クローズド・レイク

 馬車は、森の中を走っていた。鬱蒼と木々が生い茂るガザの樹海を、ボンガスは手慣れた様子で進んでいく。ボンガスが馬を操り、馬が幌馬車を引き、幌馬車が荷馬車を牽引する。マヌーム川と並走する砂利道を、上流めがけて突き進んでいる。


 ガザの樹海。自然の迷宮と呼ばれるこの地では、迷子になる人間が絶えない。ある者は無謀な冒険心を発揮して森に入り、干乾びた死体となって発見された。他のある者は偶然森に迷いこみ、そのまま二度と見つかることはなかった。


 しかし、元・木こりのボンガスは樹海のことを知り尽くしている。シエマ湖に至る道を、最短距離で突っ走ることができる。


 やがて、一行を乗せた馬車はマヌーム川から離れ、より細く、より暗い道に入った。これで行程の四分の三が終わったことになる。ボンガスは慎重に手綱を動かした。後方からマーメイドたちの高い声が、時折耳に入ってくる。詳しい内容は分からないが、どうやら自然観察を楽しんでいるようだ。海に生きるマーメイドには、森の風景が物珍しく映るのだろう。


 馬車は駆け、森の奥へ、さらに奥へ、もっと奥へ。そしてついに、緑に囲まれた紺碧の秘境へと到達した。


 神秘的な景観が目の前に広がっている。水は青く澄みわたり、穏やかな湖面には波一つない。濃淡の異なるクリーム色の土が、岸辺に縞模様を作っている。土と水と木が静謐な調和を見せる、壮麗な空間。


 シエマ湖に横づけする形で、ボンガスは馬車を停めた。途端に、水の跳ねる音。ニーファたちが水槽から湖に飛び移ったのだろう。


 ボンガスは馭者台から降りた。案の定、五人のマーメイドはすでに湖の中にいた。迎えに行った時と同じように、横一列に並んでこちらを見上げている。リリアだけは相変わらず、視線を合わせようとしなかったが。


「ボンガスさん、ありがとー!」ニーファが言った。


「長旅お疲れさん。夕方になったら、また迎えに来るからな」


「うん、よろしくー!」


 ニーファたちは岸を離れ、湖の真ん中へと泳いでいく。乗客の無事を見届けてから、ボンガスは帰り支度を始めた。馭者台から折り畳んだ白い布を引っ張り出すと、荷馬車の水槽にそれをかぶせた。ゴミやホコリが入らないようにするためだ。


 準備が済んだので、ボンガスは馭者台にのぼり、馬車を発進させた。五人のマーメイドを残して、ボンガスはシエマ湖を去った。その間際、マーメイドたちの楽し気な笑い声が、耳に届いたような気がした。




 数時間後。別の場所で、送迎の仕事をいくつか済ませた後、ボンガスは再びシエマ湖に戻ってきた。昼間の熱気はすでに消え、太陽は地面に近づいている。とはいえ、日没までにはまだ時間があるので、明るいうちにガザの樹海を通り抜けられそうだ。


 ボンガスは水際に馬車を停めると、ニーファたちを呼ぶために角笛を吹いた。張りのある硬質な響きが、清澄な湖の空気に染み渡っていく。反応はない。きっと彼女たちは湖底で遊んでいるのだろう。ボンガスは角笛を脇に置き、ニーファたちが水面に現れるのを気長に待つことにした。彼は幻想的な湖を眺め回し、そして異変に気づいた。


 馬車から二十歩ほど離れた地点。水と陸にまたがるように、マーメイドが一人倒れている。遠目にも、それがニーファだと分かった。ボンガスは座席から飛び降りると、大急ぎで彼女の元に駆け寄った。


「おい、大丈夫か!」


 返事はなかった。銛のような武器で胸を貫かれ、ニーファはすでに絶命していた。


 辺りの風景を注視するボンガス。よく見ると、比類なき青さを誇る湖面の一部が紫色に染まっている。近くには、ぷかぷかと力なく漂うマーメイドの死体が。


 ボンガスは馬車に戻り、角笛を大音量で三度吹いた。誰かが生き残っているかもしれない――その可能性に賭けたのだ。しかし、返ってくるのは不自然なほどの静けさだけで、生き物の気配はつゆほども感じられなかった。


「た、大変だ。早く誰かに知らせないと……!」


 ボンガスは幌馬車に乗りこむと、力任せに手綱を引っ張った。驚いた馬が、いななきをあげて馬車を急発進させる。ボンガスは来た道を引き返し、警察騎士の支部へと一目散に駆けて行った。激しく動揺していたので、ガザの樹海を走っていた間のことは、ほとんど覚えていなかった。

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