第8話 姉の存在

 ワゴン車の中は揺れが気持ちが良く、二時間も昼寝をしたのにまたもや睡魔がやってくる。

「疲れた?」

「いいえ……あの……疲れました」

 答えになっていない返事を返すと、ユキさんは笑って俺も、と答える。反対車線でトラックが通り、ヘッドライトの明かりで彼が照らされた。小さな黒子がよく見える。

「本当によく頑張ったね。すごく、仕事がしやすかった。みんな暖かくて、心地良い空間」

「サークルに入って良かったです。お弁当もとても美味しかった」

 結局半分ほどしか食べられなかったお弁当は、雷太君の腹の中へ消えた。体調のせいで食欲がなかったわけではない。好きな人に見つめられて、箸が進まなかっただけだ。

 信号が赤になり、ワゴン車が停止すると、そのタイミングに合わせてユキさんは口を開く。

「どうして、ハルだって名乗らなかったの?」

「……名乗れなかった」

「どうして?」

「……僕は、病気だから」

 大きなため息は、発進の音にかき消される。でも僕は聞こえた。後部座席で、隣に座っているから。今から病院へ行かなければならなくなった。強情なユキさんが、首や打った頭の怪我を診せに行くと言い出したからだ。彼のマネージャーも賛同し、結局僕の意見なんてこれっぽっちも聞いてもらえなかった。

「病気じゃない。言わなかったっけ? 確か次の週で、君からお礼の葉書が届いたと思うんだけど」

「確かに……書きました」

「本当に好きな人から、好かれていればいいんじゃないかな? 君は好ましく思わない人からも好かれたいの?」

 父の顔が浮かんだ。今日は良く現れてくれる日だ。招待なんてしていないのに。

「偏見が……家族であるので」

「誰かな? お母さんのことはよく書いてくれるよね」

「父です。中学生の頃に僕の性癖がばれて、家族が崩壊しました。元々厳しかった父が苦手でしたが、普通に戻れ、お前は病気だ、と言われ続けていたので」

「きっと、お父さんはお父さんなりの正義や許せないもの、譲れないものがあったんだろうね。それが晴弥君の持つものだった。お互い、父には苦労するね」

「え?」

 困惑したまま笑ったユキさんの顔は、見ていたいのに見ていられなくて僕は目線を窓に移した。もう病院の駐車場だ。

 ユキさんは先に降りて、手を差し出した。重ねられなくて宙を舞っていると、無理やり手を取られてしまった。気持ち悪くないですか、と出そうになり、僕は口を噤んだ。

 先生に診てもらうと、すぐに点滴を打つと問答無用で点滴室に入れられてしまった。当然のように付き添うユキさんと、今度こそふたりきりになった。

 もっと見ていたくて、鞄から黒縁眼鏡を取り出した。

「それが噂の黒縁眼鏡かあ」

「魔法のアイテムです。これがないとほとんど見えないんで」

「似合ってるよ」

「……………………」

「ダメか……整った顔立ちしてる」

「ユキさんがそれを言いますか……」

「あれ? なんでため息吐くのさ」

「世界一かっこいい人に言われても……」

 点滴しなくても元気は有り余っている。病気は気からなんて言うけれど、もう治った気がする。

 ユキさんは名刺を一枚出すと、僕に渡してきた。

「え? え……」

「頭の怪我もあるし、治ったかどうかこちらも確認する義務があるから、連絡をほしい」

「遠野……雪央」

「俺の本名だよ。雪央からとって、ユキ」

 人生初の名刺が神様からだ。

「名前も素敵ですね……」

「名前を褒められたの人生初かもしれない。必ず連絡がほしい」

「分かりました……」

「やっぱり、今交換しよう」

 流れに乗せられるまま、通話アプリのIDを交換した。人に身を任せる行為は、心に浮かぶまっすぐな地平線を簡単に凌駕するということだ。増えた枠には、ぽっと猫の画像が浮かび上がる。

「か、可愛い……」

「名前はソラっていうんだ。まだラジオでも紹介していない、うちの猫」

「ロシアンブルーですよね? いいなあ……僕の家は猫アレルギーの人がいるから飼えないんですよ」

「ふふ」

 うちの子をよくぞ褒めてくれた、と鼻が高い。そうこうしているうちに、最後の一滴が終わってしまった。薬を待ち望むなんて、きっとこの先一生ないだろう。

 帰り際に医師から何度も『紅茶は水分補給にならない』ことや『栄養をしっかり摂る』と酔っ払った親戚の伯父のように何度も言われ、僕は何度も頷いた。

 家に到着し、名残惜しくワゴン車を降りるとき、何度も振り返った。ユキさんもわざわざ降りてきてくれて、挨拶したいと訴えるがそれは丁重にお断りした。社会人として、僕の知らない目に見えない何かがあるのだと思う。けれど、僕も譲るわけにはいかない。確実に父がいる。対面させるわけにはいかない。

 ユキさんも時間跳躍をしたかのように、連絡をするように、と何度も繰り返した。おかしくて嬉しくて、壊れたポータブルラジオみたいだった。

 見えなくなるまで見送り、玄関に入ると、見慣れない靴がある。赤いハイヒールは母も履かない。

 僕が彼女に憧れている理由はいくつかある。そのいくつかの理由の一つは、これだ。ソファーで胡座のままビール缶を開け、美味しそうに呷る姿は、都合よく父を見えていないんじゃないのかとすっきりする。

「姉さん、おかえり。いつ帰ってきたの?」

「さっき。アンタ、その首どうしたのよ」

「ちょっと、打撲しちゃって。レントゲン撮ったけど、骨には異常ないよ」

 湿布が冷たく、暑い日にはちょうどいいくらいだ。父は相変わらず何も言わない。

「亜紀、いい加減にしろ」

「何よ」

「胡座などみっともない」

「私はこれが普通なんだよ」

 自分のスタイルを貫く姉は、際どい言葉なんて物ともせず、言葉の圧力に応戦している。

 姉の亜紀は宝石店で働いているが、働き出した理由は「汚いもので溢れる世の中、綺麗なものを見ると心が浄化される」から。

 キッチンから顔を出した母にも心配され、大丈夫だと今日何度目か分からない言葉を口にする。文化祭でちょっとした事故があったんだと、軽い説明だけで済ませた。

「三人ともご飯にしましょう。亜紀も、こっちで飲みなさい」

 今日の夕食は寿司だ。四つの桶がそれぞれ並び、姉の隣に腰を下ろす。大きな桶では、僕は手を伸ばせない。父に萎縮してしまうせいもあるが、いなくても箸を入れるのが苦手だった。冬には欠かせない鍋も、僕はあまり得意じゃない。

「今日、大学で文化祭だったんだって?」

「うん」

「ナオキが来たってマジ?」

「来たよ」

「どんな人?」

「テレビで観るのとおんなじ感じ。大騒ぎだった」

 ナオキファンの姉さんにはやましいことがいろいろとあるので、なるべく言葉少なめに寿司を口に入れた。

 まさか彼のスタッフにより胸倉を掴まれたなんて到底言えない。しかも解決もしておらず、うやむや状態だ。

「サインくらいもらってきて欲しかったわ」

「そういうの禁止なの」

「いい加減に黙って食べなさい」

 噛み切れていないマグロを飲み込んでしまった。喉に引っかかる感覚が抜けず、麦茶を一気に喉を通した。父の言葉はいつだって胸に突き刺さる。刺さる刃物はへし折れず、幼少期からの刃も刺さったままだ。

「なによ。久しぶりに弟に会ったんだから喋っても問題ないでしょうよ」

「ごちそうさま」

 焼き肉弁当に続き寿司も半分ほどで食事を終えた。僕の好物なのにつくづく縁がない。体調の良いときに食べたかった。

 名残惜しさもあるまま、部屋のベッドに横になった。食べたかった納豆巻きからなかなか頭が離れず、鞄についている猫のキーホルダーを見る。友達の雷太からもらったものだ。

 徐々に納豆巻きは頭から離れていき、今日あった一日の出来事が鮮明に浮かんでくる。怒涛の連続だった。

 端末の中には、しっかりとユキのIDが刻まれている。夢ではない。

「晴弥、入ってもいい?」

「いいよ」

 地味な顔立ちの僕とは違い、化粧のせいもあってか姉は派手な顔をしている。

「悪かったね。来て早々喧嘩になって。父親苦手なの分かってたのに」

「別に、姉さんのせいじゃないよ。僕は話したくなくてただ言い返さないだけだし」

 性癖が家族にばれて、いの一番に庇ってくれた姉さん。母さんよりも早かった。間に挟まれた母さんは、どうしていいのか分からないでいた。それでいいと思う。間に入って取り持てる人は、そう多くない。

「大学はどう?彼氏できた?」

「いないよ、そんな人。好きな人ができても、僕にはどうすることもできないし」

「同性愛者の集まる飲み会とかさ、都内だとたまにあるみたいよ。積極的に参加したら?」

「そうだね……」

「やる気のない返事ね。無理に行けとは言わないけど」

「姉さん、お酒臭い」

 部屋に臭いが染み付いたらどうしよう。帰ってくるたびにこんな臭いなんて、冗談じゃない。

「来年だけど、海外に留学するから」

「え? なんで急に?」

「それ言おうと思って帰ってきたの。宝石の資格取りたいのよ」

「無理に取らなくても……」

「それは言われたわ。けど日本は資格主義だから。取らずにいられないのよ。資格のない有能と資格のある無能なら、いつだって必要とされるのは圧倒的後者。ちなみに私はどちらにもなるつもりはない」

 酔っ払いの演説ほど鬱陶しくて気が萎えるものはない。なのに、なぜかずっと側で聞いていたくなり、そんな姉は、いたずらな風のように、もうすぐ過ぎ去ってしまう。さみしい。 

「……行ってほしくない」

 いい子いい子、と子供のように頭を撫で回された。ビールの臭いがむさ苦しい。

「姉さん離れができない、どうしよう」

「海外だって連絡くらいできるでしょうよ。別に一生帰ってこないわけじゃないんだから」

「僕には姉さんの人生を縛る権利もないからね……」

「そういうこと。大学で、ちょっとでもいいなって人はいないの?」

 話が戻ってしまった。

「いたとしても、床に散らばる割れたガラス細工の中から0.2カラットのダイヤモンドを見つけるようなものだよ」

「同世代より、人を見る目は備わっているはずよ。アンタの方が宝石商向いてるんじゃないかって思うくらいには。妨げられた人生は、養われたものもある」

「それが人を見る目ってこと?」

「ぐれずによくここまでちゃんとしてきた。良い大学にも入って、英語を勉強して、本当に頑張った。それはどんな友人と付き合えばいいか、どんな教師が頼れるか、ちゃんと成長できた部分があるからよ。繋がってる」

「そうかな?」

「そうだよ。万が一これから人付き合いで失敗しても、それを糧にしな。アンタなら乗り越えられるから」

「酔っ払いの話のわりには実りのある講演会だった」

「お金はいらないよ。タダにしてやる」

 僕には備わっていない男らしさをこれ見よがしに投げつけ「帰る」とだけ言い残し、部屋を出ていった。

 たくさんのものを置いていってくれたのに、部屋に残ったのは酒の残り香と空虚感だけだった。

 僕は、今も母と姉離れができていない。いつも心の隅にいて、あれば二人を頼る。慰めてもらい、背中を押してもらわなければ前を向けない。

 こんな僕でも、いつか誰かのために生きられるのだろうか。もし僕を好いてくれる人が現れたなら、その人を笑顔にできるだろうか。

 ユキさんは今、幸せだろうか。

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