美しい人、優しい人 後編

 今から四十年ほど前。

 ミホール氏はアイルランド共和国クレア州のフィークルという村を訪れていた。

 イングランドの大学に進学する予定だったミホール氏は入学前のギャップイヤー※中で、元々旅好きだった彼は思いつく場所を片っ端から訪問していた。

 フィークルは伝統音楽の盛んな土地で、将来は音楽の仕事に就きたいと思っていたミホール氏は愛用のアイリッシュフィドルを片手に村のセッションに参加するのが目的だった。

 (※高校卒業後に進学や就職をせずに、自由に過ごす時間のこと。多くの場合は一年間)


 目的通り村のパブでセッションに参加し、ミホール氏は地元の音楽家たちから大いなる感銘を受けていた。伝統音楽が盛んなアイルランドではプロのミュージシャンとアマチュアの垣根は極めて低く、交流を持った音楽家にはミホール氏が今までレコードでしか聞いたことも無いような人物も含まれていた。「最高の体験だった」と彼は語った。

 元は村のB&Bに泊まるつもりだったが、生来の人好きする性質のおかげで村人の家に泊めてもらうことになり、結局そのまま村に三泊することになった。


 村で過ごす三日目。


 その日、早朝は霧がかかっていたが昼前には晴れ渡っていた。

 アイルランドの短い夏の最高の気候だった。

 ミホール氏は意気揚々とサイクリングに出かけ、全身で夏の気持ちいい風を受けていた。

 村人から進められての行動だったが、素直にアドバイスを受けて良かったとミホール氏は思った。


 心地よい風と麗らかな日差し。

 最高の一日だった。


 どれほどペダルを漕いでいただろうか。


 ふと頬に冷たいものを感じた。


 雨だった。


 晴れ渡った空から雨が降ってきたのだった。


 ミホール氏はその不思議な光景に一度足を止め、あたりを見渡した。


 森に小道があった。

 ミホール氏はそこに吸い寄せられるように入っていった。


 森の小道には新緑が広がっていた。

 そのまま小道を何かに導かれるように進んでいくと、先が開けていた。


 その先は丘だった。


 丘の上は開けていてシャムロックが一面に広がっていた。

 相変わらず晴れた空と雨が同居する不思議な天候だったが「言語が及ばない程美しい光景」と感じた。


 丘の開けた先を進んでいくと、低い木が生えていて、その根本に人が居た。

 その時、ミホール氏の時間は止まった。


「美しい」


 風になびくブロンドの髪、神秘的な赤い眼、反対側まで見えそうな白い肌。

 一流の彫刻家が掘りあげたような造形の整った顔。

 均整の取れた肢体を包むシンプルな白いドレス。

 すべてが完ぺきだった。


 夏の高い太陽が白い肢体を照らし、照らされた体に細い雨が反射する。

 そんな何でもない物理現象が世俗を超えた神秘に思えた。

 まるでここがアイルランドのフィークル村ではなく、七つの城壁の向こうにあると言われる影の国であるかのようにも。 


 そして僥倖なことに、彼女の物憂げな赤い瞳がミホール氏の方を向いた。

 それは一瞬の事だった。


 一瞬の視線の邂逅の後、彼女の姿は白昼夢のように昼の光に溶けて消えた。

 降り続いていた天気雨も止んでいた。


  〇


 ミホール氏が恍惚に満ちた語りを終えた頃。

 供されたアイスティーの氷はほぼ解けて、アイスティーjは出涸らしとさして変わらない薄い液体になり果てていた。


「彼女を忘れたことは今の今まで一度もない」


 ミホール氏の視線はどこか遠くを見ていた。


「実のところ、結婚しかけたことはあったんだ。実に馬鹿らしいことだが、どうしても彼女の姿が離れなくてね。そう、うん。私は彼女の幻影に今も囚われているんだ」


 千鶴さんと私はミホール氏の視線の先を追った。

 その「彼女」がすぐそばに居ると知ったら彼はどう思うのだろうか。


 何にしても、もうここに居るべきではない。


「長居してすいません。そろそろお暇します」


 私は立ち上がった。

 千鶴さんも同じことを考えていたようだ。

 立ち上がるタイミングがほぼ同じだった。


「ああ、そうかい。残念だな。長話に付き合ってくれてありがとう」


 ミホール氏は心底残念そうだった。

 きっと嘘と無縁の人生だったのだろう。


 立ち去る前に千鶴さんがお願いをした。


「もう少し庭を見ていっても構いませんか?」


 彼はにっこり笑って答えた。


「あの庭を気に入ってくれたんだね。ありがとう。好きなだけ見て行ってくれ。

少しうるさいかもしれないが、私も弾いていいかな?日課でね」


 彼はヴァイオリンのようなものを取り出した。

 千鶴さん曰く、ヴァイオリンではなくアイリッシュ・フィドルという似て非なる楽器らしい。


「ではごゆっくり」


 ミホール氏は長い指でゆっくりとボウイングを始めた。

 その人柄を表すような素朴な音色だった。


  〇


「天気雨は魔の刻だ。日本では狐の嫁入り、ポーランドでは魔女がバターを作っている時、ウクライナでは悪魔の婚礼と言われている。ミホール氏と美しいお隣さんは一時的な魔力の高まりで瞬間的に波長が合ったんだ」


 私と千鶴さんは再び、我々を呼んだ妖精と相対していた。

 魔術に疎い私にも納得できるよう咀嚼して話してくれているのだろう。 


「フィークルにはビディ・アーリーの小屋がある。現代ではハーブ療法士として知られているけど、十九世紀当時は魔女として知られた人物だ。君、彼女の残した魔力で土地に縛られていたんだろう?」


 美しい彼女はゆっくりと口を開いた。


「ええ。貴女なら知っていると思うけど、リャナンシーは男性に憑りついて『吸い取る』ことでしか生きていけない」


 家の方からセンチメンタルなメロディが素朴な弦の音色に載って聞こえてくる。

 千鶴さんによると「柳の庭のほとりで」という有名な伝統曲らしい。


「あの土地から離れるには通りかかった誰かに憑りつくしかない。困っていた時に通りかかったのがミホールだった」


 その美しい横顔が優しい表情になった。


「冴えない人だと思ったわ。髪はボサボサだし、オシャレじゃないしやせっぽちだし。芸術の才能の平凡だし。他に手も無かったから仕方なくね。

でも……目が合ったとき思ったの。『何て優しい目をしてるんだろう』って」


 こうして美しいお隣さんはミホール氏に憑いた。

 リャナンシーは本来、芸術家に憑りつく妖精だ。

 精気を吸い取る代わりに才能を与え、憑りつかれたものは短命と引き換えに才能を手に入れる。アイルランドの詩人が短命なのはリャナンシーに憑りつかれたためと言われている。


 彼女も最初はそうするつもりだった。


 ミホール氏と共にいるうち、リャナンシーにとって彼は生活の一部になっていた。

 朝食のブラックプディングが焼ける匂い、時折家にやってくる教え子や友人たちとの語らい。

 ティータイムの紅茶の香り、庭の土やハーブの芳香、思い立った時に引き始めるフィドルの素朴な音色。


 純朴で優しいミホール氏の人柄は冷血に生まれたはずの妖精の心を溶かしていった。

 彼女はリャナンシーとして習性より「ミホール氏と長く共にありたい」という思いを優先した。

 精気を吸い取り才能を与える等価交換ではなく、土地の魔力を吸って細々と生きる生活を選んだ。


 ミホール氏と目が合ったのはあの一度だけだったが、彼女はそれで十分だった。


 驚きの話だった。

 千鶴さんは私以上に驚いていた。


「君たち妖精は離れようと思えば、憑いた相手から離れることも出来る。

にも拘わらずこの国までついてきたのはひょっとして……」


 妖精は穏やかに笑った。


「あの人、独り身なのよ?私以外誰がついて行くの」


 美しい彼女声には気まぐれではない、確固たる意志の響きがあった。

 

 私は言葉が見つからなかった。

 千鶴さんは――現実主義者の彼女は現実主義者らしい思考を巡らせていた。


「そうか。では、分かっているとは思うけど、私は君に残酷な事実を告げないといけない」


 千鶴さんは、小さく息を吐いた。


「ミホール氏は死にかけてる。長年、君と共に居たせいで彼は常に軽度の魔力的な被爆状態に晒されていたからだ。抵抗力の無いミホール氏の体は限界だ。私の見立てだと一週間先すら怪しい」


 妖精は目を見開いた。


「そう……私のせいだったのね」


 千鶴さんはもう一度小さく息を吐いた。


「多分、ミホール氏はその事実を知っても君を恨みはしないだろう。

――そしてもう一つ残酷な事実がある。

――君は消えかけてる。この土地の魔力があっていないせいだ」


 妖精は寂し気に微笑んだ。


「ええ」


 そよ風に新緑の葉が舞った。


「だから、お願いがあるの」


  〇


 その三日後。

 ミホール氏はこの世を去った。


 体調を著しく崩したミホール氏は朦朧とする意識の中、最後の力で自力で救急車を呼び最寄りの病院に着くや否や息を引き取った。

 私と千鶴さんはミホール氏に連絡先を渡しておいた。

 ミホール氏は我々の事を気に入っていたらしく、手描きの電話帳の中に「新しい友人」として我々の名前を残していた。

 おかげですぐに知ることが出来た。


 私はすぐに彼女の「お願い」に取り掛かった。


「あの人がこの世に存在したことを知って欲しい。ミホールが存在した証を残してほしい」


 酷く曖昧で、それでいて確固とした願い。

 それが美しい彼女の願いだった。


「保証はできないけど出来る限りのことはやってみる」と私は請け合った。


 私の本業はジャーナリストだ。

 オカルトサイトにあることないことを書くのがジャーナリズムと言えるのか私にはわからないが、ほかに適当な表現が見つからないので容赦してほしい。

 私が編集部員を務める「オカルト年代記」はオカルトという限られた分野を取り上げているが、編集長が敏腕ぶりを発揮し、この手のサイトとしては異例の月刊三百万PVを記録している。


 私は編集長から与えられた裁量に任せてミホール氏の家を「妖精の憑いた家」として紹介した。

 妖精が実勢に見える人はごく少数だろうが、嘘はついていないので問題あるまい。


 最初は物好きたちが集まってきただけだった。

 その物好きたちの中に趣味人がいてその人物はミホール氏が丹念に作り上げた庭を気に入った。

 身寄りのないミホール氏の土地と家は放って置けばそのまま国のものになるはずだったが、その趣味人は自身の人脈を生かし庭と家はそのままに別荘の所有者たちをターゲットにカフェ兼アイリッシュパブを開店するという。

 人好きのするミホール氏は、近所のペンションやレストランで自慢のフィドルを披露し親しまれていた。

 近所の人たちも開店準備を自主的に手伝ってくれているらしい。


 そこまで話が進むのに二週間もかからなかった。


 ある程度話が進んだタイミングで私と千鶴さんは再び様子を見に行った。


 新しい所有者は今日は来ていないようだった。

 リフォームの準備が始まっているようだ。

 白漆喰の壁と茅葺屋根のコテージ風の家にはビニールシートがところどころかかっていた。

 ミホール氏にしては幸運なことにここを買い取った趣味人は元ある家を極力そのまま利用するつもりらしい。


 ミホール氏の穏やかで素朴な人柄が形を得たようなこの家と庭を。


 今日も良く晴れている。

 太陽は高く、新緑が眩しい。


 私と千鶴さんは家の前で屈みこみ、亡きこの家の主に手を合わせた。

 アイルランドがカトリック信仰者が多いと聞くが、仏教の寺に生まれた私と神道の家系に生まれた千鶴さんが祈って問題ないだろうか。

 いや、ミホール氏はそんなことは気にしないだろう。


「ありがとう」


 そよ風にのって声が聞こえた。

 彼女だった。


「まだ居たんだね」


 彼女の姿は――見た目には前と変わりなかったが大きく違っていた。

 存在感がひどく曖昧になっていた。


「消える最後のやせ我慢なのよ。もう一度あなたたちが来るまではどうしてもと思って。――そんな顔しないでよ」


 自分がどんな表情をしていたかわからない。


「……最後にね、また目が合ったの」


 ささやかな奇跡が起きていた。


「息も絶え絶えだったあの人がふとこっちを見て……私を見て。

目が合って、あの人、――『ああ、君だったんだね』って……。

――『ありがとう』って……。それが最後の言葉」


 彼女は嬉しそうに――本当に嬉しそうに笑った。


「ねぇ、私とっても嬉しくってどうしてもあなたたちに聞いてほしかったの」


 彼女は小さく息を吐いた。


「本当にありがとう。優しい人たち。だから、最後に伝えておかないと」


 最初に会ったときのようにふわりと言った。


人間あなたたちの事、好きよ。本当に大好き」


 高く上った太陽が光った。

 ハレーションでも起きたように白い光が彼女を包んだ。

 

 眩しさに目を閉じ、再び目を開ける。

 そこにはミホール氏の残したささやかな家と、ささやかな庭だけが残っていた。 


 頬を水滴のようなもが伝うのを感じた。

 自分の感動体質に半ば呆れたが、その水滴は目から出たものではなかった。

 空から降ってきたものだった。


 「天気雨だね」


 千鶴さんがつぶやいた。

 

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