二十四話


 ギプノーザの目が驚きに見開かれる。


 ファルケンハイン。ドラゴンもその名は知っている。

 人間にとっては禁忌だが、ドラゴンたちにとっては真新しい技術を持つ異邦人だ。敵の敵は味方――というわけではないが、人間たちから忌み嫌われる禁忌の家に対して、ドラゴンたちは少し同情的だった。


 「無論貴殿にお出まし頂く必要は御座いません。私などではとても歯が立たないでしょうし。ですから、どなたかご指名頂いたドラゴンと私が決闘をし、勝った方の条件を呑む――いかがでしょう」


 ミルカは分かっていた。ギプノーザは既に長きを生き、ドミニコ種を統べる存在だ。その彼が簡単に自分の考えを翻すことができるはずもないことを。

 ファルケンハインの家と同じだ。ここで意見を変えるのは、今までやってきたこと、積み上げてきたもの、大勢の犠牲、数えきれないほどの時間、そういうものを踏みにじる行為でもある。もう後戻りはできない。もう振り返ることはできない。


 ギプノーザがドミニコ種の長であればなおのことだ。


 だからミルカは決闘を提案する。それは戦いに長じたドミニコ種が喜んで応ずることのできる唯一の選択肢。

 それでもギプノーザが決闘に応じるかどうかは五分五分だった。

 否と言われれば、ミルカたちは尻尾を巻いて逃げなければならない。その時は勿論クラウスも一緒だが、問題はこじれるだろう。


 「……決闘の意味を知っているのか? 小娘よ。いずれかが死ぬまで戦いは終わらぬ」

 「はい、知っています。その上で申し込んでいます」

 「良かろう。ドミニコ種に刃を向けるその不遜、後悔しても最早遅い。女だからとて容赦はせぬ。その身八つに裂いてやろうぞ」


 ギプノーザは決闘を受け入れた。


 死刑は一度中断され、若いドミニコ種のドラゴンが決闘相手として選ばれる。名はブンドゥク。若いといっても既にその体にはいくつもの傷跡がある。体もクラウスの二倍ほどはあるだろうか。


 それでもミルカは怖いと思わなかった。


 だって今日はひとりじゃない。



 

 ブンドゥクとミルカが対峙する。逸るドラゴンに比べて、ミルカはどこまでも落ち着いていた。美しい金の髪が風にそよいで揺れている。

 ダンはそれをじっと見つめていた。もし交渉が妥結しなかったら、決闘でけりをつける、と言い出したのはミルカだ。

 誇り高いドラゴンたちに言うことを聞かせるには、確かに良い案のように思えたが、あまりにも気軽に危険に飛び込む彼女の姿勢が不安だった。


 けれど今のミルカの表情は、捨て鉢になった者のそれではない。

 だからダンは黙ってミルカを送り出したのだ。


 結果がどうなろうと、最後まで見届けるつもりだった。彼はこの決闘がミルカにとって何になるか理解していた。


 「よき戦いが汝らの元に訪れんことを。――始めよ」


 その言葉に応じてブンドゥクが大きく翼を広げ、咆哮した。

 腹に響くその声は、狼の遠吠えにも似て長く長く心を貫いた。狂おしいほどの懐かしさを覚える声だった。

 かつて人と寄り添い生きていた、木龍の声だった。


 微動だにしないミルカに向けて、ブンドゥクはその咢を開く。

 牙の先端に金色の魔術文様が浮かび上がる。その文様はやがてブンドゥクの全身を覆うまでの大きさに広がったかと思うと、紅蓮の炎をどろりと吐き出した。


 ミルカの目に幾何学文様が浮かび上がる。それが青白く瞬き、消えた。

 吐きだされた炎を抉るように氷の牙が出現する。虎の咢を模したそれは、赤い炎を噛み砕き、ごくんと容易く飲み込んでしまった。


 ブンドゥクが次の文様を展開するより早く、その足元に氷の柱が出現する。体勢を崩した彼の小さな翼目がけて、小さな氷のつぶてが飛んだ。

 ブンドゥクが訛り混じりの言葉で悪態をついた。


 一つ一つは大した痛手ではない。けれど満足に動けない苛立ちがブンドゥクの認識を惑わせる。ひたひたと忍び寄る冷気に気づけぬまま、炎を何度も何度も吐いた。

 単調に吐かれる炎を冷静にしのぎながら、ミルカは何柱もの氷を地面から生やしてブンドゥクの行動範囲を狭めていった。気泡のない透き通った氷は、日の光を受けてエメラルドグリーンに輝いている。まるで輝聖石のようだ。


 ミルカは思い出している。姉と行った血の滲むような訓練を。体中の穴という穴から入り込む冷気の痛みを。喉の奥に苦いものが溜まっているような、あの嫌悪感を。


 それを全て魔術に乗せて放った。そのせいだろうか、今日はいつもよりとても調子が良い。冴え冴えと澄み渡る氷の、なんと鋭利なことだろう。

 しかしブンドゥクも歴戦のつわものだ。その氷が完全に退路を断つよりも早く、両翼の文様を展開し、空中に逃げてしまった


 ドミニコ種は“飛ばない”。その翼の羽ばたきではなく、両翼に刻まれた文様にマギを流し、自分の体を浮かせているのだ。


 「まずいな、上から狙われると厄介だぞ」


 ターヴィの言う通り、戦闘では上を取った者の方が有利だ。ブンドゥクが吐く炎は広範囲に及び、ミルカは前のように避けられなくなっていた。

 氷の壁を何枚も展開しながら威力を殺し、器用に逃げ回っているものの、上空への攻撃まで手が回っていなかった。


 その隙を狙ってブンドゥクが咆哮する。口元に文様が瞬いたかと思うと、ミルカの足元に青い炎が咲き、地面がどろりと溶け落ちた。


 「……高温の、炎!」


 咄嗟の氷の壁で、青白い炎から身を守ることはできたが、バランスを大きく崩した。その隙を狙ってブンドゥクが急降下してくる。古傷だらけのかぎづめが大きく開かれ、ミルカの胴体を狙う。ダンは思わずポケットの中の光線銃を握り締めた。


 人とドラゴンの眼差しが交差し、風を切る音が小気味よく響く。


 ギャアッと苦痛の声を上げたのはブンドゥクだった。その呻きには怯えが混じっている。

 ミルカの足元から巨大な氷の刃が生えていた。咄嗟に体内のマギを集めて足裏から放出したものだ。色を知らぬ氷が、ドラゴン特有のタールのような血にまみれ、湯気を立てながら溶けてゆく。


 ブンドゥクは脇腹を氷の槍で貫かれていた。

 しかしミルカも無傷ではない。かぎづめを完全には避けられず、肩を切り裂かれた。迸る鮮血の、目の覚めるような赤が彼女の氷を彩る。


 「ほう」


 ギプノーザが弾んだ声を漏らす。

 決闘では最初に負傷した方が負ける。怪我で動きが鈍くなったところを狙われるからだ。

 では今回の決闘はどうだろう。人もドラゴンも同時に傷を負い、血を流している。どちらが勝つかと言われれば――。


 「痛みに慣れている方が、勝利を手にするだろう」


 ギプノーザは当然、ブンドゥクについて述べたつもりだった。ドミニコ種の戦士は戦場で常に鍛え上げられている。人間のやわな小娘が太刀打ちできるわけがない。


 ないはず、なのに。


 ミルカの目に敗北の気配は微塵もない。幼い頃から他の子どものように遊ぶことも許されず、血反吐を吐くような訓練を続けてきたミルカにとって、この程度の痛みは恐れるに値しない。


 ほんとうに怖いものが何なのか、ミルカは知っている。向けられた敵意よりも、放たれた炎よりも、もっともっと怖いこと。


 それはひとりになってしまうことだ。


 「負けるわけには、いかないのよ!」


 赤い火花が散る如く、全身に文様が駆け巡る。ファルケンハインのとっておき、雪花魔術理論様式(ノリ・メ・タンゲーレ)。触れることを拒む初雪のように、触れた者の命を奪う絶対零度の氷のように、ミルカの全身が研ぎ澄まされてゆく。


 脇腹を貫かれ、よろけるブンドゥクの足元に氷の花々が咲く。曼殊沙華に似たその花は、細い花弁でブンドゥクの鱗に絡みつき、ドラゴンの体に冷気を染み込ませていった。

 ブンドゥクの体内で燃え盛っていたはずの炎が、徐々に小さくくすぶってゆく。腹の奥がずんと重くなり、地面に縫い留められたような錯覚を覚えた。


 もう空へ逃げるマギはない。ドラゴンは喉の奥で悔し気に鳴き、それでも眼光鋭くミルカを睨みつけた。己の劣勢を知ってなお敵を正視するその力強さに、そしてドミニコ種の矜持に敬意を払い、ミルカは全てのマギを右手に集中させた。


 ミルカの右手に氷の槍がさらりと現れる。それはダンの槍によく似ていて、鉄のつめたさと氷のつめたさを併せ持ち、しらじらと美しく輝いている。


 それは冬の湖のようだった。鏡面の如き透明度、触れれば即死の冷たい世界。


 槍を握るミルカの右腕が凍り付いてゆく。その瞳にちかちかと明滅する文様は、まるで消えゆく寸前の蝋燭のようだった。


 「穿て」


 槍が射出される。風を切る音を従えて、一直線にブンドゥクへと向かってゆく。

 決闘を見ていた人間もドラゴンも、一瞬のちの光景を想像して身をすくませた。あの槍は必ずやあの若いドラゴンの鱗を貫き、柔らかな腹を切り裂くだろう――。


 しかしその光景は幻に終わる。


 ミルカが貫いたのはブンドゥクの右の翼だった。彼の翼膜に霜が入り、血管から全身に冷気を送り込む。呼吸するたびに体の奥底が硬くこわばり、焔が消えてゆく。その焔はブンドゥクの命のともしびでもあって――。


 「そこまで」


 忌々しそうに言ったのは、ギプノーザだった。


 鷹揚に座してこの決闘を見守っていたはずのギプノーザが、立ち上がり、拳を握り締めてブンドゥクを見ていた。

 ブンドゥクは目を見開いてギプノーザを凝視している。

 若いドラゴンは鋭く鳴く。まだやれる、と訴えているのだろう。


 四肢がある限り、いや四肢をもがれても、その首一つで敵の喉笛に食らいつく――。それがドミニコ種の誇りであり、生き様であるはずだった。


 「もうよい。翼は我らドラゴンの命のようなもの。それを貫かれてはおしまいだ。……ファルケンハイン。汝の勝利だ」

 「じゃ、じゃあ……クラウスは」

 「好きにせよ」


 花菱がわっと声を上げてクラウスに抱き着く。

 ミルカは右こぶしを握り締め、全ての魔術を解除した。ブンドゥクの脇腹、そして翼を貫いていた氷が瞬く間に消え失せ、彼はがくりとうなだれた。仲間のドミニコ種が矢のように飛んできて、ブンドゥクをどこか別の場所へ連れて行った。


 石畳に点々と散る、ドラゴンの血。

 それを見送ったギプノーザは、聞き取れないほどの低い声で問うた。


 「……急所を外したのはなぜだ。興ざめだ」

 「あなたが止めると思っていました」


 ギプノーザは不機嫌そうにチッと舌を鳴らした。


 彼の脳裏を遥か昔の出来事が過ぎる。

 豪雪の中たった一人で山を逃げる若い頃のギプノーザ。寒さと疲労ですっかり艶を失った鱗、脇腹から流れ続ける血。腹の底に湛えていた炎は、寒さのせいで縮こまって今にも消えそうだ。

 ――そんな中、彼を必死に助けた人間がいた。年老いたその女は懸命にギプノーザを先導し、暖かな山小屋へと彼を避難させたのだ。


 昔の話だ。まだ人間に対してさほど悪意を持っていなかった頃の。

 その老婆とミルカが似ているというわけでもない。ただ彼女の全身からにじみ出る冷気が、昔を思い起こさせただけのこと。


 「我に何かを期待しているのだとすれば愚かなことだ。我が止めたのは、前途有望な若者が、このような決闘とも呼べぬ一方的な言いがかりで、深手を負うようなことがあってはならぬからだ。今日の運は汝に味方をしたようだな」


 ギプノーザはそう言うと興覚めしたようにそっぽを向き、部下を引き連れて去って行った。残されたミルカは、長い長いため息をつく。


 「肩の傷を治しましょう、ミルカ」


 いつもの冷静な声を聞いた瞬間、ミルカは急にダンに抱き着きたくてたまらなくなった。けれど人前だから、とぐっとこらえる。


 「治癒魔術なら父さんに習ったので覚えがあります。応急処置ですが」


 シャツの袖を裂き、傷口にじわじわと治癒魔術を滲ませてゆく。失われた血とマギがミルカの体に染み込んで、内側から彼女を暖めた。紙のように白かったミルカの頬に、僅かずつ血色が戻ってゆくのを見、ダンは微かに安堵した。


 そうして彼は用意していた言葉を口にする。



 「この度はご愁傷様で御座いました」



 ミルカは弾かれたようにダンを見る。

 大きく見開かれたその目に、涙の気配が滲みだす。


 「私はきちんと見届けましたよ。ミルカ・ファルケンハインの葬送を。氷に閉ざされた彼女が、永遠の眠りについたところを」

 「……困ったなあ、ダンは何でもお見通しなんだ」

 「きみはきっとそうするだろうと思いました」

 「ねえ、私はちゃんと、私を見送ることができたかな」

 「完璧でしたよ。私が言うのだから間違いありません。生者と死者の時間を繋ぐ、葬儀士が――」

 「あは、それじゃあきっと、うまくできたね。……”わたし”はもういない。ミルカ・ファルケンハインは、死んだんだ。もう私を縛る忌まわしい禁忌の家はどこにもない。どこにも、ないんだ……」」


 へらっと、下がった眉で笑うミルカ。

 その目に大きな涙が浮かび、ついに決壊してぽろりと零れた。一つ、二つ。三つめからはもう数えない。

 

 声を上げずに泣き続けるミルカの腕を、ダンは黙って治療した。

 

 おぞましい血とはここでお別れだ。ミルカ・ファルケンハインはここで死んだ。ファルケンハインの生き残りは途絶える。

 けれど、姉を死なせてしまった自分は一生ついて回る。後悔しない日なんてないだろう。自分がもっとしっかりしていれば、ちゃんとしていれば、そう思い続けるのだろう。

 それがつまり、生きているということだ。

 

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