stage8.沈黙



 連れて帰るや否や少年をソファーに放り込み、叩き起こしてやろうと響咲久遠きょうさくくおんは手を上げかけた。

 だが、よく確認すると少年の口元には痣があり、少し前に流したであろう血の塊が張り付いていた。

 

 ……ケンカか?


 久遠は顔を顰める。

 しかし更によく見ると、少年の服の袖から血が滲み出ている。

 それに気付くや久遠はその袖を少しだけめくった。


 するといくつかの浅い切り傷と今しがた殴られたであろう赤紫色の内出血、そして過去のものと思われる青アザに、その細い手首にはやはり縄で縛られたであろう古いアザまであるではないか。

 久遠は、その腕の細さや古いアザを見る限り、この子がケンカ少年ではないことを、何となく理解した。

 彼の中で嫌な記憶が蘇る。


 ――『痛い……痛いよ……ごめんなさいお母さん! もう泣かないから! ごめんなさい……!!』――


「……どうして……泣いてるの……?」


 別の声に久遠ははと現実に戻る。


「泣かないで……」


 どうやら久遠が忌まわしい過去の記憶に取り込まれている間に、少年は意識が戻ったらしくそっと久遠の頬に手を伸ばしてきた。

 久遠は気付かないうちに涙を零していたらしく、人前で涙を見せてしまった不甲斐なさにふと顔を背ける。

 久遠の複雑な心境を察したのか少年は、それ以上彼に口出しすることなく話題を切り変えた。


「そういえばここは……」


 自分のいる場所を不思議そうに、そっと見渡しながらゆっくりと上半身を起こしかけて、体に走った痛みに短く呻いて身を埋める少年。


「ここは聖ヴェルニカ大学病院の男子寮にある俺の部屋だ。窓からお前が門に入ってきて側にあった植え込みに倒れたのを見て、ここまで運んできた」


 そう言った久遠はもう、いつもの彼に戻っていた。


 少年は、まるで太陽が溶け込んだような輝くばかりの金髪のショートヘア、そして青い惑星の地球を抱いたようなつぶらな碧眼、また陶器で作られたかのような白い肌をしていて、自分の体型には不釣合いな大きめの衣服で身を包んでいた。


 だが西欧出身のハーフである久遠には別段、少年の外見が日本人離れだから珍しいとかそんな風に感じることはなかった。


「何があった」


 久遠の率直な問いに、少年はグッと言葉に詰まったようだった。

 少年は俯き、しばらく沈黙が続いた後、重々しい口調で口を開く。


「別に……何、も……」


「……」


 少年のその言葉に、久遠は無言のままジッと見つめる。

 その双眼は何かを見抜いているかの様で、少年は彼の視線から逃げるかのように気まずそうに、顔を背けたままでいる。


「……ま、何も語りたくなくば別に構わん」


 久遠は落ち着き払った口調で、少し冷たげに言う。


「ごめんなさい……せっかく助けてくれた……のに……」


 申し訳なさそうに呟く少年。


「……」


 この消極的な少年が、やはりケンカをするようには見えない。


 やはりこのガキ……家庭に問題がありそうだ。


 過去の自分の経験上、そういう事を見抜けない久遠ではなかった。


「とりあえず、俺がお前を拾ったのも何かの縁だ。この際、何も語りたくないのは結構だが、俺も一応医者を目指す者だからな。手当てぐらいはしてやる」


 そう言って久遠は救急箱を取り出すと、少年がいるソファーの前にあるガラステーブルに、向かい合う形で腰を下ろした。

 ところが少年は、自分が治療される事を敬遠しているのか、躊躇っている。

 その様子を見て、久遠はフゥと溜息を吐く。


「おそらく、自分の傷を見られたくないのだろうが、気にする必要はない。俺はお前のその傷跡を何度も見てきているから、知っている」


 嘗て自分自身も、その肉体に刻んでいたのだから。


「だから別にその傷跡を見て疑問も抱かなければ、顔を顰めたりもしない」


「……」


 久遠を怯えるように見つめる少年。


「己の痛みから目を背けるな」


 これに少年はハッとした表情をする。


「耐える事が当たり前だと思うな。それが自分の人生だと言い聞かせるな。己の身の不幸を仕方がないと諦めるんじゃない」


「……」


 まるでぼやくように、静かな口調で語り出した久遠の目を少年はジィと見つめて、逸らさない。


「治せる傷は今のうちに治しておけ。でなくば、後々余計に辛い思いをして、心を苦しめてしまうのは自分自身になる。そうなると周囲のせいにも出来なくなる。自分で自分を責めてしまう様になれば、もう救いようがなくなるものだ」


 ここまで語って、一呼吸置く。

 そして少年を改めて一瞥すると、再び久遠は口を開いた。


「唯一の味方のはずの自分が、自分自身を責めてしまえば、最後の味方をも失って誰一人信じられなくなってしまうからな」


「……」


「我が身を自分で守れるうちに守っておけば、まだ救い道があると言うものだ」


 久遠の言葉を黙って聞いていた少年は、彼から何か自分と同じ感情を感じ取った。


 少年は、無言のままそっと両腕を上げた。


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