第9話 鄢の戦い

紀元前722年 三月


 魯の隠公いんこうの元年にあたるこの年、彼がまず行ったのは魯の隣国にある邾の国君・克〈かつ》と蔑の地で会盟を行い、関係をよくすることであった。


 四月、魯の大夫・費伯ひはくが朗という地で軍勢を勝手に率いて城壁を築いた。これはまだ隠公が国をまとめ切れていない証拠であろう。






 五月、真っ暗な夜の時、鄭の首都・新鄭に住んでいる武姜ぶきょうの下に一通の書簡が届いた。差出人は勿論、公子・だんである。


「母上、私の元に兵と武器が集まり、国都を攻める準備が整いました。後は兄を討ち果たすのみでございます。兄を打ち取れば、私と母上の願い通り、私が国君となり、一緒に住むことができます。もう少しの辛抱でございます」


 武姜は愛しき段からの書簡を嬉しそうに読んだ後、我が子と新鄭で暮らすことを夢に思いをはせると彼女は年甲斐もなく胸を高鳴らせながら書簡を書き、段に送った。


「ええ、ええ、そうですね私の可愛い段。母はあなたがあれを討ち果たす時を楽しみにしていますよ。ここを攻める時は門を開きあなたを招きます。母はその日を待ち望んでおりますよ」


 それを暗い闇の中から見つめる者がいたのだが、彼女は気づかず、眠った。夢の中で我が子と暮らす姿を思い描きながら……


 その者は武姜が眠ったことを確認すると、音もたてずにその場を立ち去る。彼はある部屋に入った。そして、部屋で座っているある人物の前に行くと跪き、頭を垂れた。ある人物とは彼の主である鄭の宰相・祭仲さいちゅうである。


「主に報告致します。遂に彼の者が動くようでございます」


「そうか、いよいよ……分かった。ご苦労であった。褒美はあとで与える」


「感謝致します」


 彼はそう言うと立ち上がり部屋から立ち去った。祭仲もそれを見た後、部屋を出た。向かうは荘公そうこうの部屋である。


「どうしたのだ。祭仲? このような夜中に」


 荘公はそう問いかけた。


「主の弟君と母君が、謀反を起こそうとしていることをご報告にしに参りました」


「それは確かか?」


 暗い部屋の中、僅かな光が不気味に荘公を照らす。


「私の手の者が知らせてくれたものでございます。そのため確かかと思います」


 頭を垂れながら、祭仲は荘公に言う。彼の言葉を聞いた荘公は思わず、上を見上げた。


 彼は理解していた。母が、弟に協力し自分を害しようとしているのは知っていた。また、それを除くことはいつでもできた。しかし、それでも彼は母を信じたかった。いつの日か自分を愛してくれると信じていた。


 だが、現実は残酷である。


(これも天命であるか……)


子封しほうをここに」


 そう呟くように彼に命じた。祭仲は近くの者を呼び、子封を連れてくるよう命じた。


 やがて子封がやって来た。そして、祭仲から段と武姜の計画を知り、怒気を現にしながら彼は


「すぐさま、京を攻めましょう。弟君は策に溺れ、我らが先に仕掛けてくるとは考えてもいないでしょう。必ず勝つことができます」


「子封の言う通りである。子封よ。出陣の準備を始めよ」


「御意、ただちに軍をまとめ敵を討ちます」


 彼は興奮しながら荘公の元から立ち去ろうとする。それを荘公が止めた。


「子封よ。此度の戦、私自ら出る。お前には先鋒を命ずる」


「主、自らでございますか」


 子封は驚いた。まさか荘公自ら出るとは思わなかったからだ。


(主は本気で弟君を潰す気だ)


 仮に段を捕虜にすれば主は処刑するだろう。または段を戦場で殺そうとも問題はないだろう。


(これで思う存分戦える)


「承知致しました」


 子封は頭を垂れ、今度こそ荘公の元から離れた。


 彼が離れた後、荘公は祭仲に背を向けた。


「なぜ段はこのような大事を行うのだろうか」


「国君の座を欲しているからでございましょう」


「段は私がもっとも欲しいものをもっているではないか」


「人の欲望には限りがございません。ただそれだけのことでございます」


 荘公は彼の言葉を聞き黙り込んだ。


「それとも弟君の欲望を満たすためにその座をお渡しになられますか?」


「それはできない。母上に愛されてない私に父上が渡されたものだ。弟とはいえ渡すわけにはいかない」


 彼は深々と頭を下げ、言った。


「ならば、あなた様は堂々と弟君と戦いなさいませ」






 軍を編成し、先鋒として子封が出陣し、京に向かった。それを知って動揺した京の人々は段に心服しているわけではないため、子封が近づくと段を追い出してしまった。追い出された段は鄢(えん)に逃れ子封との戦いに備えた。


 後に言う、『鄢の戦い』である。


 子封と合流した荘公は段の籠る鄢城を苛烈に攻め立てた。


 段はこれに全力で耐えた。ここには兄がいるのだ。


(兄をここで討てば国君になれる)


 この状況でそう考えている段には甘さがある。そんな甘い考えを持っている段に反して、荘公の怒気は凄まじいものがある。


(段よ、お前は私の欲しい物を持ちながら、さらに国君の座をも得ようとするお前の強欲さは何と愚かなことか。兄として、ここでお前を滅ぼしてくれる)


 彼の怒気は兵たちにも乗り移ったのか、兵士たちは段の籠る鄢城に殺到し、段の兵を次々と倒していく。特に子封の奮闘は凄まじくこの戦いで大功を挙げた。この荘公の軍に圧倒された段は鄢城から脱出し、共に逃れた。以後彼は共段と言われるようになる。


 段が逃げたことを知った。子封は、荘公に問いかける。


「段は共に逃れたとのことです。共に使者を出し、段をこちらに渡すよう言いますか?」


 荘公は子封の進言に首を振り、


「そのようなことはしなくともよい。段を生かすは先君の御人徳によるものであろう。それを犯すようなことはしてはならない。もし、あれがそれを理解せず、再び我が国に攻めるようであればその時は叩き潰せばよく、このような些事に手を煩わす必要はない」


 荘公のなんと覇気に溢れた言葉か…‥彼は弟との戦を経て、成長したと言ってもよい。


「母君様は如何いたしますか?」


 子封が再び尋ねた。今回の戦の責任の一端は武姜にもある。いかに国君の母であろうとも罰は与えなくてはならない。荘公は空を見上げた。少し考えた後、子封に母を城穎(じょうえい)に幽閉するように命じた。


「母とは黄泉の国に行くまでは会わない」


 天に誓った。だがこれに荘公は大いに後悔するようになったが、潁考叔(えいこうしゅく)という辺境を守る大夫に地下(この時代は地底に黄泉の国があるとされていた)で会うのであれば問題ありませんという進言から母と会った。そこには以前と違い荘公に愛情を示す武姜がいた。彼女は彼が自分に向ける愛情の大きさを信じたのである。彼らは和解した。そして、親子の和解のきっかけを作った潁考叔には官位を与えた。


 弟を追い払い、母と和解した荘公の元、鄭は大いに発展していくことになる。

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