第38話 灯の色が変わるとき

青く広い氷と岩の空間。所狭しと敷かれた魔法陣と触媒だらけの結界の中枢。今夜はそこに黒い異物が紛れ込んでいる。


 青い世界では灯護の危惧していた通りの光景が広がっていた。


 最奥に反り立つ黒い大樹。その中央に力なく拘束されている真莉。灯護に不敵な笑みを向ける唯華と、不気味に佇む刃の四肢を持つ黒い人形。


 聞いていた話と違い、もはや完全に勝敗が決した場が完成されていた。


 その事実に心を揺らす暇もなく、彼の心に二人の感情が染み込んでくる。それを受けても強く決めた意思は流されることなく色を保った。


 だが、それでも感情の流入は避けられない。彼はその心をもって二人の感情を知る。


 二人の持つその感情は痛みにも近く……その感情は……。


 


 灯護は……ただ静かに涙を流した。


 


 感情に流されまいと唇を噛み、真っすぐ前を見据えながらも、その瞳からはとめどなく涙があふれ出ている。


「どうして……どうして、来てしまったの!」


 真莉の声が木霊する。必死にもがいているが黒氷の木はびくともしない。


 灯護は真莉を見上げた。その瞳は、彼女ではなく、彼女の心を見ている。


 彼は静かに口を開く。あふれ出る感情が抑えきれずその声は震えていた。


「真莉さん。本当にこれが……君の望んだことなの……?」


「えっ……」


 彼は分かっている。真莉が殺されることを認めていることを。


 そのうえでのこの問いは、真莉の心の亀裂へ深く沁みこみ、否が応にも彼女に亀裂の存在をわからせた。


「……」


 真莉は言葉を続けることができなかった。


「早かったわね。灯護君」


 唯花声が響く。青い空間にて二つの視線が衝突する。


 灯護の頬を、新たな雫が流れた。


「……こんな方法しかなかったんですか……?」


「理解してもらうつもりはないわ。あなたにはわからないでしょうけ――」


「わかります」


 彼の頬をもう一筋涙が伝う。


「わかります……」


 少年の反応に唯花は少しだけ俯いた。


「そう……。そうだったわね。……あなたは全部知っているんだったわ」


 例え僅かな時間でも、二人は心を共有した。眉を寄せている彼は今きっと思い出しているのだろう。この場所に閉じ込められていた唯花の苦しみを。そして今も……。


 次に言葉はなかった。


 顔を上げる。そこにはもう、憂いなどない。唯花が手を挙げたのを合図にその横にいた黒氷の人形が灯護へ駆ける。


「唯花さんっ!」


「お話をするつもりはないの。ここまでご苦労様灯護君」


「でも――」


「黙りなさい」


 その目は鋭く、出会ったころの優し気な表情はもはやない。本気の敵意が灯護を貫く。そして灯護の心もその敵意に染まる。


 迫りくる黒い影。細身の体にも拘わらずその威圧感は計り知れない。一瞬で間合いは溶かされ、黒い刃が灯護を襲う。


 灯護は腰から兄のナイフを抜いて、その一撃を受ける。


 洞窟内に硬い音が鳴り響いた。


 黒い人形の見た目に反した凄まじい力に驚く暇なく、人形が足の刃を振るってくる。間一髪のところでそれを避けるが、そのころにはもう次の一閃が迫ってきている。


 避け損ねた一撃が手の甲を切り裂く。熱さにも似た痛みが彼を襲う。


 四肢を使ったアクロバティックな動きに灯護は全く対応できていない。いや、むしろここまで対処できたことがすでに僥倖というべきか。


 真莉のブレスレットによって、身体機能・能力ともに向上しているが、肝心の剣技が伴っていない。共鳴能力により真莉から得た経験と、乗っ取られかけた際に得た経験。どちらも所詮付け焼刃。当時の名残でしかなく、それそのものには程遠い。


 加えて、


「ぐっ!」


 腹が浅く切りつけられる。


 彼の動きを鈍らせているものがある。


 それは彼の心にある彼由来の感情だ。


 いくら共鳴していてもやはり心の何割かを占めている自分由来の心が恐怖を感じ。それが重りとなって彼の思考と肉体の自由を縛っている。


 人形の上段からの切りつけをナイフの腹で受け止める。しかし、その力に押し込められ、彼は冷たい氷に膝をつく。


「あまり傷つけたくないの。抵抗しないでくれると助かるんだけどな」


 唯花の声が耳に纏わりつく。


(このままじゃあ……)


 様々な思考と感情が湧き上がる。しかしそれらは灯護の意志を変えはしない。はじめから、ここに来た時からずっと決まっていた意志。


 最後にそれだけを確認し、灯護は覚悟を決めた。


 今心にある全てにまとめて別れを告げた。思いも、感情も、思考もまた一期一会。今感じ、思ったそれらと再び見えるかは誰にもわからない。


 特にこれ以降の彼にとっては……。


 なんとか黒い刃をいなし、大きく後退する。


 しかし、即座に黒氷の人形が追いすがってきた。目の前で黒い刃を振りかぶられる。


 対して灯護は目を閉じる。


 彼は決めたのだ。


 


 人間をやめる覚悟を。


 


 少年の目が見開かれる。


 再び現れた表情に、彼らしい面影はなく、ただ闘争心の炎だけしかそこにはない。


 鋭い目つきで人形を射抜き、目にもとまらぬ速さで兄のナイフを構える。


 振り下ろされる黒い刃に対して、彼はそのナイフを使わない。ただわずかに体を傾けるのみ。


 薄く延ばされた時の中で黒刀が彼の頬を掠め、赤い線を刻む。


 命を掠めたその一閃を意に介すことなく、彼は交錯する形で人形の方へナイフを突き出す。


 狙うは一点。黒い体から特別強くディザルマを感じる細い首だ。


 身を捻り、歯を食いしばって放たれたその一撃はまさに渾身。


 洞窟内に甲高い音が鳴り響く。赤いナイフは人形の細い首に突き立てられている。硬い体に突き刺さりはしないものの、その周囲に亀裂が広がる。


 少年は止まらない。彼の手は被せるような形で黒刀の峰を掴んでいた。それが人形の反撃をわずかに遅らす。


 彼が地を蹴る。左手で持った黒刃を台に、空中で身を翻す。軽快な動きと勢いをそのままに、彼は突き立てたナイフへ強烈な膝蹴りを叩き込んだ。


 爆発したように人形の細い首が砕け散る。頭と胴体が分断し、それでもなお勢いを殺しきれなかった人形の体は破片とともに唯花の足元まで吹き飛んだ。そのまま人形の破片は黒い煙となって消える。


 目を丸くする唯花と真莉。


 時を惜しむかのように灯護は瞬時に跳躍した。弾丸のような速度で向かう先は真莉を拘束する黒い大樹。視線はその根元に広がる魔法陣に注がれている。


 構えるナイフは真紅の鉱石クリアゾム製。蓄積したディザルマで魔術を破壊する技術の結晶。


「くっ!」


 唯花が床に手を叩きつける。それに呼応し幾本もの大樹の根が、生き物のように灯護に殺到する。


 魔法陣まで一歩届かず、灯護は、襲い来る根の数々を捌く。躱し、あるいは防ぎ、その動きには一切の無駄がない。


 その様子を樹上から見ていた真莉は己の目を疑っていた。


 明らかに動きが違う。その動きは……。


(姉さんの動き……⁉ でもこれほどなんて……)


 似ているというレベルではない。剣を振るった後のわずかな残心の所作までが同一。


 乗っ取られかけたことにより唯花の経験、すなわち剣術がトレースされているのはわかる。だがそれも所詮共鳴で感じ取れたことの一部であるはず。ここまでの剣技を習得しているのは一体どういうわけなのか。


 ゾクリと、周囲の氷がさらに冷たくなったような感覚が襲う。


 ある可能性に思い至ったのだ。


 根の一本が額を掠めたことを結びに、少年は大きく後方に跳躍し距離をとる。再び唯花へと研がれた眼光が向けられる。額から流れた血が彼の涙の跡を追った。


 その瞳の奥に輝く光を見て真莉は確信する。


 彼の瞳の光。その色は今の唯花と全く同じ色を放っていた。


(あいつ……自分の感情を、全部姉さんの感情に……!)


 以前彼は言っていた。共鳴キャン色彩バスは今より強くはできると。


 まさに今彼はそうしたのだ。


 共鳴能力に飽かした積極的な感情の共鳴。彼はそれで極限まで唯花とディザルマを同一にし、自身の剣技を唯花と同一の段階まで引き上げたのだろう。そう考えれば彼らしくもない闘争心溢れた表情に説明がつく。今まさに彼の心は唯花の心の鏡なのだ。


(でもそんなの……)


 真莉は表情を歪めた。


 それは彼が一番恐れていたことではないか。


 ただ人と同一の感情を持つだけの、自我のない存在。そんな人間の枠から外れた存在になることを彼は恐れていたのではなかったのか。


 それなのに、今ここで自らの心を捨てたというのか。もう一度以前の自分に戻れるという保証もないのに。ただ真莉一人を助けるために。


「どうして……」


 そう呟いておいて、どうしても何もないと思う。


 彼はそういう人間ではないか。


 困っている人間を放っておけない。


 他人のことを自分のことのように想う。いや、自分以上に大切に想う。


 きっと彼は今、真莉を助けるという意志だけで動いている。自分の感情を捧げても意志だけを強く持つことで自分を制御しているのだ。


 そこまでして真莉を救おうとしている。


 対して自分はどうなのか。


 抑えようのない憤りが湧き上がってくる。


 少年は、まさに捨身で真莉を救おうとしているのに、肝心の自分に救われる気がない。


 姉のためになら死んでもいい。


 そう思っているはずなのに、それなのに、どうしてこんなに胸が痛むのか。


 憤りの炎が広がっていく。


 こうして心が揺れているという事実が、そして何を思っても今の自分にできることがないことが、すべてが熱い怒りへと変わる。


 すなわちこれは……。


(私は……)


「とんでもない子ね」


 唯花の声が洞窟内に響く。


 彼女ですら灯護の判断に慄いたのか、痛みに耐えるように眉根を寄せている。


 灯護が動いた。返答するだけの思考のリソースは彼にはない。落ちた血の雫も置き去りに、ナイフを構え唯花へ駆ける。


 対して唯花は身を翻し、岩に刺さっていた琉月を引き抜き灯護へ構える。


 両者の構えは全く同じ。


 赤い雫が氷の床に落ちたその瞬間、赤と青の刃が激突する。


 剣を合わせた二人の目が合う。そこで交わされる言葉はない。


 唯花の影から黒い腕が灯護へ伸びる。ナイフでそれを切断した流れで強烈な足払いを灯護が放つ。跳んで唯花が剣を振るう。


 赤が突き、青が斬り、時には蹴り。赤と青の剣閃が入り乱れ、時おり黒がそこに混じる。獲物の違いがあるものの二人のスタイルは全く同一。


 しかし、


(互角じゃない……。全然……)


 遠くから見る真莉でもわかる。圧倒的に灯護が劣勢だった。


 琉月が灯護の肩口を切り裂く。瞬間、灯護の動きが鈍る。すかさず巻かれた黒煙が彼の視界を一瞬奪い、鋭い蹴りが彼の胸に炸裂する。


 たまらず灯護は三メートルほど地を転がる。


 少年は真莉のブレスレッドで強化されているが、それがあっても唯花が有利な点がいくつもあった。


 一番の脅威は琉月。ディザルマを食らう青い短剣は、人を斬ればその魂を食らう。魂を失えば意識を保つことも難しくなる。例えかすり傷でも斬られ続ければ敗北は必至だ。それに、唯花自身は魔術も駆使してくる。


 極めつけは二人の技量差だ。いくら共鳴しているとはいえ、完全に唯花の剣技をコピーできるわけじゃない。極限まで近くとも、当然オリジナルを超えることはできない。


 蹴られ、斬られ、少年はどんどんボロボロになっていく。


 だがそれでも彼は止まらない。唯花から共鳴した闘争心のままに、ただ一つ持った意志だけをもってひたすらナイフを振るう。


 時折大樹の魔法陣を破壊しようと真莉のほうへ向かおうとするが、しかしすべて唯花に防がれ彼に傷が増えていく。


 彼にが傷を負うたびに、真莉の心にも痛みが走る。魔術を、姉を思うのなら、彼の犠牲を歓迎しなければいけないのに。


 真莉の頭の中で何度も彼の問いが繰り返される。


(本当にこれが……君の望んだことなの……?)


 繰り返されるたびに、心の表面に入った亀裂は広がり、殻が剥がれていく。その殻はいままで自分に言い聞かせていた言葉だった。彼女の心は自分自身の言葉の殻に閉じ込められていた。


 今それがむき出しになろうとしている。


 灯護の言葉が繰り返されるたびに。彼が傷つくたびに……。


(私は……)


 一際高い音が洞窟内に鳴り響いた。


 灯護のナイフが弾き飛ばされ、宙を舞っている。


 大樹の魔法陣まであと少しというところ。大きく姿勢を崩した灯護と、突きの構えを取る唯花。唯花の目に迷いはない。


 灯護の視線が琉月に止まる。


「姉さんッ!」


 無情に煌めく青の一閃。


 叫びは願いとなるも届かず、琉月の剣先が灯護の胸を貫いた。


「がっ……!」


 見開かれる灯護の瞳。開いた口から血が噴き出す。貫かれた勢いのままに、彼の体が背後の岩に叩きつけられる。背中から飛び出た青い刀身が、赤く染まって岩を穿っている。


「あぁっ……!」


 真莉の前身の毛が逆立った。彼の痛みがそのまま伝わってきたかのように胸が痛み。自分を苛んでいた全ての思考さえ吹き飛んだ。その穴を埋めたのは無数の後悔と自責の念。


 灯護の手が虚空を彷徨う。その手は真莉のほうへ伸びていた。しかし、その手もだらりと落ちる。琉月に急激に魂を食われ、意識も奪い去られようとしている。


「あら。避けられると思ったんだけど……。死なれるとこっちも困るのに」


 唯花は眉を動かすことすらしなかった。


 琉月に渡っていく魂と引き換えのように、彼の背と胸から脈打って血が溢れ出していた。血だまりが広がっていく。


「灯護君ッ!」


 悲痛な真莉の叫びを、少年はどこか遠くで聞いていた。


 自らの命が奪われようとしているこの瞬間も、彼の瞳は真莉を捉え続けていた。


 その目からは、未だ光は消えていなかった。

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