はためくスカーフ

第5話

 誰かの記憶と夢の境目、甲高い音が現実を連れてくる。


 聞き慣れたアラーム音に目をこじ開ければ、照明がぺたりと張り付いたクリーム色の天井が藤花とうかの目に映った。白に囲われた落ち着かない部屋ではなく、見慣れた光景に体を起こす。


 夢と言うには、生々しい感触。

 囁く声が耳に、唇の感触が体に残っていた。


 藤花は、パジャマに触れてボタンが留められていることを確認する。五つあるボタンは、一つとして外れていない。いつものように、すべて留められていた。


「夢、だよね」


 藤花は、柔らかなベッドの上で一人呟く。

 夢に出てきた淡藤あわふじ菖蒲あやめという名前には、心当たりがある。昨日、菖子しょうこから聞いた名前で、彼女の言い分が正しければ淡藤が藤花で、菖蒲が菖子だ。そして、夢の二人は藤花と菖子の前世ということになる。


 馬鹿げている。


 藤花は、体に残る夢の残り香を振り払うように長い髪をかき上げた。しかし、くだらない夢は頭に張り付いて剥がれない。


 彼女の言葉を信じる、信じないは別として、淡藤と菖蒲の二人は夢とは思えない精度で描写されていた。現実世界で見て、聞いて、触れたものと変わらないほど密度の高い映像だった。だが、少し前に見ていたものは夢以外のものではなく、現実ではない。


 藤花には、夢だという自覚があった。しかし、体にはまるで自分が体験したかのような感覚が残っている。あれが前世だと言われたら、信じてしまいそうになるほどに。


 藤花は目覚まし代わりのスマートフォンを手に取って、時間を確認する。


 午前六時八分。


 よく寝たはずなのに、疲れが取れていない。それどころか、一晩中起きていたかのような倦怠感が纏わり付いていた。


 藤花は、「あれは夢だ」と自分自身に言い聞かせる。現実に近い夢を現実として受け止める必要はない。少女との印象的な出会いが引き金になり、無意識が作り出した。ただそれだけのものだと思う。


 夢は脳が見聞きした情報を眠っている間に整理し、その過程を再生している様子を見ているものだとも言われている。それを考えると、夕方の出来事を整理する過程に想像力が悪さをして、ちょっとしたおまけを付け加えた映像を見ただけとも考えられる。


 そもそも、超能力者を塔に隔離し、訓練を行うなど荒唐無稽な話だ。あれが前世であったら、いつの時代、どの場所になるのだというのか。説明がつかない。そして、夢では二十四歳と高校生という年の差も消えていた。


 辻褄が合わないと藤花は思う。


 だが、矛盾だらけの夢を力づくで前世に結びつける必要はない。夢は夢、現実は現実として区別するべきだ。ベッドの上でいつまでも夢に思いを馳せていても、それが前世かどうかは判然としない。朝の限られた時間、藤花にはすべきことがある。


 ふう、と息を吐き出し、パジャマのままリビングへ向かう。廊下でにゃあこを撫で、キッチンで朝食の準備をする菫に挨拶をする。テーブルの上に置かれたテレビのリモコンを取って電源を入れると、画面にニュースキャスターが映り、それと同時に菫の声が聞こえてくる。


「会社、月末までだっけ?」

「うん。有給使うから、最後の方は休むけど」

「立つ鳥跡を濁さずだからね」


 藤花は「わかってる」と答えて、カウンターの上に置かれた食器を運ぶ。


「柚葉よりはちゃんとするから、大丈夫」

「お母さんからしたら、どっちも変わらないわよ」

「ええー」


 いい加減が服を着て歩いているような柚葉と同じカテゴリーに放り込まれ、藤花は抗議の声を上げた。しかし、菫が訂正するどころか、追い打ちをかけるような言葉を発する。


「居眠りしないようにね」

「柚葉じゃないんだから、しないって」

「まだ三時間くらい眠れますって顔して言っても、説得力ゼロね」

「え、そんなに眠そう?」

「目、半分くらい閉じてるわよ」

「昨日、早く寝たんだけどな」

「そうは見えないけど……。大丈夫なの?」


 菫がキッチンからリビングへやってきて、藤花をまじまじと見る。皮膚を通り抜け、血液の流れまで目に映そうとする視線からは、娘の体を案じていることが伺えた。


 藤花には自分が今、どんな顔をしているかはわからない。だが、菫の不安を吹き飛ばすように明るく答える。


「大丈夫。眠くないから平気。ちょっと夢見が悪かっただけだから」

「ならいいけど」


 細部までくっきりとした夢のせいか、よく眠れたとは言えない。しかし、眠くはなかった。頭は冴えている。


 菫に返した言葉は、嘘ではない。

 藤花は、テーブルに並べたご飯と味噌汁、焼き魚を食べて家を出る。

 外は、六月の朝とは思えないほど暑い。梅雨を忘れた空には、雲一つなかった。


 いつものようにバスに乗って、お洒落とは言えない灰色に覆われたビルを目指す。ぎゅうぎゅう詰めとまではいかないが、パーソナルスペースなど存在しない車内で汗を拭う。会社に着く頃には、朝の爽やかさを置き去りにしてきた姿になっているだろうと思うと、気分が沈む。


 楽しいことはないかと窓の外へ目をやると、今どきとは言えない古風なセーラー服が見えた。


 歩道を歩く高校生に、菖子が重なる。

 彼女は、何度も生まれ変わったようなことを言っていた。


 菖蒲という人間の生を終えた後、新たな人間として何度か生きたのならば、同い年だった人間に年の差が生まれてもおかしくはない。

 何人もの人生を挟まなかったとしても、前世で淡藤が先に死に、先に転生したとすれば年齢に関しては辻褄が合う。


 しかし、彼女たちが生きていたであろう時代には不自然な点が残る。二人が閉じ込められていた塔にあったものは、現代にあるものとさほどかわらなかった。机も、椅子も、ベッドも。すべてがこの時代で使っているものに似ていた。


 それは、そこが現代だと言われたら信じられるほどで、前世というには時代が近い。


 藤花は、そこまで考えてため息をついた。

 前世を信じたくて仕方がないように、矛盾点をなくそうとしている。明らかに、前世に囚われかけていた。


 窓の外から、視線を車内へと戻す。

 明るい顔をした学生。

 疲れた顔をした会社員。

 どこへ行くのかはしゃいでいる私服姿の女性。


 たくさんの顔を見ながら、会社へと運ばれる。駅の二つ手前のバス停で下り、不機嫌そうに見える五階建てのビルへ入った。藤花はロッカールームに向かい、垢抜けない制服に着替える。


 仕事は、それほど難しいものではない。

 データ入力や書類の管理、来客の対応から他の社員のサポートまで手が空いていれば何でもやるが、基本的にはどれも誰にでもできることだ。


 中小企業の中に近い企業だが、社員はそれほどいない。藤花が退職することはそれなりの痛手だろうが、代えがないというような職種ではなかった。


 そのうち新入社員がやってきて、藤花が抜けた穴を埋める。

 それだけの存在だ。

 今日も、昨日と同じように仕事をこなす。繰り返された毎日と異なることは、次へ向けての引き継ぎを行わなければならないことくらいだった。


「川上さん、お昼どうする?」


 十二時より少し前、隣の席から手を休めることなく先輩が問いかけてくる。


「ちょっと行きたいところがあるので」


 藤花がディスプレイから目を離さずに答えると、「わかった」と小さな声が聞こえた。

 今日は、菫が作ったお弁当を持ってきている。だから、行き先は決まっていた。


 藤花は切りが良いところまで書類をまとめると、屋上へと向かう。

 昨日のことを考えると、不安がないわけではなかった。だが、まともな学生なら平日の昼間は学校にいる。菖子は普通ではないように見えたが、崩すことなくきっちりと着ていた制服から学校をサボることはないだろうと藤花は思う。


 三階からエレベーターで五階へ行き、そこから屋上へ続く階段を上る。灰色で覆われた空間に、かつかつと高い音が響く。昨日とは違うパンプスが、薄暗い階段に人がいることを主張していた。

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