第7話 マスク越しの涙の理由

壁の時計を見ると、病院の昼食時間は遠に過ぎているどころか、2時が来ようとしている。優哉と佳帆に、思いの外延長業務をさせてしまっているようだ。

森一が、申し訳なく思って向かいの病棟に目をやると、

病室のドアがノックされて森一が振り返ると、優哉と佳帆と立ち会ってくださった小児科医の先生が立っていた。


森一の顔を見ると佳帆が興奮気味に駆け寄って

「シンさんすごい!みんなキラキラした目で見てくれるの。お母さんたちからも、普段は残すのに、今日は完食しました、って言われて嬉しかったです。子どもたちが可愛い。またやりましょうね。」と言えば、優哉も頷きながら


「またやらせてください、シンさん。あれ、いいわ。ま、全員心拍数も血圧も高めでしたけどね。そこがちょっと心配かな。」と苦笑しながら報告する。


「そりゃあ、そうなるよな。と、今更ですが大丈夫だったですか。」と森一も答えながら、小児科医の先生に問いかけた。小児科医の先生も柔和な笑顔で


「我々も見ていて問題ないと思いました。むしろ子どもたち自身が生み出す、生きる力、生きようとする意欲が増していたように思います。我々の領域ではないところでお力をいただいた気がしています。それになにしろ、医療実習も経験されているドラゴンレッド先生でしたから安心して見ていましたよ。


以前、河合さんにもお話ししましたのでお聞き及びかと思いますが、あの紙芝居の日以来、数値が好転した子が一人や二人ではないことに、我々もお驚き感心させられています。改めて御礼申し上げます、ありがとうございました。」


「いえいえ、お役に立てたのなら何よりです。こちらこそご理解に感謝しています。ありがとうございました。」


森一がそう言い終わると、小児科医の先生は両手で森一の手を取り改めて礼を言い、優哉にも佳帆にも握手を求め、改めて一人一人にねぎらいの言葉をかけてくれた。


その先生と入れ替わるように、勤務を終えて私服に着替えた遥が部屋に入ってきた。


「さあ、清水くん、佳帆ちゃん、ずいぶん遅くなりましたが、お昼ご飯に行きましょう。森一さんのおごりですってよ。」


「え?マジすか。そういえば腹減ってたのすっかり忘れてた。よおし食うぞぉ! シンさん、遠慮なくご馳走になりま〜す。」


優哉が早々に先頭に立って病室を出て行く。見送る佳帆が振り向いて


「お言葉に甘えていいんですか?あれだとエンゲル係数がかなり高くなりそうですけど。」と不安そうに聞くので


「大丈夫。お前らのおかげで俺の退院も早まりそうだ。そのお礼も兼ねて奮発して遥に預けといた。」と森一が答えると


「本当ですか!退院?やったぁ!ありがとうございます!じゃあ行ってきます、ごちそうさまです!」と、はじけるような笑顔を残して、スキップでもしそうな勢いで遥と一緒に優哉の後を追って病室を出ていった。


「いやぁ、あの二人は本当にいい1日にしてくれた。」と折り目のついた坊やからの手紙を見ながらしみじみと森一は呟いた。


一方、森一の病室を出た三人は、森一の病室のフロアを歩きエレベータまでの間は堪えていたが、三人だけのエレベータに乗り込むと佳帆は声を殺して泣き始め、優哉は上を向いて目に涙をためていた。

遥も目を真っ赤にしながら、すすり泣く佳帆の肩を抱いて病院を出た。


人もまばらな近くの公園に着くと、佳帆は木陰のベンチに座り人目もはばからずわんわん泣き始めた。優哉は、泣きじゃくる佳帆と佳帆の背中をなでる遥が座っているベンチの後ろで、そこに生えている太い木の幹に向かって、拳で何度も突き当てながら涙を流していた。


遥はもとより、優哉も佳帆も医療のことについては一般人より知識はある。彼らは坊やの病室に入った瞬間、そこで行われている治療がどういうことを意味しているのかを、使われている医療機器を見て一瞬で見抜いたのだ。しばらく三人に言葉はなかった。


「遥さん、シンさんはこのことを知っているんですか?」という優哉の問いに、遥は力なく首を横に振った。


「ねえ、優哉。あの子、あの坊やはいつまでいられるの?」泣き声で絞り出すように佳帆が優哉に尋ねる。優哉はその問いには直接答えず、つぶやくように言った。


「奇跡なんだよ。あの状態であんなに声が出るなんて、奇跡だよ。紙芝居の時のあの声、今日俺たちに言ってくれた『ありがとう』の声ですら奇跡。出るわけないんだよ。なのに自分からベッドに座って聴診器を当てさせてくれた。すごい子だよあの子。くそぉこの夏、か…。」と優哉が答えると、


外れてほしい自分の勘を正解にされて呆然とし、見開いたままの目に涙をあふれさせながら、うわごとのように


「私にもありがとうって言ってくれた。何度もなんども言ってくれたのよ。もう涙が止まらなくて。すごくキラキラした笑顔で『早く元気になってドラゴンレッドみたいに僕がお母さんを守るんだ』って。『勇気をくれてありがとう』って、私に。なんであの子なの。なんで…」


そう言いながら遥の胸に顔を埋めるように佳帆は大声を上げて泣いた。

三人はしばらく泣いた後、このことは森一には言わない、バレないようにすることを決め、今の佳帆が森一の顔を見て泣かずにいられる自信がないので、優哉とそのまま劇団の練習に行ったことにして、森一の病室には遥一人で戻ることにした。

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