第16話 おはよう。そしてさようなら

 なんだか妙に暖かい。ついでにいい匂いがする。例えるなら、最高の香水を入れた温泉にゆったりと浸かっているような感じ。

 俺はそのせいか凄く安らいでいて、もうずっとこの最高の世界の中に包まれてぼーっとしていたい気分だった。

 だったのに――。

 ――ピピピッ!! ピピピッ!! と鋭い電子音が俺の耳の中から入ってきて、頭の中を暴れ回る。

 こんな騒音の暴力でガツンと殴られたらどうしようもない。

 どんなに最高のテンションでも、最悪の気分に叩き落されてしまう。

 俺は頭上に手を伸ばして音源――枕元に置いておいたはずのスマホを探す。

にい……止めてぇ……」

「ん~……分かった……」

 電子音が耳障りだったのは蒼乃も同じだったらしい。

 胸元から聞こえてくる蒼乃の声は…………胸元?

 明らかにおかしすぎる現象に、俺の脳は急速に意識を取り戻していく。

「にーいー……」

 再び声がする。蒼乃の眠そうな声が。

 俺は電子音を放置したまま、恐る恐る布団をめくると……。

「あ、蒼乃……」

 暖かかったのといい匂いの正体はこれか……じゃねえよ! なんで蒼乃が俺の布団の中に居て、しかも幸せそうに俺に抱き着いているんだよ。

 昨日は確かに別々に寝たはずだろ?

 俺が床で、蒼乃がベッド。間違いない、覚えてる……はずなのに……。

「えへへ……にぃ……」

 蒼乃は俺に向けたことのない、無邪気で柔らかな笑みをこぼしている。

 心から安心しきっているその顔を、む~と唸り声を上げながら俺の胸元にぐりぐりと押し付けて来た。

 うわぁ、俺の妹超可愛い……じゃねえよ! どうすんだよこの状況!!

 俺の全身からぶわっと嫌な汗が噴き出して、心臓がアクセルをふかし始める。

 何故こんな状況になったのかは全く分からない。分からないが、このままだと間違いなく俺は殺される。

 そう確信した俺は、とりあえずスマホを操作してアラームを止め、蒼乃の腕から脱出を試みるが……。

「やー……」

 寝ぼけている故に幼児退行してしまっている蒼乃は、引きはがそうとした俺に強く抵抗し、よりぎゅっと力を入れて抱き着いてくる。

 昨日の怖がって抱き着いたのは、緊張していたために体が強張っていたのだが、今は全く違う。緊張が一切なく、何故か俺を求めている蒼乃の体は弛緩していて非常に柔らかく、ぷにぷにしていてちょっと女の子の体ってこんなになっているんですかヤバくないですかこれ以上抱き着かれ続けると妹と言えど色々暴発しちゃいそうなんですけどってくらいにもう……たまらない。一生抱きしめてたい。

 ……はっ、しっかりしろ、俺! 蒼乃は美少女だけど妹だ。蒼乃は美少女だけど妹。蒼乃は美少女だけど美少女。蒼乃は美少女……じゃない! 美少女だけど妹だ!

 なんか最近おかしくないか、俺。

 めっちゃ蒼乃の事を女の子として見てる時があるんだけど!?

 くそっ、正気に戻れ!

 俺は自分を殴る……事は出来なかったのでとりあえず頬をつねり上げておく。

 それから蒼乃を起こそうとして断念する。このまま蒼乃が起きれば確実に俺を抹殺に来るだろう。例え俺に全く非が無くても、だ。

 だから俺は蒼乃の理不尽なターミネートから逃れるために、必死に知恵を振り絞り……。

 よし、死んだふりしよ。クマに襲われた時も死んだふりするといいって言うしな。ちょうど蒼乃はクマさんパンツ履いてるはずだから効くはずだ。

 …………って効くはずねえよ!?

 だいたい蒼乃は俺の胸に顔擦り付けてんだから心音ばっちり聞こえてるからね!?

 うあぁぁぁどうする!? どうする!?

「にぃが~。い~い~……」

「死んでもいいかも……」

 ……じゃねえよ。妹の為に命かけられるくらいのシスコンってどこの千葉県民だよ。俺はちげえよ!

 だいたい命狙ってくんのはその妹なんだよ!

 そうやって悩みながら、俺は頭を抱えて身もだえしていた。そして、そんな事をしていて蒼乃が目を覚まさないわけが無いのだ。

にい

 それまでと違う、はっきりとした意識といつもの冷たい感じのする蒼乃の声が、俺の喉元に刺し込まれた。

 どうしよう。どうするべきか。とりあえずお父さんお母さん先立つ不孝をお許しくださいとかって遺言遺しとくべき?

 なんて悩みながら硬直しているうちに、蒼乃は俺の体から離れ、ベッドに行って自分のかけ布団を持ち、部屋を出て行ってしまった。

「……あれ?」

 絶対罵倒されると思ったのに、不思議と何もされなかった。

 というか蒼乃は表情すら動くことなく出て行ったと思う。

「まあいいか」

 怒鳴られなかったのは儲けものだ。俺は布団を元の位置に戻したりタオルケットを畳んだりと自分に出来る事をしていると……。

 パタンとドアが開き、何故か制服姿の蒼乃が姿を現した。

「おはよう」

 俺たちがクリアすべき毎日のミッションに、挨拶をするというのがある。そのため俺と蒼乃はどれだけ嫌でも毎朝こうして顔を突き合わせて挨拶を交わしているのだ。

「おはよう」

 俺は最初の内こそ多少あった気恥ずかしさも、今では完全になくなり、自然と蒼乃へと挨拶を返す。

 いつも通りの朝。いつも通りの儀式。つまりこれは、気にするな、いつも通りに行こうという蒼乃からのメッセージなのだ。

 それならば、俺もそれを受け入れた方がいいだろう。

 俺は納得してスマホの操作をしつつ、ベッドの片隅に置いてあるタオルケットを指さす。

「蒼乃、あれ持って帰ってくれ」

「なんで兄が私のタオルケット持ってるの? もしかしてストーカー?」

「は? 昨日お前がここで寝たからだろ」

「私は自分の部屋で寝たし今日は今始めて兄と会ったでしょ」

 こいつ、さっきの出来事を無かった事にしやがった!

 否定したいのは分かるぞ? 分かるけどな?

 それはねえよ、おい!

 ってよく見たら蒼乃がうっすら顔赤くしてんじゃねえか。唇の端も震えてるし、知らんふりするなら完璧にしろよ。というか致命的なミスやらかしてっからな?

「なあ蒼乃」

「なによ」

 不機嫌そうな蒼乃の顔に、びしっと指を突き付けた後、それを下におろす。

 まな板もかくやというほどに真っ平らな胸を包むのは、学校の制服だ。

「今日は土曜日だぞ」

「…………」

 一瞬の間の後、蒼乃はものすごい勢いで部屋を飛び出し、自分の部屋へと戻っていったのだった。

 蒼乃のやつ、意外とポンコツな所あるんだなぁ……。

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