第42話

 必要のないことは喋らない店長に装飾の少ない店内には、常連ばかりがやってくる。路地裏にあるカフェは隠れ家のようで、新たな客は入りにくいのかもしれなかった。


 おかげで、カフェは穏やかな空気が流れている。


 接客業に向いているとは思わないが、カフェの雰囲気のおかげか常連とのちょっとした会話は楽しくもある。

 カフェの店員が自分である必要があるかどうかはわからない。だが、人員不足の今だけは必要とされていると思える。


 悪くないと藤花は思う。

 しかし、店長が美芳であるということは大きな問題で、仕事には慣れたが未だに彼女に慣れることができない。そのせいか、働き始めて初めての土曜日は寝て過ごすことになった。


 疲れているとは思わなかったが、それなりに体は疲れているらしい。藤花は今日もできることなら寝て過ごしたいと思うが、そろそろ菖子を迎えに行く時間になる。


 午後二時の約束は、もう少し先にしても良かった。


 昼食からしばらく経って瞼が重たくなった藤花は、頬をぱんっと一回叩く。ノートパソコンの前に座ってSNSにアクセスするが、メッセージは届いていない。前世に関するキーワードを入力して検索しても、めぼしい情報はなかった。


 美芳は、あれからなにも変わらない。

 菖子に前世のことを話したのか。

 それすら聞いてこなかった。

 自分から話すようなことでもなく、時間は何事もなかったかのように進んでいる。


「そろそろ行こうかな」


 藤花は、誰に言うともなく呟いて立ち上がる。車のキーを持って、リビングに声をかけてから家を出る。九月も終わりに近づいているというのに、どこからか蝉の声が聞こえてきて藤花は顔を顰めた。それでも、八月に比べれば幾分涼しくなったような気がする。駐車場にとめている車の中も、真夏に比べれば暑くはなかった。


 運転席に座って、エンジンをかける、エアコンを入れて車を走らせれば、予定よりも早く菖子の家に着く。スマートフォンを取り出して『着いた』とメッセージを送ると、すぐに菖子が外へ出てきた。


「お待たせ」


 助手席に乗り込んできた菖子が明るく言う。


「相変わらず元気良いね」

「藤花は元気ないの?」

「あるけど高校生には負けるよ」


 二十四という歳を若くないと言うつもりはないが、高校時代に比べれば無理が利かなくなった。無尽蔵の体力がある高校生とは違う。


「元気があるなら、どこか連れてってよ。ドライブでもいいし」

「そんな元気はないから、家に直行する」


 藤花は、菖子の提案を却下する。

 家には菫と柚葉がいる。菖子を連れて帰ればあれこれといらぬ詮索をされそうだが、今はドライブという気分ではない。それなりの元気があっても、車を長時間走らせるほどの気力はなかった。


 菖子もどこかへ行くということにこだわっているわけではないらしく、「残念」とさして残念でもなさそうに言ってシートベルトを締める。

 藤花はアクセルを踏み、来た道を戻っていく。


「菖子」

「なに?」

「あれから夢見たりした?」


 話すことはたくさんあるようで限られている。


 高校生とは共通点がそう多くない。菖子と話すなら前世か、それに類する話題が主になる。だから、はっきりとした目的があって口にしたわけではない。藤花は、雑談の一つとして夢の話をした。にもかかわらず、珍しく菖子が言い淀んだ。


「見ないこともないけど」

「見たんだ?」

「うん、まあ」

「どんな夢だった?」

「……藤花の部屋に着いてから話してもいい?」

「いいけど」


 淡藤と菖蒲に関することで、今ここでは言いにくい夢。


 考えて真っ先に浮かんだのは、ベッドの上でのことだ。だが、事細かに起こったことを話すというわけでもなければ、二人きりの車内で言い淀むような話題でもない。


 では、どんな夢なのか。


 今までも見た夢を思い返しても思い当たる夢があるわけもなく、寄り道をせずにアクセルを踏み続ければ家へはあっという間に着いた。リビングの家族に聞こえないように小さな声で「ただいま」と言ってから、藤花は菖子を部屋へ案内する。


「で、どんな夢だったの?」


 持ってきたアイスコーヒーをテーブルの上に並べながら尋ねるが、答えは聞こえてこない。かわりに、向かい側に置いたアイスコーヒーが藤花のグラスの隣に置かれ、菖子も隣にやってくる。

 そして、菖子が息を吸い込み、諦めたように言った。


「……蘇芳が出てきた」

「蘇芳だけ?」

「違う。淡藤も出てきた。蘇芳が脱走しようとして、反省部屋に連れて行かれる夢。……それで、淡藤がすごく心配してた」


 そういうことか、と藤花は思う。


 淡藤が蘇芳に心を砕いていた。

 菖子はそれが不満で、口に出したくなかったと想像できる。藤花が尋ねなければ、この夢の話は語られることなく闇に葬り去られていたかもしれない。


 あまり触らない方が良い話題だ。

 それはわかっているが、藤花は尋ねずにはいられない。


「仲良さそうだった?」

「――さあ、どうだろう」


 言葉を詰まらせ、菖子がアイスコーヒーを一口飲む。それはどう見ても質問に対する答えを持っている態度で、藤花はもう一度問いかける。


「他に何かなかった?」

「ない」

「何か隠してない?」

「……淡藤、蘇芳にキスされてた。菖蒲の前で」


 ぼそりと菖子が言う。


「え?」


 藤花は間の抜けた声を出し、菖子を見つめる。


 何かあっただろうことは予想できたが、菖子が口にしたような内容は考えていなかった。美芳の行動からすると、淡藤と蘇芳がキスをしていることはそうおかしなことではない。しかし、菖蒲の前でキスをするような関係は藤花の想像の範囲を超えていた。時系列を無視した夢は、繋ぎ合わせても筋の通ったストーリーを作れず、混乱ばかりを連れてくる。


「藤花は、蘇芳のこと夢に見てないの?」


 肩と肩が触れ合いそうなくらい近い距離で、菖子が不機嫌な声を出す。


「ちょっと待って。そのときの淡藤って、菖蒲とはどういう関係になってたの?」


 藤花は、夢が作った空白を埋めるべく菖子に尋ねる。


「短い夢だったからよくわからない」


 菖子があっさりと答えて、藤花の手を掴む。


「藤花。あの店長に何かされたりしてない?」


 夢と現実を繋ぎ合わせた結果から予想できること。


 おそらく、菖子はそれを口にしただけだ。

 だが、それは間違いのない事実で藤花が隠していた事実だった。


「……」


 沈黙は肯定と同じで、菖子の瞳がわずかに揺れる。


「何かされたんだ」


 表情は変わらないが菖子のグラスからアイスコーヒーの量が一気に減って、藤花は黙っているべきではないと覚悟を決める。


「初日にキスされそうになった。でも、ちゃんと断ったし、それからそういうことはないから大丈夫」


 藤花は掴まれた手を握り返して、口角を上げる。明らかな作り笑いが顔に張り付いて、菖子が小さく息を吐いた。


「藤花。バイト辞めろなんて言わないから――」


 言葉はそこで止まって、続きが聞こえてこない。菖子の中に留まっている言葉を引き出すべく、藤花は声をかけた。


「言わないから、なに?」

「キスさせてよ」


 聞こえてきた声は小さかったが、手が強く握られる。


 一瞬、躊躇ってから菖子が身を寄せてくる。そして、藤花がいいと言う前に唇が触れ合った。


 真っ直ぐで不器用な菖子は憎めない。

 美芳にしたようにキスを拒むこともできた。

 だが、藤花は菖子を受け入れた。


 藤花の中の淡藤がそう感じさせているのか、菖子の唇から流れ込んでくる熱は心地が良い。唇を薄く開いて菖子の舌を迎え入れると、遠慮がちに口内を探ってくる。お互いの舌先が触れるが、絡め合うことなく唇が離れる。


 そのくせ、足りないというようにもう一度唇が触れてきて、Tシャツの裾から手も入り込んでくる。少し冷たい手に、藤花は我に返った。


「菖子。これ以上は駄目」

「なんで?」

「なんででも」


 藤花は脇腹に触れる菖子の手を引っ張り出して、床の上にぺたりと置く。


「あの店長のものになったりしない?」

「佐久間美芳」

「店長の名前?」

「そう。で、私はものじゃないし、佐久間さんは苦手なタイプ」

「本当に?」


 疑いの目が向けられて、藤花は断言する。


「本当に」


 床に置いた手を握ると、菖子が「ならいいけど」と呟くように言ってグラスのアイスコーヒーを飲み干す。


「もう一度キスしたい」

「もう駄目」


 年相応のねだるような声に、藤花は即答した。


 菖子の言葉に応えたいとも思うが、その思いが自分自身のものであるのか自信がない。菖子に引っ張られ、流されることは不快ではないが、冷静になってみると前世に操られているような気がして前へ進めなくなる。


「バイトは続けるんだよね?」


 不甲斐ない藤花を救うように、菖子が話題を変える。


「母親の紹介だから辞めるわけにはいかないし、しばらく働くしかないかな。ついでに、佐久間さんにもう少し話を聞いてみる。まだ能力のことも聞いてないし、私たちの知らないことも知ってそうだしね」

「私も蘇芳と話したい」


 いつか言い出すに違いないと思っていた言葉に、藤花は息を小さく吐き出す。面倒だとまでは言わないが、楽しいことにはならない予感がする。


「蘇芳って、菖蒲とあまり仲良くなかったみたいだけど大丈夫?」

「それは、話してみないとわからない。だから、お客としてじゃなくて前世の仲間として会いたい」


 気は乗らないが、菖子は言い出したらきかない。となると、藤花の前には彼女の希望を叶える方向へ進む道しかない。


「とりあえず、佐久間さんに菖子のことを話してみるから」

「わかった」


 菖子が嬉しいのか嬉しくないのかわからない声で言い、藤花に肩をぶつけた。

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