マジックアワーをキミに

片瀬智子

 日没前

 都心の一等地にそびえる、誰もが羨むラグジュアリー・ホテル『S』。

 ここの六七階には、セレブ御用達の謎めいたスイートルームがある。


 なぜセレブ御用達の部屋かというと、上顧客のリクエストには何でも応えるという忠誠おもてなし、絶対に漏れることのない個人情報などの安全性、さらに選ばれた者だけが誇れるご招待インビテーションによるもの。

 それらが上流の口コミで伝わるという、ミステリアスな話題性からだった。一流のサービスに慣れ飽きた大人は特別と秘密を好む。


 今夜は女性経営者たちとその同伴者の集まりがあった。同伴者の大体が、女性経営者に無理やり連れて来られた夫(配偶者)たちのようだ。

 そう、あたしを除いては。

 

 あたしは、白瀬川しらせがわ芽衣めい。十六歳。

 ママの見栄で、このあたりでは有名な女子校に通っている。

 何が有名かって? それは何でも。いいことも悪いことも何でもっていう意味。


 私のママはエステサロンのお仕事をしている。もちろん経営者。コマーシャルもいっぱいしてるからみんな知ってると思うけど。

 派手でドジ、軽率な性格がわざわいして三年前脱税でトラブってからは、心を入れ替えて今は毎年ちゃんと業績を伸ばしている。


 パパはいない。私が小学三年生の時にママと離婚して以来、ひとりも。

 だからママは時々ストレスで、こういうところに来るんだと思う。

 ここは上品ぶった香水が入り交じってる。高揚した肌に残り香が主張する。だから、いつも野蛮な匂いで記憶に残る場所だった。


 ほら、見て。つまらなそうにしてる、物欲しげなおじさんがこっちを見てるでしょ。

 私は小さな鼻をツンと上に向け、小悪魔を気取る。にらんでやっても効果的。下手したでに出ちゃダメ。ああいう人は、こっちが恥ずかしそうにしてるほうが大抵喜ぶんだから。


 誤解しないでほしいんだけど、私はいつもここの集まりについて来てるわけじゃない。定期的にママがひとりで参加してるのを知っている。

 だって家に戻ると、あの嫌な匂いですぐにわかるから。私は大人だから黙ってるけどね。


 今日は、マジックショーが行われるそうだ。だからママは私を連れて来た。

 健全で退屈なイベントだから。いやらしいクスクス笑いも、ハイでぶっ飛んだパーティーもなし。

 さあ、ママの顔を立てるためにも、おりこうさんにして楽しいふりをしてなくちゃ。


 私がオレンジジュースを飲みながらひとりでソファに座っていると、ここでは珍しく若い部類の男の人が隣に座ってきた。目だけで挨拶を交わす。初めて見る顔だ。

 ママの彼氏より背が低いけど、睫毛にかかる長めの黒髪と微笑んだ顔がすごくキュートだった。


「キミはどなたかのお嬢さん?」

 その人は言った。その時、ガムを噛んでるってわかった。

「はい。あの、窓際で笑ってる赤い服の人が……ママです」

「ふーん、……綺麗なお母さんだね」

 あんまり興味なさそうに言うと、彼はまた質問をしてきた。


「未成年?」

「え、あ、はい。……十六です」

「そう。もうすぐ、マジックが始まる。……だけど、高校生にはおすすめできないたぐいかもしれない。よかったら、提案があるんだ」


 その人はそう言って、私の表情を盗み見た。

 でも私は子供扱いされたくなかった。時々だけど「大学生?」って言われるし、エッチなことだっていろいろと聞いて知っている。

「私、大丈夫です」

 姿勢を正して、きちんと言った。でも気になって、ひとつ質問をする。


「このマジック知ってるんですか?」

 ママは世界的なマジシャンだって言っていた。なかなかオファー出来ないくらいの人気があるって。

「ああ、冒頭だけね。動画配信で見たことがあるよ」

 彼は口元だけでまた微笑む。くせなのかもしれない、無意識の笑みだった。


「海外で流行ってるような大げさなイリュージョンじゃない。どちらかといえば、手の内で魅せるタイプのものかな」

 よくあるテーブルマジックみたいなものだろうか。じゃあ、なぜそんなに人気があるんだろう。

「ママは有名なマジシャンって……」


「そうだね、退屈な日常を回避するにはいい刺激になる」

「刺激……ですか?」

「ああ、大人になるとだんだん刺激がなくなるんだ。免疫がつくからね。子供の頃は星がまたたいても、飛行機が飛んでいても胸が高鳴る。そういうのがだんだんとなくなってくるんだよ」


 彼はそう言って、私が落とした人工イミテーションダイヤの指輪を拾ってくれた。左手の中指にはめる。

「これね、ママが捨てたのを拾ったの。安物だからいらないんだって。こんなに可愛いのに。……変ですか?」

 私は手をグーにして見せてあげる。そう言えば、確かに子供の頃はドングリが宝物だった。ドングリがなんであんなに煌めいてたのか、今ではもうわからない。


 彼は高級そうな腕時計を流し見ると私に顔を寄せ、頭の回転が速い人らしく早口で言った。

「これから行われるマジックはね、価値を逆転させてくれる。幸せをまた感じさせてくれる効果があるんだ。だけど、キミにはまだ必要ないと思うから……僕の提案に乗ったほうがいいよ」


「……どうすれば、いいんですか」

 私も小声になる。何となくその提案に乗ったほうがいい気はした。彼が本気で言ってる気がしたから。


「マジシャンが登場する際に音楽がかかる。その時、照明が一度消えるはずだよ。その瞬間に、あっちの配線やスイッチ類を隠してるパーティションの裏に行くといい。床はカーペットが敷いてあるから音はしない。誰にも気付かれずに……出来る?」


 私はうなずいた。シャンパンでほろ酔いのママは私がいなくても気づきもしないだろうし、私は意外と敏捷びんしょうだ。

 そして彼は二言三言、言葉を続ける。私はまた頷く。


「僕がいいと言うまで、パーティションから出て来てはダメだよ」

 最後にそう言うと、彼はおもむろに立ち上がり大人たちの集まる大きなテーブル席へと移動する。

 私はまだ半信半疑だったけれど、不思議な緊張感に包まれてその時を待った。



 ――――派手な音楽が鳴り響いて、照明が落ちた――――



 次に部屋が明るくなった時は、噂のマジシャンが黒いスーツで登場していた!

 すごい、私はパーティションの影から盗み見る。

 セレブで下品な大人たちが一斉に声を上げた。高級なお酒で気分が高揚してるみたいだった。


「皆さん、こんばんは。今宵、マジックで皆さんを新世界へと導きます。この世は泡沫うたかた――。そして、幻想の彼方へ」


 七人の大人たちが、息をひそめ紳士然としたマジシャンを見つめていた。

 マジシャンはその中から、一番若くて信じられないほど魅力的なチャイナドレスの美女の手を取る。

 アシスタントの役目に任命したようだった。一点のむらのないミルク色の肌と漆黒のストレートヘアが艶めかしくて、マジシャンが彼女を選ぶのも無理はないと思った。


「……これから皆さんには、ウォーミングアップのために少し手の運動をして頂きます。さあ、両手を前に出して、グーパー、グーパーと指を動かしてみて下さい」


 大人たちは恥ずかしそうに笑ったり、お酒を飲んで勢いをつけたりしながら、両手を伸ばして言われた通り運動を始めた。

 その中に二人だけ、体勢を変えずに逆らった人がいた。中年太りのいかめしいおじさんとあの彼だ。彼は腕を組んだまま、自分を崩そうとはしなかった。


「はい、やめて下さい。そうですね……そちらの退屈しているお二人、前へ出て来て頂けますか」

 まわりの人たちが少し笑った。彼らはいやそうだったが他の人に促され、前へ出る。私の位置からは全体がよく見えた。


「大人数の場所でこういう指示をすると、素直にやって下さる方とかたくななに拒むあなたたちのような方に分かれます」


 ママみたいな素直に手の運動をした派は、ここで顔を見合わせ笑う。でも、マジシャンは笑わずに言った。

「今は、私のショータイムです。私の言う通りにして頂く時間なのですよ。……いいですか。では、お二人には罰を受けて頂きましょう」


 マジシャンはそう言うと、黒いスカーフを取り出し、美女のアシスタントに命じて彼らを後ろ手に縛った。しっかり縛られているかどうか、マジシャンは念入りに確認する。その後イスに座らせ、猿ぐつわを噛ませた。


「ここまでする必要があるのか」

 口を封じられる前、中年の男が文句を言った。

 だが、もともと怪しげな秘密のパーティーなのだ。お酒の効果もあって、誰も男の言葉に耳を貸さない。

 逆に卑猥な趣向が興奮を盛り上げる。ここの客には似合いのムードだった。


「ええ、そうなんですよ……これから、あなた方全員にある魔法をかけさせて頂きます。ものすごく気持ちよくて、リラックス出来る。ストレスなどすぐに忘れてしまいますよ。……皆さん、私の手を見て下さい」

 マジシャンは白い手袋をはめた右手をゆらゆらとかざす。


「ほら、青いジャケットのあなたも……グラスを置いて、そう。この手をよく見て……どうです、身体があたたかくなって気持ちがいいでしょう。そよ風とともに、いい香りもしてきましたね。皆さん、子供の頃を思い出すんです……何も知らずにはしゃいだ、あの頃へ」


 客のひとりがいきなりすすり泣きを始めた。

 誰も彼もが自分の世界に入り込んでいるようだった。ママも脱力したような姿でマジシャンを見つめている。

 異様な光景に私は怖くなった。でも息をひそめ始終を見守ることしか出来ない。


「……過去への陶酔。眩しかった、あの日々へ。いいんですよ、心を開いて。何も恥ずかしがることはない。さあ、両手を伸ばして、ゆっくりと心の中の草原を感じるんです。そして……社会や人間関係のしがらみから、どんどん解放されていきましょう。……ほら皆さん、気持ちの悪い大人の象徴から今、解き放たれるんです!」


 その言葉を受けてか、客のひとりが高価なネックレスをテーブルの上へと放った。

 それにならうようにひとりひとりが高級腕時計や、大粒の宝石が輝くジュエリーをテーブルへ置く。


「皆さん、そうです……子供の頃には必要なかったもの。それらは私たちの足枷あしかせにしかならない。私たちはもっともっとシンプルに生きられるはずなのです。さあ、笑って……。雑踏に紛れてすさむこんな毎日ではなく、純粋なあの美しかった長い一日を取り戻すんです」


「!」

 しびれを切らした猿ぐつわの中年男が、そこで言葉にならないうなり声をあげた。しかし後ろ手のスカーフをイスに固定されてるらしく、立ち上がることさえ出来ない。

 あの彼はその中年男の隣で、じっとおとなしくしていた。


「黙るんだ、それが身のためですよ。君は心の寂しい人間のようだね……」

 マジシャンは中年男にそう言って、軽く平手打ちをした。

 そして、チャイナドレスの美女に明確な指示を出す。うつろな表情の美女は黒い袋を片手にゆっくりとテーブルを回った。


 その時、私はわかってしまった――。

 そう、やっと。

 マジシャンという黒服の男は、実はなんだと。

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