第四話 力



「グボォ!」


 大木と見紛う程に大きな『騒霊』の拳が撃ち放たれた。

 決して小さくはない風圧が、ゆっくりと下に向かっていた落ち葉を無理矢理巻き上げる。

 ところが、


「よっと」


 その強力無比な一撃は、またもや標的へと命中することはなかった。

 上体をそらし、右手で添えるようにしながら躱してみせたレイニスは、暇にしていた左手を固く握り締めた。

 そして、それを大きく振りかぶるや否や、腰のひねりと共に『騒霊』の膨よかな腹を鋭く撃ち抜いた。


「グブォ!?」


 周囲に大岩を叩いたような重く鈍い轟音が響き渡った。

 『騒霊』の口から大量の息と、苦悶の声が吐き出される。

 レイニスの放った一撃が、先のモノよりも恐ろしく致命的な威力になったのは一目瞭然だった。


「グ、グィィ」


 あまりの衝撃と威力に、一足、また一足と後退りする『騒霊』。

 だが、それを見逃すほどレイニスは優しくなかった。

 瞬時に間合いを詰め、そこからさらに一歩踏み出したレイニスが放ったのは、連撃だった。


「しっ! はっ!」


 下から顎を撃ち抜き、それによってさらけ出された腹へ再び拳を捻り込む。

 それから、力なく垂れ落ちてきた顔を正面に捉えたレイニスは、右手を固く握り締めるとその頰を容赦無く殴り飛ばした。


「⋯⋯!」


 その口から、声が発せられることはなかった。

 目にも留まらぬ速度で放たれた攻撃によって、大きく体勢を崩した『騒霊』は、背中から勢いよく倒れ込むと、そのままピクリとも動かなくなった。


「す、すごい⋯⋯」


 遠巻きから、それら一連の様子を見ていた少女の口からこぼれたのは素直な感嘆の言葉。

 脅威は去った。

 そう思った少女はホッと胸を撫で下ろすと、自分を助けてくれた青年に感謝の意を伝えようとして木陰から出たーーその時だった。


「トドメだ」

「⋯⋯⋯⋯えっ?」


 突然、レイニスの口から飛び出たのは、恐ろしく冷たい氷のような声。

 そのあまりの冷たさに硬直し、頭の中が真っ白になった少女。

 だが、レイニスがゆっくりとした歩調で倒れ伏した『騒霊』の元に歩み寄り始めたのを見て、すぐさま我に返った少女は思わず駆け出した。


「ま、待って、待ってください!」

「っ!」


 『騒霊』の側に屈み、手を振り上げたレイニス。

 そこから先の動きを遮るように声を張り上げた少女は、驚きの表情を浮かべるレイニスのすぐ横まで走り寄ると、膝に手をついて、少しだけ呼吸を整えてから顔を上げた。


「私に⋯⋯やらせてください。お願い⋯⋯します」

「⋯⋯⋯⋯」


 返事は返ってこない。

 それでも、はっきりとした声で懇願した少女は、レイニスと瞳を合わせてジッと詰めいるように見つめた。

 しばらくして、少女の目を見つめ返していたレイニスはおもむろに立ち上がると、静かに瞼を閉じた。

 そして、ゆっくり目を開くや否や、そっと視線を横に逸らした。


「⋯⋯⋯⋯いいよ。好きにしな」

「っ! ありがとうございます!」


 満面の笑顔で嬉しそうに答える少女。

 レイニスの見ている前で『騒霊』に駆け寄った少女は、浅く上下するその身体に小さな手を優しく添えた。


「痛い⋯⋯ですよね」


 小さいながらも優しく、穏やかな声で語り掛ける少女。

 ぐるり、と首だけを動かした『騒霊』は、その真っ赤な瞳で少女の姿を映してから口を開いた。


「グィァァ⋯⋯」


 まるで弱り果てた犬のように切ない声で鳴く『騒霊』。

 そこには、もうさっきのような威勢の良さはどこにもなかった。

 少女は今にも泣きそうな目で横たわる『騒霊』と目を合わせると、さらに言葉を紡いだ。


「もう、これ以上傷ついて欲しくないです。だから⋯⋯」

「なっ!?」

 

 ただ、ひたすらに黙ってその光景を傍観していたレイニス。

 しかし、言葉を切った少女の手が淡く白い光に包まれるのを見て、思わず驚愕の声を上げると共にその目を大きく見開いた。


(あれは、霊威!?)


 おそらく少女はその力のことを何一つ知らないのだろう。

 だが、細く小さな手を包むその光は、確かに、レイニスの使った特別な力ーー『霊威』が放つ光と同じ色をしていた。


「どうか、お元気で⋯⋯」



 ーー『サヨウナラ』



 その光が変化をもたらしたのは少女ーーではなく、なんと『騒霊』だった。

 少女が言葉を紡いだ矢先、淡い光に包まれる『騒霊』。

 真っ黒な空へ光の粉を舞い上がらせるそれは、『霊』が浄化する時の光景と類似していた。

 いや、これは、


「浄化⋯⋯」


 たがうものは何一つない。

 それは完全に『霊』の浄化だった。

 ありえない光景に、目を開いたままただ呆然と立ち尽くすレイニス。

 やがて『騒霊』の姿が光の彼方に消えるのを最後まで見届けた少女は、レイニスの方を振り向くと小さく頭を下げた。


「あの、助けてくれて、ありがとうございました」

「えっ、あ、あぁ、どういたしまして。それより⋯⋯」

「?」


 不意に途切れる言葉。

 何故か、その先の言葉が声にならない。

 急に黙りこくったレイニスを見て、不思議そうに小首を傾げる少女。

 何とか言葉を続けよう。

 頭を振り、お茶目な笑顔を見せたレイニスは、どこかぎこちない声で話しかけた。


「あ、っと、良かったらち、近くの街まで送ろうか?」


 その内容は、その場しのぎにしてはあまりにつまらない言い分。

 しかし、少女は少女なりに困っていたのだろう。

 それを聞いた少女はパアッと顔を明るくした。

 そして、


「はい、お願いします!」


 そう言って少女は笑った。

 少女の見せたその朗らかな笑顔は、夜空に浮かぶ月よりも優しく、それでいて明るく輝いていた。

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