第9話 「先に休んでても良かったのに……どうされました?」

 〇桐生院咲華


「先に休んでても良かったのに……どうされました?」


 偽物結婚生活六日目…。


 22時を過ぎて仕事から帰って来た海さんが、あたしのどんよりとした顔を見て、眉間にしわを寄せた。


「おかえりなさい…」


「ただいま…どこか具合でも悪いのですか?」


「……海さん。」


「……はい。」


「……ごめんなさい!!」


 あたしは海さんに、深く深く頭を下げた。


「えっ…な…何ですか?」


「実は…」



 実は…今日。

 あたしとリズちゃんは、いつものように…前庭の木陰でのんびりな午後を過ごしてた。

 一見暑く思われるその場所は風通しが良くて、しかも生い茂った葉っぱがいい具合に陰を作ってくれる。


 二日目に買い物に行った後、それに気付いて。

 少しだけ二人で足を水に浸けたりなんかして…

 それからは毎日。

 昨日も一昨日も。

 そして…今日も。

 あたしとリズちゃんは、そこでランチをしたり、おやつを食べたり…


 リズちゃんの可愛らしさに気を取られて、何も考えてなかったあたしがいけないんだけど…


「もしかして…ここの誰かのお嫁さん?」


「……」


 あたしが堂々と芝生に寝転がってる時に…その声は降って来た。


 人通りも車通りも多くないけど、ここは通りに面してて…

 そして家もそこそこにある。


「はっ…初めまして。こんな恰好で…すっすみません…」


 慌てて起き上がる。

 あたしに声をかけて来たのは…60代ぐらいかな?

 白髪まじりの髪の毛を後ろでまとめた女の人。


「ああっ、いいのよいいのよ!!何だか最近、赤ちゃんの声がするわねって近所で噂になってて…」


「そ…そうなんですか?あまり泣かない子なんですけど…」


「違うの。笑い声が聞こえるわねって。」


「……」


 あたしはそばで同じように寝転んでたリズちゃんを見て。

 うん…

 確かによく声をあげて笑うよね…って思った。


「あら、可愛い~。」


「あー。」


 ここの誰か…って言われて。

 きっと、みんな知られてるんだなとは思ったけど…

 みんな日本人だから、リズちゃんが養女って事は見た目で分かると思うけど…

 何も言われなくて。

 何だか、ここではそういう事も普通なのかなあって思った。



「最近、二人は見ないからコンサートかしら?」


 沙都ちゃんの事情も知ってるんだ。


「はい…今月いっぱいはコンサートで…」


「じゃあ、海が旦那様かしら。」


「………はい。」


 少し…声が小さくなってしまった…けど…

 あたし…答えちゃった…答えちゃったよ…はい。って…!!



「何も考えずに堂々としてしまってました…」


 あたしが頭を抱えて泣きそうな顔をしてると。


「………」


 海さんはしばらくポカンとした後。


「………ふっ…」


 横を向いて、ふきだすのを我慢したような声を出した。


「あ…失礼……それは隣のスーザンかな。」


「はい…お隣の方でした…」


「近所には知られても仕方ないでしょう。でもこの辺りの皆さんは、いい具合にほっといて下さるので大丈夫ですよ。」


「そう…ですか。良かった…」


 本当…良かった。

 海さんが帰って来るまで、あたしは近所に知られてしまった事で悶々とし続けていた。

 これが…本物の結婚なら…?

 もっと堂々と言えただろうけど。

 …酔っ払って…の、結婚だし…

 今は『しばらく、このまま』の…様子見みたいな生活だし…



「今度から遅くなる時は先に寝て下さい。」


 あたしがキッチンに立つと、海さんが並んで言った。

 メールでも『食事をとって先に休んで下さい』って書いてくれてたんだけど…


「あー…ごめんなさい。何だか待っていたくて…」


 近所の人にバレた件、明日に持ち越したくなかったし!!


「…食事は?」


「あ、それは先にいただきました。海さんは?」


「俺は適当に食いながら仕事して来ましたから。」


「じゃあお茶でも入れましょうか?」


「別腹があるなら。」


「え?」


 そう言って、海さんは後ろに隠してた手を出して…


「…別腹あります。」


「良かった。」


 美味しそうなケーキの入った箱をあたしに見せた。




 〇二階堂 海


「……別腹あります。」


 俺が見せた箱を見て、そう言った咲華さん。

 何となくだが…寝ずに起きて待ってくれてる気がした俺は、二階堂御用達のホテルのレストランにあるケーキを買って帰った。


「良かった。」


 箱には中身が見える窓がついていて、咲華さんはそこからケーキを見て。


「イチゴのショートケーキとフルーツタルト?」


 …意外そうな声で言った。


「好みが分からなかったので…もしかして苦手でしたか?」


「いえ、アメリカのケーキって言ったら…カラフルで甘すぎるってイメージがあったもので…」


「そっちの方が良かったですか?」


「あっ、いいえ。どちらも美味しそうです。」



 咲華さんは。


「海さん、座ってて下さい。」


 俺を椅子に追いやると、鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で紅茶を入れてケーキを箱から取り出した。


「あっ、紅茶で良かったですか?」


 目の前に紅茶を置いてから、丸い目で問いかける咲華さん。


「いいですよ。仕事中はコーヒーが多いので。」


「そうですか…じゃあ…ケーキはどっちが?」


「咲華さん、好きな方をお取りください。」


「えっ…」


「……」


「……」


 真顔でケーキを見つめる姿に、内心噴き出しそうだったが…口を一文字にして耐えた。

 この女性は本当に…食いしん坊で、可愛らしい。



「あの…実は今日…もう一つあって…」


 咲華さんはケーキの皿を並べて置いて。


「リズちゃん、夕方にお腹壊しちゃって、しばらく不機嫌になってしまいました。」


 少し表情を暗くして言った。


「あっ…食べ物を前にして…ごめんなさい。」


「いや、それは全然…で、その後のリズの体調はどうでしたか?」


「夜には落ち着きました。」


「それは不安だったでしょう。連絡してくれたらよかったのに。」


 本当に。

 二人とも初めての子育て。

 分からないことだらけだ。

 ましてや、リズはずっとゴキゲンだった。

 体調を崩して不機嫌なリズ…

 俺が一人だったら、慌てて病院に駆け込んでる。



「あたしがいけないんです。あまりにもリズちゃんの食べっぷりがいいから…ついつい…」


「…それは俺もしてしまってます。今後はお互い気を付けましょう。」


「そうですね…」


 咲華さんは膝の上で両手を握りしめて、ひたすら反省の色。

 …色々任せ過ぎてるよな…

 リズの事だけでも、きっと大変なのに…



「…海さん…」


 ふいに、咲華さんが俺の目を見て背筋を伸ばした。


「はい。」


「提案なんですが…」


「何でしょう。」


 もしかして…

 いよいよ言われてしまうのだろうか。

 この生活に期限を付けた方がいい、と。


 もしくは…

 早く帰れる日は家事の分担をした方が…と?


 俺も若干背筋を伸ばして言葉を待っていると。


「ケーキ…半分ずつにしてもかまいませんか?」


「…はい…っ?」


「いつもはすぐに決められるんですが…何だか今日は…色々あって…」


「……」


 ああ…

 慣れない土地で、(酔っ払って)結婚して。

 いきなり赤ん坊を育てる羽目に。

 志麻とのそれを夢見ていたであろう咲華さんに、俺と。というあり得ない生活を始めさせた。


『今日色々あって』じゃない。

 こっちに来て、ずっと…だ。



「咲華さんが食べれるなら、二つともどうぞ?」


 俺が首を傾げて言うと。


「…真顔で言われると傷付きます…」


 咲華さんは目を細めた。


「え?でも…」


「お昼なら…いただくかもしれませんが、あたしは夕食も食べたし…こんな時間に二つ食べると、太っちゃいますよ。」


「……」


 正直、そんな事気にしてたのか。と思ってしまった。

 それほどに…咲華さんは、いつも…本当に、感心してしまうほど、食いっぷりがいい。


「じゃあ半分ずつに。」


 俺がそう言うと、咲華さんは少し尖ってた唇を元に戻して。


「イチゴは海さんにさしあげますね。」


 いつもの…

 ホッとする笑顔になった。

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