第14話 あなたがたとえ、別の人を好きだとしても
愛と対局にあるのは無関心。なら、無関心と愛の間にあるのは……(たぶん)友情に好意が注がれた感情だろう。「恋愛」の域までは行かないが、それでも「嫌い」にはなれない気持ち。主人が「クスッ」と笑いかけた時、思わず「フフッ」と笑いかえしてしまうような関係だ。
そこに言葉が注がれなくても、相手の言葉が何となく分かってしまう。主人の向けるそれは、愛する人にだけしか見せない好意の眼差しだった。相手の心にそっと訴えかける、甘い蜜のような眼差し。普通の少年なら、絶対に落ちてしまう眼差しだ。どんなに強い意志を思った者でも、その眼差しには抗う事ができない。
彼女は、生まれながらの天使だった。彼女自身に、その意識は無くても。(無理矢理とは言え)彼女の
ハナウェイは、その光に戸惑った。
自分の中にある想い、ネフテリアに対する好意は変わらないのに。その光を見ると、ネフテリアが何故か霞んで見せてしまう。今までは女神のように輝いていた彼女が、急に娼婦……もっと言えば、悪魔のように見えてしまうのだ。
愛する男は、誰にも渡さない。
彼女の手に握られているのは、どんな化け物でも殺せる真っ黒な槍だった。
ハナウェイは、その槍に震え上がった。
「う、ううっ」の声も、震えている。それを見て驚いたフィリアが「どうしたの?」と話しかけてきた時も、「な、何でもありません!」と言いつつ、必死の作り笑いを浮かべていた。
「ただ、その……昔の事を思い出して」
「昔の事?」
はい、と返すべきか迷ったが、結局は「はい」とうなずいてしまった。
「ずっと昔に、その、怖い事があって」
「そう」
なんだ、と言いかけたところで、フィリアの表情が変わった。
今は、二人だけで話しているけれど。学校の中庭にいるのは、彼ら二人だけではなかった。近くのテーブルには、貴族の少女達が集まっている。彼女達は楽しげに話こそしているが、その眼差しは二人をずっと眺めていた。
あっちのテーブルに座る二人は、一体何を話しているのだろう?
「クスクス」と笑う瞳の奥には、残虐な好奇心が見え隠れしていた。
面白いそうな話だったら、その話で大いに盛り上がってやる。
普段はネフテリアに脅える彼女達だったが、この時ばかりは、生来の残忍さを解き放っていた。「お前らの命など、いつでも奪えるのだ」と。獣が恐れるのは、自分よりも格上の相手だけ。自分の命を脅かす、文字通りの猛獣だけだった。
あの二人は、どう見ても自分達より格下である。
彼女達は二人の事を嘲りつつ、大好きなエルス王子の事を話しつづけた。
「なんで、かな?」
「え?」と驚くハナウェイだったが、フィリアの「なんで、身分なんかあるんだろう?」に押し黙ってしまった。
ハナウェイは暗い顔で俯き、両手の拳をギュッと握りしめた。
「偉い人が、そう、決めたからです。『その方が国もまとまりやすいから』と。王族や貴族達に特権が与えているのは」
そこから先は、言えなかった。言ってしまったら、彼女の……ネフテリアの尊厳を傷つける事になる。「今は、別の人に仕えている」と言っても。彼女の不満を言うのは、彼の心がどうしても許さなかった。
「神の恩恵です」
そう、天の意思が決めた。
人間には、どうにもならない意思。
彼女は、その地位に選ばれたのだ。
「わたし」
「『ぼく』」
フィリアは、彼の目を見つめた。
「私と話す時は、『ぼく』って言って」
「わかり」
ました、の声が少し戸惑った。
「ぼくは、その意思に従います」
「そう」と俯く、フィリア。「私は」
「貴女は?」
フィリアは顔を上げ、悲しげに笑った。
「それがたとえ、天の意思でも」
「天の意思でも?」
「納得いかなきゃ抗います。そうする事が、自分にとって正しい事なら」
凄い言葉だ、と思う。少なくても、ハナウェイにとっては。彼女はやはり……いや、天使なだけではない。天使の美しさと、人間の泥臭さとを持った、純粋な人だった。
「貴女は、凄い人ですね」
「え?」
何が、ですか? と、フィリアは訊いた。
「私は、ただの平民なのに?」
「そんな事は、関係ありません。貴女は」の続きを言いかけたところで、ハナウェイの口調が変わった。「フィリア様」
「はい?」
「貴女がもし、エルス王子と」
「王子の事は、別に」
「『もしも』の話です。貴女がもし、エルス王子と両想いだったら?」
フィリアは、その答えを考えた。質問の裏に隠された、彼の意図と共に。
「そうだね。私だったら」
「貴女だったら?」
「絶対に諦めない」
「それが許されない事であっても?」
「うん」の返事に迷いはなかった。「やっぱり、無理だからね。相手の事を諦めるのが」
「そ、そうですか」
を聞いて、フィリアの目が震えた。
「ハナウェイ君」
「はい?」
「ハナウェイ君は……」
緊張……でも、その答えから逃げてはならない。
自分の未来を良くするためにも。
フィリアは何度も息を吸い、真剣な顔で相手の目を見つめた。
「好きな人は、いる?」
言った。
かなり緊張したけれど、ちゃんと最後まで言えた。
「え?」から始める沈黙が重い。
フィリアはその沈黙に耐えつつ、彼の口が開くのをひたすらに待った。
ハナウェイは五分ほど経って、ようやく「好きな人は……」と話しはじめた。
「います、凄く身近にいた。でも」
「今は、もういない?」
「いえ」の返事が暗い。「生きては、いらっしゃいます。でも、あの方は」
ぼくに一生、振り向かない、と、ハナウェイは言った。
「あの方には、想い人がいらっしゃいますから。ぼくの事は、最初から眼中にないんです」
「そう、なんだ」
無言の返事。
「その人は、片思い?」
「いいえ、両想いです。しかも」
の先を聞こうとした瞬間、フィリアの中である想像が膨らんだ。
「ねぇ、ハナウェイ君」
「はい?」
「その人って、まさか?」
「はい……」
周りの音が一瞬、死んだ。
「ネフテリア・パキスト様です」
フィリアは、その言葉に固まった。
周りの音は、すべて蘇ったのに。一番肝心な声だけが、見えない重りに押しつぶされていた。その中で辛うじて出せた声も、「え?」のたった一言だけ。
彼女は、自分の初恋にヒビが入るのを感じた。
「ネフテリア」
様、が抜けたのも無理はない。それだけ、彼女の心は乱れきっていた。ネフテリアは、自分にとって大事な人。自分と彼を繋げてくれた、掛け替えの無い人だ。彼女がいなければ、彼と話すどころか、関わる事すらできなかっただろう。彼女は言わば、自分にチャンスをくれた女神様なのだ。
フィリアはテーブルの上に目を落として、自分の心をじっと見つめはじめた。
心の中では、訳の分からない感情が渦巻いている。汚泥の中に固い棒を突き刺し、そこに透き通った水を入れて、その混合物を力任せに掻き回したような感情が。その感情は彼女が見ている物、あらゆる風景を暗い灰色に変えてしまった。
「ハナウェイ君」
「はい?」
「私は、あなたの事が好き」
「なっ!」と驚いたのは、一瞬。
次の瞬間には、「じょ、冗談ですよね?」と狼狽するハナウェイがいた。
「何かの」
「嘘でも、冗談でもない! 私は……」
叫びにならない叫び。周りの貴族達も「なんだ? なんだ?」と驚くだけで、その叫びを聞き取る事はできなかった。
「初めて会った時から、あなたの事が好きなんです」
フィリアは、少年の目を見つめた。
ハナウェイは、その目に戦いた。
彼女の目は、真剣だ。どんな言葉を選んでも、その目からは決して逃げられないだろう。自分がネフテリアを想うのと同じように。彼女の目にもまた、確たる想いが感じられた。だからこそ、「フィリア様」
その想いには、誠実に応えなければならない。
「ぼくも……貴女の言葉で考えが変わりました。やはり諦められないモノは、諦められません。可能性はゼロに等しいですが、自分が納得いくまで頑張るつもりです」
「ハナウェイ君」
フィリアは、嬉しそうに笑った。
「私も、あなたの事を絶対に諦めません。あなたがたとえ、別の人を好きだとしても」
二人は「うん」とうなずき合い、そしてまた、互いの目を見つめ合った。
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