第10話「まあ、血が繋がっているわけでもないですし」

「ごめんね〜。……お風呂勝手に借りちゃって」


「いえ。こちらこそ。ノックの一つもせずに申し訳ありませんでした」


「いや、むしろ自宅なんだから、ノックの必要は全くないよ。私がせめて置き手紙か、せめてあやさんに一言何かを言い残しておけばよかったよね」


「まあ、姉さん一回寝るとなかなか起きないし。それも含めて仕方ないと思いますよ」


「そう?」


「はい」


「…………」


「…………」


「えっと……」


「ちょっと喉乾きましたよねすぐに出します。麦茶でいいですか?」


「え。ありがとう。なんでも大丈夫だよ、うん」


「少し待っていてくださいね」


 僕は席を立ち、冷蔵庫を開ける。

 そこには昨日、出かけに冷やしておいた二リットルのペットボトルがあった。

 

 まあ。

 ということとで。

 そうして、こうして、再登場。

 目の前にいるのは金髪碧眼の少女である。


 白い肌、長い手足、潤んだ唇。 

 頬はほんのりと赤みがさしていて、青い瞳はチラチラと伺うようにこちらを向いている。

 しかしその目は一向に合わない。

 頻度にして……だいたい十秒に三回ほどだろうか。

 長い睫毛は細かに揺れて、その大きい丸の目の存在感を一段階上に高めていた。

『とりあえず着ました』とでも言いたげな白のシャツとスキニーの黒ジーンズが水に張り付いて体のラインがくっきりとわかってしまい、否応にも先の光景が頭によぎって仕方ない。

 ほんのり濡れたその髪は出たばかりの日に反射し輝いている。

 後ろに一つ、ゆわれたその髪は余計にその光を集め、見るだけで十分に眩しいぐらいだ。


「はい、どうぞ。粗茶ですが」


「うん。ありがとう」


「いえいえ、ごゆっくりしてくださいね」


「…………」

 

 ……と。

 そんな有り体に言えば『美しい』女性とこうして対面し、お茶を飲み、あまつさえその半裸を見た後だというのに、はてさて。

 一体どうして僕はこんなにも動揺の一つも外に見せていないのか。

 どうして何事もないように振舞っているのか。

 わかりやすく言えば、

 なんで僕はこんなに堂々としていられるのか。


 まあ普通であれば、

 『女性の裸体を認めてしまったことの申し訳なさ』とか、『その姿を思い出して興奮を覚えている罪悪感』とか、

 そういった前向きの、ピンク色のものをかかえ、体面上だけでも申し訳なさあふれる態度をするべきなのだろう。

 きっとそうするべきで、そうするのだろう。

 人間として。男として。


「もう一杯要ります?」


「えっと、じゃあ、はい。お願いしようかな」


「いえいえ、全然構いませんよ。……っと、はい、どうぞ」


「あ、どうも」


 しかし、けれど、だけども、だ。

 そんな態度をとることはもはや不可能なのだ。

 不可能で、できないのだ。

 というか、そもそも今の僕に対しそんなどうでもいい体面なんかを求めるなんて、無理難題もいいところである。


 こんな——恐怖に支配された感情の中で。

 怯えを抱えた状況の中で。

 下手な要求をしないでいただきたい。


 で。

 下手に目をそらそうとする自分を律し、その心に目を向け説明をするけれど。

 つまりまあ。

 なんというか。

 恐怖というか。

 怯えというか。

 潔さというか。

 うーん、と。

 やはりなかなか言葉にするのは難しい。


 ということでよりわかりやすく伝えるためにそれを文章にすると——以下のようになる。


 今、僕はこの後に待ち受けるであろう姉からの判決と処遇に、心の底から震え上がっています。


「…………」


「どうしたの、汗すごいよ?」


「あ、いえ、お気になさらず」


 僕は笑ってその言葉を聞き流す。

 そして、後ろにいるであろう諸悪の根源に目をやった。 

 幸いなことにその一定リズムを刻む寝息のリズムに変化はなく、その目覚めは遠いようだけれど、しかしそれが時間の問題なのは明白だ。

 目の前の彼女——恐らく『三枝優姫』さん——が姉さんに会話の一つでもたれ込んでしまった時、全てが終わってしまうだろう。

 

 えっと。

 なんだろう。

 眼球ぐらいで許してくれるかな。

 

「あの」 


「……?」

 

 そんな決意を一度してみると、一体どうして世界が眩しく見えてくるものだな——と、そんな感動に満たされている中、ふと聞こえた声に僕は視線を戻す。

 目の前のコップはまた空だった。


「えっと、ごめん。こうやって持て成されちゃった後に言うのもなんなんだけど」


「はい」


「一応の確認、みたいなものをしたいんだけど……いいかな?」


「はい」

 

 頷く。

 それだけで、少し安心したように微笑んだ彼女。

 その笑顔はとても魅力的に見えた。


「じゃあ、その……まずは名前とか、聞いてもいい?」


「幸人。佐藤幸人。佐藤綾の弟です」


「じゃあやっぱり……新しい劇団の、団長さんってことで間違ってないよね?」


「あ、はい。そうです。まだ僕も名前すら全然聞いていないですよね。えっと……」


 という感じ。そんな感じで。

 簡単なお互いの自己紹介を一通り述べた時、ようやく僕はこれ以上姉のことを気にするのをやめた。視線を送るのをやめた。

 殺されるのなら、もはやこの美女との会話を楽しんだ方が遥かに得だろう、なんてそんな判断した結果である。

 

 やはり想像通り、彼女はあの紙に書いてあった通りの名前『三枝優姫』を名乗って、それから合わせて、趣味や好きなこと、できること、今までやってきたことなどの、自己紹介を続けていった。

 僕としてはそのほとんどが昨日にもう知りえている知識ではあったのだが、しかしまさかここでそれを暴露する理由もない。

 だからそれが終わるまで適当な相槌と無言で三枝さんの話を聞き終えた。

 しばらくの無言。 

 

 そして——


「昨日は……行けなくてごめんなさい」


「え?」


 昨日のことで彼女に謝られる理由が見つからなかったのと、話題の急激な変化への対応不足で、だから、突然下がった頭の意味がわからず、僕は聞き返した。


「昨日は、うん。作業をしてて……その分眠るのが遅くなちゃって。……で、起きた時にはもう夜も遅すぎるぐらいの時間だったの」

 だから、昨日はその非礼をお詫びしようとここにきたんだ。


「でも私がきた時にはもう幸人くんも寝ちゃってて——。部屋には佳奈さんとあやさんしかいなくなってて——」


 と、三枝さんは、そこでリビングに広がる空き瓶に視線を向ける。

 そこには昨日僕が見た瓶に加えて二本、中が空のものが転がっている。


「で……だから幸人くんが起きてくるまで、入れ替わりで帰っちゃった佳奈先輩の代わりに綾さんとお酒飲んでたんだ。それで幸人くんが起きるのを待たせてもらおうとしたの」


 ふむ、なるほど。

 姉さんが追加で買ってきたものとばかり思っていたが、どうやら彼女が買ってきたものらしい。

 三枝さんは続ける。

 

「で、結局朝まで飲んでたんだけどさ。私も女だし、ね。……流石に一晩丸々寝ないで、ヨレヨレの服と汗まみれ体、ボロボロの顔の状態でさ。まさか初対面の男の子相手に会うわけにもいかないじゃない?」

 

「で、シャワーを借りていた……と」


「……うん」


 と、言葉を出して萎れたように、彼女はうなだれた。

 若干、ポニーテールも合わせて萎れた気がした。

 その仕草ひとつひとつがとても可愛らしく見えた。

 そして、再び恭しく頭を下げた三枝さんは口を開く。

 

 

「だから、その浴室の一件だけでなく、昨日の欠席の件も含めて——」

 本当に色々すいませんでした。


「…………」


 僕は黙った。

 もちろんそれは、彼女から出た謝罪を受け取らないという無言の訴えではない。

 単純に、僕は驚いたのだ。

 

 あれ、と。

 なんだこれは、と。

 誰だこれは、と。

 聞いていたのと違うぞ、と。

 

 僕の周りにいる人間、いた人間で、果たしてここまでしっかりと謝罪をすることができる人間というのはいただろうか。

 昨日の一件は向こうが悪いにして、しかし先ほどのシャワーの一件は、どう贔屓目に見てようと五分五分程度。

 女性という立場を鑑みるなら、自身の裸を見られ、しばらく開け放たれたままに僕の視界に収められた状況は、間違っても僕の方が分が悪い。

 女尊男卑が久しい現代。

 彼女としては、僕を一方的に糾弾することだっておかしなことではない状況である。(というか姉さんだったら婚姻届の提出を迫られるレベル)

 その中で。そんな中で。

 僕を全く責めることもせず、あげつらうこともせず、

 ただ自分の非を認めて潔く謝るという、その行動ができる女性が、一体この国に何人いるというのだろうか。

 

 正直——感動したとさえ言っていい。


 まあ、間違いなく姉さんのせいで僕の『常識人』へのボーダーが著しく低くなっていることは言うまでもないことなのだけれど、しかしそれを考えて見ても、彼女は明らかに『まとも』な人だろう。

 一体彼女の何が問題で、こうして第二劇団への転属になってしまったのか。

 確かにあの二人に関しては、問題があった……どころか問題しかなかったように見えるけれど、しかし、こと彼女に関して言えばそれが全く見えてこない。


 何だ、これは。

 なんだこの人。

 

 むしろ彼女ではなくて劇団にこそ問題があったのではないか。

 そういえば、あれは姉が作った組織である。姉が作って、姉を慕って入った人間でできている組織である。

 そもそもそんなものがまともなはずがないのだ。

 普通なわけがないのだ。


 考えられることびしょうしては、つまり——

 彼女も僕同様に被害者で、

 そういう人に苦労させられている人間の一人で。

 その苦労がたたって、こうしてここに飛ばされてしまったのではないか。

 まともに会話が交わせる貴重な人材……なのではないだろうか。

 

 ……え、何それ。

 ちょっと好きになっちゃうかもしれないんだけど。

 

「幸人くん……?」


「あ、は、はい」


 目の前にいる彼女がより一層魅力的に見えてしまうという、いきなりの性感覚に戸惑いつつ、僕は言葉を返す。

 心臓の音がやけにうるさかった。


「あの……はい。全然、問題ないので、謝るのはやめましょう」


「うん……でも——」


「さっきのシャワーの件は、違和感に気づかなかった僕も悪いですし、その……わざとじゃないとは言え、女性の裸を見てしまったのは事実です……」


「……うん」


「ですから、それをなかったことにしていただけるのなら、その分、昨日の無断欠席もなかったということにして、相殺しませんか?」


「……いいの?」


「はい。むしろ、僕としても、その方がありがたいです」

 続ける。


「僕も——姉さんにバレて殺されるのは嫌ですし」

 

 と。

 慣れない笑顔を見せ、僕は言った。


「…………」


 最初、そんな僕の顔や言葉に対する違和感に戸惑っているのかと思った三枝さんの顔は、しかし、しばらくの無言の後、ほのかに頬を朱に染めながら笑った。とても可愛らしい。……てかさっきからかわいいしか言ってないな僕。


「あはは! わかったよ。ありがとうね。じゃあ、ここはそう言うことにしようか」


「うん、それがいいです」


「なんか幸人くんって、結構面白い人だったんだね」

 聞いてたのと全然違ってびっくりしちゃった。


「一体何を聞いていたのかが激しく気になりますけど……え、そうですか? あんまり言われたことはないんですけど」


「別にお世辞じゃないよ? 私、そういうのとっても苦手だから」

 昔から嘘をつけない性格なんです。


「あまり、綾さんの弟って感じもしないし、とても話しやすい方で正直びっくりって感じ」


「まあ、血が繋がっているわけでもないですし」


「え! そうなの!?」


 などなど。

 そんな世間話に花を咲かせつつ、言葉を交わしつつ、僕たちは時間を潰した。


 先ほどまで僕たちを包んでいた気まずげな雰囲気はもうない。

 代わりに吹き込んだ新しい温かみのある空気が彼女の笑顔と声から湧き上がってくるのを感じた。

  


「じゃあ——今日はありがとう! 楽しかったよ!」


「それはもう、こちらこそ」

  

 と。

 楽しげな時間はあっという間で、相対性理論を恨めしく思いつつ、最後、僕らはそんな言葉を交わして別れの言葉を述べる。玄関まで見送る。

 名残惜しいが仕方ない。

 別段焦ることもないのだ。

 劇団においての活動にしかり、その準備しかり、後の大学生活にしかり。

 幸いなことにこれから時間は腐る程ある。

 それを使って利用して、三枝さんとの距離は詰めればいい話だ。


 そんなことを考えつつ、僕は笑顔で手を振って、見送る。

 

「あ、ごめん、ひとつ言い忘れていたことがあったよ」


「なにかな?」


 そして、三枝さんは、先の笑顔と同様の華やかさな雰囲気をちりばめながら、歯並びのいい口元を見せながら、言葉を吐いた。


「私——劇団やめるからさ、綾さんに急ぎ、それだけ言っといて」

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