第43話 描かれた未来


 爽やかな風が頬を撫でた。快晴の空を見上げて息を吸えば、どこかから運ばれてきた花の香りが空の蒼に混じって肺を満たす。


 灯護は兄の墓参りに来ていた。歪理者の存在を知ったあの日にめちゃくちゃになったこの場所も、今ではすっかり元通りになっている。


 兄の墓前で手を合わせ、この数週間で経験した出来事に思いを馳せる。


 以前ここに来たときは、歪理者ヴァニタスのことも兄のことも何も知らなかった。あの時の日のことが、今からみるとずっと昔の出来事のように感じる。


 ポケットから携帯端末を取り出し、時間を確認する。表示されている時間は午後二時前。並んでいる日付は、唯花の事件からすでに一週間も経ったことを示している。灯護の体力も完全に回復し、こうして穏やかな日曜日を過ごすことができている。


 携帯端末をポケットに入れようとしたところで、ふと彼の手が止まる。彼は今の所作を、無意識のうちに左手で難なく行っていた。自分の利き手は右であるはずなのに。


 灯護は眼を細める。


「お待たせ」


 澄んだ声が風に乗せられて彼に届いた。振り返ると、そこには私服姿の真莉がいた。いつも通りの少しボーイッシュなパンツスタイルの私服。最近少し上がり始めた気温に合わせた涼し気な格好だ。彼女もまた元気そうで、傷跡がないのはもちろん、気疲れの片鱗すら見せていない。あのあと灯護よりもずっと忙しかったはずなのだが、相変わらずの強さである。回復も含めて学校に登校できるようになるまで三日かかった灯護と大違いである。まあ、そもそも彼女と灯護では魔術の有無や普段の鍛え方が全然違うのだが。


「全然待ってないよ。行こうか」


 そう返事して二人は墓所を後にする。向かう先はもちろんあの洞窟だ。


 真莉とともに森を抜け、湖のほとりへ足を進める。


 この辺りはまだ一週間前の傷跡が残っており、特に半円状に抉られた地面はほとんどそのままであった。誰がどうやってこうしたか、灯護には全く想像がつかないが、こんな重機でも必要そうな破壊跡も、魔術でひと月もすれば修復できるそうだ。


 真莉も今はもう彼の家に泊まっていない。修正を恐れて灯護を狙うものなど初めからいなかったのだから当然だ。


 いろいろなものが元に戻っていく。ただ残るのは、傷跡と思い出だけ。


「こうして並んで歩いてると、また護衛してもらってるみたいだね」


「まあそうね」


 真莉の態度は素っ気ない。あの戦いが終わってからずっとこんな感じだ。


 護衛の仕事は終わり。元通り他人ですと言わんばかりに。


 彼女が何を考えてそうしているのかわからない。今回の件で、一層灯護を歪理者の世界に関わらせてはいけないと思ったのだろうか。しかし、伝わってくる感情は複雑で、それだけではないようにも感じる。負い目や心配、恐れともとれるこの感情がどんな考えに由来するものなのか見当もつかない。


(だからって、関係まで元に戻さなくてもいいのに……)


 相変わらず頑ななままの彼女に呆れ半分不満半分のため息をつく。


 森を抜け、湖畔を歩いて二人は祠へと足を踏み入れる。二人を出迎える青い空間。あちこちに置かれた宝石や短剣等の魔術触媒たち。氷の床に刻まれた魔方陣。一週間前に姉妹の殺し合いが行われた青い洞窟の中は、変わらないままだ。ただ一ヶ所を除いて。


 二人は洞窟の奥へと歩を進める。その視線の先には一本の真っ青な氷柱が屹立している。氷柱のなかには、穏やかな表情で眠りにつく少女の姿が薄く見える。


「来たわ。姉さん」


 そう告げるも、反応はない。


「これは……どうなってるの?」


「封じたのよ。姉さんを」


 唯花に意識はない。この氷の中でただずっと眠っている。しかしこれでは死んでいるも同然。完全に同化してはいないとはいえ、唯花はほぼ結界の一部となったのだから。だから真莉はあのとき一つの決意を胸に刻んだ。


「私、決めたから。私が湖月の歴史に終止符を打つ。いまよりずっとすごい魔術師になって、この湖に封印されてる竜を、私が殺す」


 結界がある限り、どちらかが犠牲にならなければいけないのなら、その結界を打ち壊せばいい。そうすれば、唯花をここから救い出せる。


「絶対にやって見せる。だから、待ってて姉さん」


 少女は氷柱に額を当てる。言葉は誓いとなって洞窟内に響いた。


 共鳴で伝わってくる感情は、太陽のように輝いていて暖かい。灯護は改めて自分は間違っていなかったと笑みを浮かべた。


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