第四幕 ⅱ


 第四幕アクトフオウ



     ⅱ


 雲一つない夜空である。

 黒いとばりの上に浮かんだ二つの月の輝きで、星々の瞬きも小さく身を竦めている。

 その空をぼんやり映す有栖川ミチルの瞳には、なんの感情も浮かんではいなかった。痛みも苦しみも悲しみもない。ただ体だけが、時々びくりと震え、首筋から流れて鎖骨の窪みに溜まった血を地面に散らした。

 そんな彼女の様子を一瞥してから、シグルドはオズに「飲んだのか」と訊いた。

 二人の間には、水溜まりとビビアンを挟んで微妙な距離があり、会話をするにはいささか不便であったが、どちらもそれ以上歩み寄ろうとはしなかった。

「腹ごしらえをしろと言ったのは貴様だろう?」

 五羽目の鴉を破壊して、オズが記憶を探る目をした。

が、一番最初に地下墳墓カタコンベに下りてきた獲物だったのだ」

「にしては、食いつくのがずいぶん遅かったようですが」

 言って、シグルドはわずかに革靴の先をミチルのいるほうに向けた。

「よもや貴殿まで、刷り込み薬に屈服して腑抜けになろうとは思いませんでしたよ」

「誰が腑抜けだ。大体、なんだ? ひとがせっかく気持ちよく寝ているところを勝手に起こしておいて、詫びの一つも入れないつもりか?」

「おや申し訳ない。これでよろしいかな?」

「ほう?」

 一拍おいて、風もないのに木々がどよめいた。同時に、その場の空気が電気を帯びたように張り詰めて、先ほどまで鳴いていた鴉たちが一斉に口を閉ざす。ビビアンの体が棒のように硬直した。すべては、オズの体から発せられた怒りの波動ゆえであった。

 しかし、

「やめましょう」

 正面から波動を受け止めたシグルドは、まったく表情を変えずに横へ流した。

「貴殿と喧嘩をする気はない。口で謝るだけでは不満だと言うのなら、お詫びの品でも差し上げよう。何がよろしいか? 人か、血か、それとも遊び相手か?」

 どこか歌うように尋ねるシグルドの目が、自分の前でへたり込んでいる使い魔を初めて捉えた。

「なんなら、これをあげてもいいが?」

 彼の申し出に、オズよりも早く反応したのはビビアンである。硬直した体を飛び上がらせて、「主人マスター!?」と叫ぶ。

「ど、ど、ど、どうしてそんな! ボクはあなたの使い魔です!」

 悲痛な声を出すビビアンを、シグルドが冷たく見返した。

「その通りだビィビィ。だから私がきみをどう使おうと構うまい」

「構います! ボクはあなたのために働いてきたんです。あ、あ、あいつ、いや、あのオズ様の玩具おもちゃになるために目覚めたわけじゃありません!」

 泥の上で必死になる使い魔は、オズの遊び相手になるということが何を意味するのかよく理解していた。一瞬で破壊された下僕の鴉たちのように、戯れに殺されるのである。

「嫌です嫌です。見捨てないでください! 何かボクに落ち度があったならお許しください。これまで以上に頑張りますから、だから、だから、シドー様!」

 小さな子供のように首を振って泣くビビアンの頭に、シグルドが静かに片手を載せた。

「シドー様」

 宥めるように頭を撫でられ、使い魔が大人しくなる。

「こちらからは有栖川ミチルを巻き込むな、と言っておいたはずだが?」

 使い魔の頭に手を置いたまま、シグルドは視線をミチルにやった。途端にビビアンが大仰おおぎょうにおののいて言い訳をする。

「ボ、ボクはご命令通りにしました! でも、彼女が勝手に一人でここへ来ちゃったんですよ。もともとボクが張った結界の中にいたから、体が順応しててこっちの結界にも入れちゃったみたいで……あ、ああそうだ! ですから、彼女を隔離しておいた部屋の結界をいた奴がいたんです! たぶん、そいつのせいでこんなことに!」

「なるほど。しかし結界を解いたのは私だ」

「そうです、結界を解いたのは──え?」

 言われたことが飲み込めず、ぽかんとくちばしを開いた鳥顔を、シグルドは感情の読めない目で見つめた。

「正確に言えば、実行したのは彼女の兄だがね。が、入れ知恵をしたのは私だ」

「な、なぜです? 巻き込むなって言ったのに」

「きみが余計なことをしたからだ」

「余計なこと?」

 ビビアンが聞き返した瞬間、依然として傍らの水溜まりから生えていた畜産部長の腕にぼっと火がついた。誰も手を触れず、火種もないのに着火した炎は、周囲の水気をものともせずに尋常ならざる勢いで燃え上がり、見る間に腕を炭に変えていった。

「確かに十人目は自由にしていいと言ったが、これまでの行動パターンを乱す許可は与えていない」

 火勢とは対照的に、シグルドの声は氷の如く冷えていた。

「遺体を大きく損傷した上に、ゴミ捨て場に置くとは……どういうことだ?」

「ど、どうって」

「しかも現場には赤の帽子屋の代名詞たる例の傘を残している。ゆえに人間たちは、今回の事件もこれまでと同じ犯人だと思うだろう。手口の違いに気づいたとて、無関係とは思うまい。実際それで正しい。だが私は不愉快だ」

「シドー様、あの」

「せっかくに、きみは泥を塗ったのだ」

 使い魔の言葉を遮ってシグルドが言い放つと、燃え尽きた畜産部長の腕が乾いた音をたてて崩れ落ちた。

「それにきみは、すでに一つ命令違反を起こしている」

 腕の残骸には目もくれず、シグルドは鳥頭に載っていた手を動かした。ビビアンの肩口を撫でて、上着のシルエットの中に滑り込み、懐から空色の卵を取り出す。咄嗟にビビアンは短く叫んだものの、どうすることもできずに項垂れた。

「巻き込むなということは、手を出すな、と同じ意味だとわからなかったのかね?」

 ミチルの闇を内包した卵を手の平で転がして、シグルドは目を細めた。

 卵の表面には、以前よりも複雑な紋様が浮き上がり、底部の赤い花は一回り大きく咲き誇っている。しかし、初見のシグルドはもとより、ビビアンも狼狽のあまりそれに気づかなかった。

「だっ、だってすごく美味しそうで……!」

「理由など聞いていない」

 慌てて言い募る使い魔の目の前で、主人は卵を握り潰した。音もなく砕けた殻は中身と共に闇夜に散り、風にさらわれて跡形もなく消え失せる。

「こんなことをしていては、〝あの男〟を警戒させるだけだ」

 ビビアンが体をがくがく震わせて地面に突っ伏した。

「す、みません。ごめんなさい。もう勝手なことは二度としません!」

「では最後ぐらい役に立ちたまえ。オズの相手をしてさしあげなさい」

「や、や、それだけはご勘弁を!」

「なあ」

 悲鳴を上げるビビアンに続いて、それまで黙っていたオズが口を挟んだ。

「そんな出来の悪いのをもらっても、私も困るぞ」

 二人のやりとりに毒気を抜かれたのか、発散していた怒りの波動はいつの間にか収まっている。シグルドが彼のほうへ顔を向けた。

「貴殿の相手ぐらいは務まろう。これでも、ソラの指輪にかしづく七十二の悪魔の一員だ」

「それは知ってる。が、どうやら全盛期ほどの力はないように見える。眠っている間に著しく衰えたのではないか? その使い魔も、貴様も、私も」

 束の間、シグルドは沈黙した。その常に無表情を貼り付けている顔を眺めてから、オズが天空の双子月に視線を飛ばす。

「私はいまだに、なぜ己が眠りについていたのか思い出せないのだシド。そもそも、月は昔から二つだったかな? どうも一つ多いような気がしてならない」

「その通りですよオズ」

 やや深く呼吸をして、シグルドも使い魔から夜空へと目を上げた。

「私も以前は同じ疑問を抱いていた。いや、私だけではない。箱舟の眠りから覚醒した魔族はすべからく同じことを尋ねるのです。ここはどこだ? ──とね」

「で、どこなのだ?」

「さて」

 シグルドの首が、気持ち斜めに傾げられる。

「いろいろ調べましたが、はっきりしません。眠りが長すぎたのか、人間たちに刷り込み薬を投与された影響か、忘却していることが多くてね。我らの記憶の中にある風景と、今の地上の風景のどちらが正しいのかもわからない」

「どちらかが違うのか?」

「さて」

 また首を傾げた同胞に、オズはふと思いついたような意地悪い笑みを見せた。

「しかしまあ、いくつか覚えていることや、わかることはあるぞ。今も昔も私は貴様が嫌いで、貴様がさっき言った〝あの男〟とはカインのことだな?」

「…………」

 再び訪れた沈黙は、けれど前とは明らかに質が異なっていた。カイン、という名前を耳にした直後、これまで無表情を保っていたシグルドの片眉が、器用かつ不快そうに持ち上がったのである。

「話が早くて結構」

 遅れて答えた声も、わずかに尖っていた。

「前にも話しましたが、貴殿には裏切り者の始末を手伝ってもらいたい」

「それはカインのことか?」

「ええ」

 今度は冷静に首肯して、シグルドは十八年前に起きた仲間の裏切り行為を大まかに語った。それは、箱舟管理局ビルディングにて局長の宇都宮公義うつのみやこうぎが、継子ままこのヒロムに明かした話とほぼ同じ内容だった。

「ふうん。あのカインがねぇ」

 話を聞き終えて、オズはひどく面倒臭そうな顔をする。

「なぜ私に手伝わせる?」

「貴殿なら同族討ちを厭わないでしょう」

「他の奴らでもそうだと思うが?」

 そこで珍しく、シグルドは逡巡する素振りをしてから、ぽつりとつぶやいた。

黄昏吸血鬼トワイライト・バンパイヤ

「はあん?」

「お忘れかな? 貴殿の二つ名ですよ。認めたくはないが、弱点の設定が曖昧な貴殿は、血さえ足りていれば我らの中でもっとも動ける」

 オズが、わかったようなわからないような声で「ああ」と返す。

「お前らは好き嫌いが多いからな」

「単に好き嫌いの問題ではありませんが……まあよろしい。あとは、たまたまです」

「たまたま?」

「偶然に手に入った鍵が、貴殿の眠りを解くものだったというだけのことです」

 彼の言葉は、暗に『OZ』と刻印された緑柱石エメラルドの短剣を指していた。心臓に突き立てられた時の感覚を思い出したのか、オズがうっすら顔をしかめる。そうして一言、

「お前も暇だな」

 とぼやいた。

 瞬間、シグルドの顔から血の気が失せた。もともと白かった面立ちが、たちまち能面のように変わり、凄惨な色になる。

「暇?」

 つい今しがたオズがそうしたように、彼の感情が空気に伝染して、風もないのに周囲の木々がどよめいた。大きな羽音が次から次へと湧き上がり、鴉たちが夜空に飛び立っていく。異様な雰囲気に本能が耐えられず、我先にと逃げ出したのだ。

 続いて、鴉たちの首魁しゅかいであるビビアンもまた、

「裏切り者への制裁が暇つぶしだと?」

 限りなく低く抑えた声でシグルドが言ったのを合図に、身をひるがえした。

 ビビアンにとって、もはや主人は味方ではなかった。己の行為がもとで機嫌を損ねてしまった以上、この先はシグルド自身の手で始末されるか、悪くするとオズに差し出されて壊されるのが落ちである。どちらも嫌であった。ゆえに逃げるのだ。無我夢中で茂みの中を這っていく彼の前に、その時、濃い赤茶色のローファーが現れた。

 窪地の泥で汚れた靴を履いているのは、紺色のハイソックスに包まれた細い足である。その、力なく深草の上に投げ出された両足の先は、帝国學園高等部の制服を着た少女の弛緩した体へと繋がっていた。

「……ミチル」

 ビビアンのつぶやきに返事はなかった。

 彼女の虚ろな眼差しは、ただひたすらに夜空へと向いている。近くに寄った使い魔が巨大な鳥の頭を目の前に突き出しても、その眼差しが変化することはなかった。さっきまでは定期的に痙攣していた体も、時と共に間隔が開いていき、今では思い出したように首が揺れる程度である。

「かわいそうに」

 死にゆく少女の青白い顔を、ビビアンはしんみりと見下ろした。

「あんな奴に気を許したりするからだよ。吸血鬼はボクら魔族の中でもとくに古くに作られた厄介な一族なんだ。数は少ないくせに馬鹿みたいに力が強くてなんでもできる。だから弱点を設定されてたり、制御暗号コードだとかキーだとかで拘束ロックを掛けてあるらしいけど、それでも血を吸った途端に、あんな風にわけがわからないバケモノになる」

 そう言ってビビアンがちらりと窺った背後では、剣呑な様子のシグルドと、それを愉快そうに眺めるオズがいた。彼らは同族ではあるが、決して馴れ合う関係ではなかった。むしろ、己が楽しむためには相手を挑発し、無意味な仲違いさえしようとする。とくにオズのほうは無駄に好戦的な気質を持っているように思われた。

「吸血鬼に襲われた人間が助かることはない」

 暗い声で独りごちて、ビビアンはミチルの上に屈み込んだ。オズが牙をたてた傷口からは依然として出血が続いている。

「伝承では奴らと同じ吸血鬼になるとか言うけど、ボクが記憶する知識では違う。死んでしまうんだ。だって、人間の弱い皮膚や肉では、奴らの牙でいた穴を塞ぐことはできないから……」

 鎖骨の窪みに溜まった赤い粘液を指ですくって、鳥頭の使い魔はもう一度「かわいそうに」とつぶやいた。そうして、鋭い嘴を動かない少女の顔に近付ける。

「どうせ死ぬなら、ボクが」

 ビビアンの指がミチルの頬をなぞった。他でもない、彼女自身の血で肌の上が赤く染まって、小さな雫が唇に色を落とす。

「食べてあげるよ」

 どこか陶然として、使い魔はミチルの上に覆い被さった。そのため、彼女の半開きになった口を舌が割り、ちろりと、唇の赤い染みを舐めたことに気づかなかった。

 二つの月を映し続けていたミチルの瞳に、淡く光が宿る。それは最初、海の底から水面を眺めた時のように朧気だったが、次第に強く大きく広がっていき、一つ瞬きをすると鮮明な赤い色になった。

 オズのような血色とは少し違う。月光を受けて澄んだ輝きを放つ紅玉ルビー色である。

 何度か瞬きを繰り返して瞳の色を定着させたミチルは、次に深く長い息を吐いた。

 その息は覆い被さっていた鳥頭を静かに撫でて、彼女の首にむしゃぶりつこうとしていた使い魔を訝らせた。

「ミチル?」

 思わず体を起こしたビビアンを、紅い目が無言で見返す。

 無表情であった。

 シグルドのような性格からくる表情の欠如ではない。心そのものが欠如してしまったかのような、無の表情であった。

 深草の上に投げ出されていた右手が上がる。揺らめいた細い指が、自分の目の前で首を傾げる鳥頭に優しく触れた。続いて黒い羽を掻きながらゆっくりと下降していく。指の動きに伴い、ミチルの右膝が徐々に持ち上がり、大きく捲れた制服のスカートから白いももが露わになった。

「ミチル……」

 嘴の脇を愛撫されて、ビビアンの声に再び陶然とした色が混じった。彼女の指はさらに下る。ややあって、喉元に達したところで止まった。ほぼ同時に、のしかかってくる使い魔の腹をまさぐっていた右膝も、位置を確かめるように上下に振れてから動きを止めた。

「ミチ?」

 何か勘違いをしていたらしいビビアンの三度目の呼びかけは、途中で切れた。

 切らされたと言ってもいい。

 声が、ミチルの右手によって無理矢理に喉と一緒に潰れたのだ。

「ぐ」

 いつの間にか上がっていた左手も添えられ、巨大な鳥の首が絞まる。一瞬、硬直した使い魔は、すぐにかっと目を見開いて猛烈に暴れ出した。しかし腹部に痛烈な一撃りを食らって勢いが弱まる。鳩尾に彼女の膝がめり込んだのだ。

「…………」

 ミチルの顔は、依然として無表情であった。

 何も考えず思わず、ただ相手の腹を蹴り上げ、ぎゅうぎゅうと首を絞めていく。

 その力はすさまじく、とても十七歳の小娘が持てるものではなかった。ついには仰向けの姿勢から起き上がって絞めるに至り、本気で危機感を覚えたビビアンは我を忘れて手足を振るった。だが驚いたことに、それでもミチルの手は外れなかった。

 仰け反った使い魔の踵が、地面から浮いた。

 潰れた悲鳴が夜気をつんざく。

 その壊れた音は、当然のことながら二人の吸血鬼の耳にも入っていた。

 ビビアンの首を絞めている少女を振り向いて、嬉しそうに笑ったのはオズである。

 対してシグルドは、剣呑な空気を漂わせたまま目をすがめた。

「やはり、こうなるか」

 彼らの視線の先で、ミチルの首筋に空いた

 やがて、完全に傷が癒えた時、ごきりという重い音を響かせて悪魔の首は折れた。

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