第5話 今日はいい日

 ひさこは人に親切にするのが好きだ。もともと好きだったわけではなかった。だが困っている人を見たのに素通りしてしまった時に、後になって手を貸せばよかったなどとぐじぐじ後悔することが多くて、それよりはと手を差し伸べるようになった。そうすると別に期待をしているわけではなかったけれど安堵の表情でお礼を述べられたりして、その表情がひさこの心を癒してくれてることに気が付いた。ひさこの住んでいるところは下町なので、お釣りの小銭をぶちまけるおばあちゃんや道端にしりもちをつくおじいちゃんなど、親切をするチャンスは幸いそこかしこにあふれていた。電車で席を譲るのも日常茶飯事だ。実は意外と席を譲る人は少ないと気がついて、以前は避けていた優先座席に該当者のために席を取っておいてあげるような気分で腰掛ける。


 あれはたしか春先のことであった。ひさこがいつものように買い物に行こうとしてマンションの駐車場を通り過ぎているとき、外の方から「ガシャン!ガラガラガラガラ」と大きな音がした。外へ出てみると、歩道に沢山のキャットフードの缶詰が散乱していて、その真ん中あたりに年配の女性が倒れていた。慌てて缶詰をかき集めておばあちゃんに手を差し伸べてマンションの植え込みの柵に座るのを手伝った。どうやら隣のドラッグストアからの帰り道、両手の荷物のせいでバランスを崩して顔面から地面に突っ込んだようだった。おばあちゃんは額とほっぺに派手に擦り傷を作り、顔面のみならず上着やショルダーバッグにまで大量の血がべっとりついていた。「大丈夫ですか?」と声をかけてもただただ状況がつかめずにパニックなようだった。通りすがりのスーツ姿のサラリーマンがスマホ片手に寄ってきて、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけた。それほどでもないかなと思いながら「どうします?」と尋ねたら、「そうねぇ、そうしてもらおうかねぇ」ということだったので電話をかけてもらった。幸いひさこの住むマンションの前だったので住所を伝えるのも問題がなかった。救急車の手配を終えたサラリーマンが立ち去った後、「救急車が来るまで一緒にいましょうか?」と尋ねたらおばあちゃんは「心細いから一緒にいてくれるとありがたいわ」といった。


 救急車を待っている間におばあちゃんは徐々に落ち着きを取り戻してきた。そのころ向かいのマンションから管理人のような人が「大丈夫?これ使いな」とティッシュケースを持ってやってきた。おばあちゃんは、ひさこにむかって「いろんな人に親切にしてもらって、今日はとってもいい日だわぁ」と顔面血だらけの顔で笑った。落ち着いてきたおばちゃんはやたらに家に置いてきた猫の心配をしていた。病院に泊まることになったら猫がいるから困るわと。「大丈夫だと思いますよ」と言ってもおばあちゃんは何度も何度も猫の心配をした。その間もおばあちゃんはひさこの手をぎゅっと握りしめたままだった。


 しばらくしたら救急車の音が聞こえてきた。ようやく救急車が目の前に止まってサイレンの音も鳴りやんだ。降りてきた救急隊員におばあちゃんは「転んじゃったのよぉ」とだけ言った。困ったような顔で救急隊員がひさこの顔を見たので、ひさこが一部始終を伝えた。その後おばあちゃんはひさこの手から救急隊員の手に握り替えて振り向きもせずにゆっくりと救急車に乗りこんでいった。おそらくその時にはすでにひさこの存在は忘却の彼方であったのだろう。代わりにおばあちゃんの手を引いていた救急隊員がひさこに会釈した。


 救急車のドアが閉まって再びサイレンが鳴りだした。ひさこは救急車が見えなくなるまで見送った。そしてスーパーへと歩き出したひさこは全くの日常に戻っていった。掌に残ったおばあちゃんのぬくもりを残して。

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