をリボンで結び合わせていたの。これが中々、綺麗な結び目にはならなかったりするんだけどね」

「相変わらず、詩的なやつ。二人だけで、がんじがらめにならないように気をつけろよ」


 結び合いたいとは思わないけれど、謙くんの言葉も好き。


 漫画を沢山読んでいるから? 歯切れ良くて、なんかじんわり熱い気持ちで心が震わされたりする。


 謙くんは柔道部で、この二年間あまり放課後は柔剣道場でよく見かける間柄でもある。貸してくれる漫画が面白いのがありがたい人でもある。


「この世界について、謙くんはどう思う?」

「さあな。それ、たぶん早急には分からないやつだな」

「現実的だね」

「分かったら、琴が俺に教えてくれ」


 謙くんは抱えていた書類の束を長机の上に置いて、ホッチキスでとめはじめた。


 無言で、仕事の時間であると私と栞も手伝い始める。


 作業をこなす謙くんの腕は、身長に比してとても太い。


 たぶん彼なりの、「強さ」を求めた結果なのだろう。


 紙の束を整えて、ホッチキスでとめて、積み上げて。また次。繰り返す。回る日々のように、繰り返していく。


 この日は夕暮れまで、三人で淡々と生徒会の雑務をこなして過ごした。


 ◇◇◇


 私の、敗北の経験を少し。


 「強さ」というものに、焦がれたことがあるだろうか。


 それがありさえすれば、全てが解決できるとでもいうような。


 時に激しい情欲に似た何かを胸に湧かせる想念だ。


 私は、中学時代は剣道に打ち込んだ。


 左の小指を使って竹刀の柄を強く握り込む感触と、素振りで空を斬る音と、相手の防具に打ち込んだ後の残心ざんしんの心と体の遊離感と、競技としては愛せるものだった。


 かなりの時間と気持ちを注ぎ込んで練習したけれど、最後の中総体では一回戦負け。私を破った相手も準々決勝で負けた。


 どこかで、「強さ」の追求とは、物理的な闘争の技術の巧拙ではないのではないか? あるいはたとえ、より高次の「強さ」に辿り着けたとして、全てが上手くいくなんてことはないのではないか? 今ではちょっと、じゃあ私はどうすればいいのか。答えが分からないまま、揺れる時間の流れの中で彼女――七宮栞のことだけが気になる日々を過ごしている。


 ◇◇◇


 日曜日。私がバス停に到着すると、栞は薄いブルーのワンピース姿で、既に陽だまりの中に佇んでいた。


 微風に揺れるドレスは、より深いブルーで英語が編み込まれたデザインをしている。


 幻めいた布の鏡にまばゆい言葉を反射させる栞は、絵本の中から、迷い出てきたかのよう。


「あの日……」


 紡ぎかけた言葉を飲み込んで、もう一度自分に確認。


 「あの日」は、本当にあったのか? 私という存在は、何なのか?


 ◇◇◇


 「あの日」、中学校の入学式の日。剣道場で一人竹刀を振っていた私の背後に、栞は現れた。


 私と栞の出会いの日。いえ、再会の日。


 明朗な魂が零れ落ちるように、彼女は息をついて、私の名前を呼んだ。


愛姫あき様」


 振り返った私は、一目で分かった。いや、思い出した。


千影ちかげ……」


 私が彼女を知覚した時、世界が暗転した。


 糸で、数多あまた楼閣ろうかくが編まれている世界に私はいた。


 各楼閣がそれぞれの色彩を宿して輝いている様は、いつか見た夏夜の川に無数に浮かぶ灯籠とうろうの光を連想する。


 一つ一つの楼閣は互いに独立していて、同時に全体の大楼閣と調和している。そのあり様は何だか真実めいている。


 私が「強さ」を求めて竹刀に注力していた、1994年4月の宮城県仙台市という座標が、偽りに過ぎなかったとでもいうように。


 ここは、糸の世界だ。偽りではないのが分かる。偽りの反対であるならば、論理的には、ここが本当の世界なのだろうか。


 ケルト神話の永遠の青春ティル・ナの国・ノーグを語る妖精のため息が、ある東国の成立を記した神話とその異聞を伝えるテクストの重量が、ルイス・キャロルが描いた「不思議の国」を見下ろすふくろうのまなざしが、お互いを否定せず、肯定もせずに存在している。存在同士を編み合う糸が、時に切断され、時に縫合ほうごうされ、巡り合っている。


 線と線の。縁と縁の。断線。混線。


「ここは、神話しんわ縁起えんぎ世界せかいです!」


 千影が私に向かってはにかむ。


 うん。私も、知ってる。


 今までいた世界は誰かのあたまの中にいたに過ぎなくて、今、ようやく「外」に出られたような。


 ここは、蝦夷えみしの魂の果て。あるいは奥州おうしゅう藤原ふじわら氏の理想の残滓。『常世とこよ』へと渡って消えた『想い』が巡り合っている世界。


「たどって、たどって、また姫様と同じ世界へと辿り着けました。1994年4月。ああ、場所は、愛姫様と過ごしていた永町ながまちに近いのですね。ここは、前の世界よりもき場所でありましょうか?」

「少なくとも、飢えないで済む世界だわね」

「それは、よろしきことです」


 ここで、再びの混線。


 気がつくと、何事もなかったように私は剣道場に立っていた。千影――七宮栞の姿もない。


 この日、はじめて気がついた。いや、思い出した。


 私、大城琴は、「橋姫はしひめ」様の生まれ変わりである。

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