川のなまえ

綾上すみ

プロローグ 力のめざめ

 狐のシュウは自分の不思議な力に気づいた。

 夏の真夜中のことだ。ふと目が覚めてしまったとき、父が人のすがたに化けているのを、シュウはたしかに見た。完全に人間の姿になった父は、いつも寝床にしているくぬぎの木の下から、ゆっくりはい出して歩き出した。人里に向かっていったのである。

 シュウにとって人間はわるい生き物だった。父が人に化けたそのとき、シュウはもっと小さかったころの嫌な出来事を思い出した。人という生き物に、憎しみを覚えた出来事だ。

「どうしてお父さんは、ひとに化けるのだろう。人里に行ってなにかし返しをするにちがいない」

 そのことが頭にあって、どうしても眠れなかった。かなりたってようやく、父はねどこに帰ってきた。やつれきった表情だった。シュウはそれが不思議でならず、次の日も眠い目をこすりながら真夜中まで起きていた。やはり、父は人の姿になって人里へ出かけていく。次の日もまたその次の日もそうだった。

 満月の夜だった。シュウは五頭の長男で、きょうだいが揃って寝ている木のうねからこっそりと抜け出した。いよいよ、こっそりとその後を追うことにしたのだ。人間の歩幅に会わせるのだから、シュウはうんと脚に力をこめて走った。森の木々が少しずつ低く少なくなっていく眺めに、怖気づいた。シュウは夜中に起きている大人たちがみんな酔っぱらっていて、ちょっとしたいたずらに動物たちをいじめることを知っている。しかし、それ以上に、やはり幼いころのできごとが頭に残っていた。

 シュウのお母さんは、人間たちに殺されたのだ。

 その年、どうしてか木の実の実りがとても悪く、食べ物のネズミが森にはほとんどいなかった。そこでお母さんは、人間の食べのこしを少しずつとってきては、森のみんなに分け与えていた。森のみんなは、シュウたち家族にとても感謝していた。みんながみんな、食べ物はお母さんに頼りきりになった。

 そんな時、お母さんはしくじった。少しだけ、食べ残し以外の食料に手をだそうとしたところがばれて、丸太で頭をなぐりつけられて死んだ。小鳥がそれを知らせてくれ、シュウとお父さんは涙を流した。シュウの胸に、めらめらとした怒りが生まれた。

 怖がりながら暗い森のなかを走り続け、いよいよ人間の住む家が見えてきたときだった。

「なにをしているんだ」

 シュウは驚いて、ひっくり返ってしまいそうになった。うしろから伸びている影は、人形をしたそれだったからだ。

「いじめられる」

 ぶったり、けられたりするのを覚悟しながら、おそるおそるその人の顔を見ると、

「お父さん?」

 周りの景色の変化を気にかけている間に、お父さんはシュウのうしろにまわっていた。

「おまえは分かっていないのか。お母さんは、人間に殺されたんだぞ!」

 父の静かな怒りがシュウの心を打った。

「しっ。誰か来る。今日はとにかく、早く帰りなさい」

「どうしてお父さんは、人間に化けてここへやってくるの?」

 おそるおそるたずねてみても、父はシュウをにらみつけたままだった。

「住みかに戻っていなさい」

 父の声にすくみあがってはいたが、シュウにはきた道を引き返すつもりはなかった。父のする人間への仕返しに、期待していたのだ。いったん帰るふりをして、その後近くの木に隠れて父の様子をうかがった。

 父は、人間の家に立てかけてある、畑をたがやすくわを手に取る。そして……そして、そのあと、耕しかけの地面にくわをつきたてつきたてしはじめたではないか。

 シュウにはわけがわからなかった。長い時間がたった。どうして父は、人のためになることをするのだろう。お母さんを殺され、一緒にあんなに涙を流したのに。

 とうとうシュウはクヌギの木の下に帰る。優しかったお母さんのことが、どんどん思い返された。悔しさが心の底からこみあげてきて、それを抑えることができなかった。シュウは森が割れてしまわんばかりに泣き叫んだ。

 シュウの泣き声の衝撃によって、木々はなぎ倒され、眠っていた鳥たちが慌ててつばさをばたつかせた。涙は土にしみわたり、小さな池ができたかと思うと、どんどん深く広くなっていった。涙に自分の体が全てつかってしまいそうになり、シュウは驚いてその場から逃げる。一つ身震いすると、シュウの毛からはじけた水がまた、付近に大きな水たまりを作った。そのうちの一滴がクヌギの木の下に飛んでいき、わら敷きの寝床が大きなため池となった。鳥たちは、なにごとだろう、としきりに鳴いている。木立が倒れ落ちる音が響く。シュウは水気を払い終えたあとも身震いが止まらなかった。これは、僕がやったのか? わけがわからない。

 シュウは眠ることができなかった。そのうち、父が帰ってきた。池や水たまりになった辺りを見渡し、みしみしと木の折れていく音を聞いた父は、おごそかな顔でまだ寝付かれないシュウに近づいた。シュウは厳しいお説教を覚悟した。

「おまえには、力があるんだな……。そろそろその力のあるなしが表れるころだと思っていたが。力を持った狐はこのところ現れていなかったが……私たちはやはりその血を引き継いでいたんだな」

 父の顔は依然としてけわしかったが、子供を叱りつける怒りから表情が引き締まるのではなかった。様子の違いに気付いたものの、シュウはそれを表現することばを知らなかった。

「おまえには、この森の自然を操る力が備わっているんだ。シュウ。かわいそうだが、お前をこれから森の仲間と一緒にすることはできない。お前は、生涯一頭で過ごすんだ」

 いきなり告げられた命令を、シュウの頭は理解しようとはしなかった。

「お父さんとも、今日でお別れだ……付いてきなさい」

 父はシュウを引き連れ、シュウがまだ入ったことのない森の奥の方へと歩を進めた。草がぼうぼうと群がっている割には、なにものかが何度か行き来している跡があった。

 どれくらい歩いただろう、日が昇り始め、辺りは少しずつ明るくなっていた。たどり着いた先には、木造のほこらがあり、狐の形を模した石像が祀られている。どうしてこんな山の奥に、人の作ったものがあるのだろう、とシュウは怪しんだ。

 父は足を止め、シュウの方を向いた。シュウは父の疲れた瞳が揺れるのを見た。

「いいかシュウ。今からお父さんは本当のことを言う。信じられないかもしれないが、そう言うものだと受け入れてほしい。この先おまえがどれだけ孤独な一生を送るのか、想像するだけで親としては胸が痛いが……。これは受け入れるしかない運命なんだ」

 父がいつになく仰々しい前置きをするので、シュウは毛並みをこわばらせた。

「森で狐に生まれたものが、神さまの申し子が産まれることがある。お前の力は、他の動物たちと関わる中で、とても危険な力なんだ。だから、神さまの申し子は群れることを許されない。長い間のしきたりだと思って、辛抱してもらうしかない……」

 突きつけられた事実が、幼いシュウには全く理解できなかった。ほとんどなにも考えられないうちに、少しだけ、その話はなにかの冗談であってほしいと願う気持ちがあった。父の黙り方からは、重々しい空気を感じる。いやだ。嘘であってほしい。シュウの頭の中から、明日以降も家族そろって仲良く過ごす当たり前がくりぬかれ、後にはなにも残っていなかった。

「今はまだ、その力は感情に操られてしまうかもしれない。けれどそれを上手く操れるようになったとき、このほこらを訪れなさい。その時、みんなをほとんど永遠と言っていいほど長い間、飢えや乾きから救うことができる。もちろん、里の人間たちも……」

 最後の言葉に熱がこもっていたのを、シュウは聞きのがさなかった。

「その代わり、お前にそれができなかったら、この森は滅びたえる。神は時々、我々を試すんだ……」

 父はそこまで言うと、後を語らず、シュウから背を向ける。重く錆ついたような脚を一歩、また一歩と運んでいくのを眺めていたが、父は追ってくるな、という厳しい雰囲気を背中から発していたので、シュウの脚は動かなかった。独り取り残されるという未知数の不安が押し寄せてきて、シュウは再び地面に池を作った。


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