愛は囁かずとも炎は燃え尽きぬ 王国物語スピンオフ4

合間 妹子

エマニュエル ー過去ー

第一話 悪夢は覚めて終わるけれど

― 王国歴1051年 夏


― 王国南部テリオー伯爵領 




 私は蒸し暑い真っ暗闇の中を必死で駆けていました。どうしてそんなに急いでいるのか、自分でも分かりません。


 そして私の進む先に少し光が差し込んできて、あの愛してやまなかった彼の背中が見えました。私は無我夢中で彼に追いつきたくて、転びそうになりながらも走り続けました。


「ねえ、お願い、待って!」


 私は彼の背中に向かって叫び、彼にすがりつこうとします。振り向いた彼はいつもの優しい笑顔ではなく、虫けらでも見るように私を見下していました。


「フン、上等だな。こんな阿婆擦あばずれ、喜んでくれてやるさ」


 彼がそう吐き捨てた途端、私は目の前が真っ暗になりました。



***



 気付いたら私は自室の寝台で汗をぐっしょりかいて横たわっていました。辺りは薄暗く、まだ夜明け前だと思われました。初夏の早朝でまだ涼しいというのに、異常な汗のかき方でした。


「夢、だったのね……」


 私はそっとため息をつき、身を起こしました。悪夢を見たのも、先日送られて来たあの文のせいかもしれません。


「悪夢は覚めて終わるけれど……私が彼にした仕打ちは消えないわ、エマ」


 自嘲するように言い聞かせます。




 私の名前はエマニュエル・テリオー、テリオー伯爵家の長女です。サンレオナール王国南部の領地に両親と弟と住んでいます。


 先程の夢に出てきた彼とは王都の貴族学院時代に付き合っていました。彼と過ごした二年間、楽しい事ばかりでした。その間、沢山の笑顔を向けられたというのに、別れてから思い出すことといったら最後の彼の吐き捨てるような言葉に、汚いものでもみるようなさげすんだ視線ばかりです。


 あの頃は私も彼も若かったと言えばそれまでです。やむを得ない理由があったとは言え、彼に手ひどく別れを切り出したのは私でした。彼は真摯な愛を与えてくれたというのにそれに応えず、手を離したのは私の方からなのです。


 別れた後すぐに私は学院内で彼が女の子と一緒のところを見かけました。美しい茶色の髪をまとめた、知的な印象の子でした。以前は私に向けられていたその微笑みはその子のものでした。頭から冷水をかけられたような気持ちでしたが、分かっていたことです。自業自得だと言い聞かせて目を逸らしました。




 彼はこんな裏切り女のことなどとっくに忘れて、今は王都で輝かしい将来に向かって羽ばたいていることと思います。


「姉上、朝からお疲れのようですけれど、どうなさったのですか?」


 私の憂いが顔に出ていたのでしょうか。向かい合って朝食を一緒にとる弟パスカルに聞かれました。


「いいえ、ちょっと眠りが浅かったのでしょうね。大丈夫ですよ」


 テリオー領主である両親は先日、王国北部の母の実家に旅立っていきました。避暑のため、しばらくテリオー領を留守にし、その間領地の管理を次期領主である弟に任しています。




 先日我がテリオー伯爵家に宛てて王宮魔術院から文書が届きました。領地の南、国境付近の森に棲息する魔獣の生態調査のため、魔術師を二名派遣するとのことでした。


 その深い森には魔獣と呼ばれる生き物が住んでいると言われています。その姿を見た人間はあまりいません。領民は怖がってまず入らないからです。向こう見ずな冒険者くらいです。しかも一度迷ったら二度と出てこられないと信じられています。


 魔獣は角や羽の生えた馬とも巨大な蛇とも言われ、知能も高く、長く生きている個体は人間の言葉も理解するとか、伝説やおとぎ話のように語り継がれています。触らぬ神に祟りなし、魔獣の森には近づくなというのが領民たちの常識でした。


 王都から女性魔術師が二人、二週間の予定で我が領地に滞在するのです。テリオーの街の宿屋ではなく、私たちの屋敷に泊まれないかとの打診でした。打診とは名目上のものだけで、一介の田舎貴族の分際で王宮からの公文書に否と返答出来るはずがありません。


 そのおかげでここ数日、私と弟はそのお二方を迎える準備に奔走していました。疲れが溜まっていないと言うと嘘になります。私が今朝あんな夢を見たのも、疲れのせいでしょう。今朝の夢に出てきた別れた彼も学院卒業後、王宮魔術師として働いているのです。




 魔術師のお二人が到着する日がすぐにやってきました。私はもう悪夢は見ませんでしたが、ここ数日あまり眠れていませんでした。


 王都からここテリオー領までは馬車でまる一日かかります。お客さまは夕方に屋敷に着く予定でした。


「姉上、そんなにカリカリしていてもしょうがないですよ。僕達出来る限りの準備はしました。後はなるようになれ、です」


 以前は病弱だった弟も、六年前にこの田舎の領地に戻ってきてからは随分と元気になり、頼もしくなっています。


「そうは言っても、王宮魔術師のお二人は王都にお住まいの高位貴族令嬢かご婦人でしょうから……何か粗相があってはと思うと……」


 王都からの馬車が着くのは夕方なのに、私は朝から居ても立っても居られませんでした。昼食もろくに喉を通りませんでした。


 初夏の夕方、まだ日の高いうちにお客さまはお着きになりました。弟を始め、私に執事と侍女頭がお迎えします。馬車が屋敷の玄関前に止まり、お客さまがお降りになる前に私たちは深く頭を下げました。


「テリオー領へようこそいらっしゃいました。留守にしている領主の父に代わって私がお二人のお世話をさせていただきます。パスカル・テリオーでございます。こちらは姉のエマニュエル・テリオーに、執事と侍女頭でございます」


「テリオー家の皆さまには二週間の間、お世話になります。アナ=ニコル・ルクレールでございます」


 落ち着いた女性の声でした。


「流石南部は暑さも本格的ですね」


 もう一人も女性と聞いていたのに、それは男性でした。しかもその声には聞き覚えがあります。六年経っても忘れられる筈がありません。私の心臓の鼓動が速くなりました。


 恐る恐る顔を上げます。アナさまは私の母よりも少し若いくらいの貴婦人でした。そして彼女の隣には、その声の持ち主で学院時代に誰よりも愛していた元恋人が立っていました。


「ナタニエル・ソンルグレです。久しぶりだね、エマ。パスカルとは去年ローズの結婚式で会ったね」


 先日の夢とはうって変わって彼は穏やかな口調でした。私はあまりの驚きに、彼がどんな表情をしているかなど読めるはずもなく、そこに立っているだけで精一杯でした。




***ひとこと***

お待たせしました! 前作「忍び愛づる姫君」をお読み下さった方はご存じでしょうが、この話のヒロイン、エマニュエルちゃんのお相手はソンルグレ家長男のナタニエル君です。妹二人に続き、彼にも幸せになって欲しい一心で書きました。よろしくお願いいたします。

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